Stage13-2
――――速い。
春風は登りで黒羽の前に出ることができなかった。彼は春風が振り落されないぎりぎりのスピードで坂を駆け上がり、前から落ちてきた選手をかわしていった。
登りの速さは出力と重量の比率、そして高出力を維持できる時間で決まる。どんなにケイデンスを上げようとも、どんなに体重を絞っても、パワーがなければ登れはしない。また、どんなに出力を上げられても、一瞬だけでは意味がない。
高出力・高耐久。
高峰黒羽は紛れもなく、その素質を兼ね備えたクライマーだ。
「平地と下りはお前も回せ」
「はい……ッ!」
下ハンドルを握り、速度も交代のタイミングも黒羽に合わせて走る。当然のことながら凪沙と走っている時よりも圧倒的に速い。昨日聞いたところによると、黒羽は今月のインターハイのロード競技において、一時的にとはいえ先頭争いに加わったクライマーだという。春風たちよりもずっと上の実力を持っている選手だ。
だが、だからこそ退きたくない。
天崎に行こうと小豆餅に行こうと、いずれは倒さねばならない相手だ。今ここでついていくことを諦めたら、次もきっと諦めてしまうだろう。負ける痛みを忘れないように、全力で挑むべきだ。
――――つっても、このまま二人きりじゃもたねぇ……。
精神論だけでは限界が近い。他にも誰か協力者がほしいのだが、前でちぎれてきた選手は皆、二人をスルーするか、追おうとしても脚がないかのどちらかだ。こんな時、雪路がいてくれたら――。
「お呼び?」
「雪路さん!」
ヘアピンの後の下りで雪路と合流した。脚を緩めて待っていたらしい。これには黒羽も意表を突かれたようで、普段に近い声を上げる。
「なんでユキがここにいんのさぁ!?」
「落車があったっていうから、黒羽くんはきっと巻き込まれただろうと思って、待ってたんだ。ねっ、三人で追いかけよう」
「……ったく。ほんと、お前が女の子だったらよかったのになぁ! 愛してるぜ!」
「く、黒羽くんってば、変なこと言わないでっ……」
言葉を交わしながら三人は再びスピードに乗る。雪路を先頭にして直角に近いカーブを抜けた。相変わらずきわどいラインを攻めていくが、もう驚きはしない。雪路のコーナーリングはすでに目に焼き付いている。
黒羽、春風、雪路の順で回し続ける。二人の時より肉体的にも精神的にも楽だ。風除けの後ろにいる時間が長くなったため、少しずつだが呼吸に余裕が出てきた。酸素を充分に取り込めるようになると四肢の動きも良くなっていく。
――――速い。
――――速いって、気持ち良い。
春風は今、一人で先頭を牽いていた時とは違った感動を味わっていた。仲間と競い合うようにして加速していくのが堪らなく心地良い。チームには自分一人では決して出せない力がある。高校の団体種目で黒羽や雪路と走れたら……この人たちと全国の舞台を走れたなら、どんなに楽しいだろうか。
まぶしい未来を思い描く春風は、今ならどこまでだって走っていける気がした。
誰よりも速く、この道の彼方へ。
「……にっひひ」
S字カーブには春風が先頭で突っ込んだ。背後の雪路が悲鳴を上げる。
「突っ込みすぎっ……」
――――行ける。
視界にイメージした自分の動きをトレースした。濡れた路面を蹴立てて一気に走破する。仮想の自分に追いつき、コーナーを抜けた。横にずれる前に黒羽に追い抜かれ、先頭を交代。そこからさらに一巡して、ホームストレートは黒羽が一人で引っ張っていく。
コース脇で玲佳が声を上げた。「四周目! 先頭まで追いつけるぞ!」
「分かってんよ!」
黒羽がギュンギュンとペダルを回し、歓声を切り裂いていく。春風は自分のペダリングを気にする余裕もなく、とにかく追いすがることに全力を注いだ。
――――速い、本当に……!!
だからこそ燃える。いつも以上に生きていると感じる。
集団の時よりもずっと高速でシケインを突破した。その後の下りで春風が前に立つ。先頭集団についていけなかった選手の姿が増えてきた。もう一息のはずだ。イメージの中で頬を叩き、気を引き締め直した。
ギアを上げ、ぐいぐいとペダルを踏んでいく。途中でまだ元気のあった選手を二人吸収し、隊列が少しだけ長くなる。
雪路が隣に並び、春風の顔を覗き見て笑った。
「ねえっ、春風くん!」
「何すか!?」
「いま楽しい!?」
「当ったり前……ッ!」
「ぼくも! だからさ」雪路が風の中で声を張る。「高校でも一緒に走ろうよ!」
「え」
「……あ」
凪沙を追い越した。
雪路も気づいたらしく、ばつが悪そうに前に向き直った。春風は雪路と並走したまま思案する。いつまでも「選べない」とごねてはいられない。決着の時はすぐそこまで近づいてきている。
「春風」
落車直後と同様に冷たい声が聞こえた。黒羽はこちらを振り向きもせずに言う。
「本当に手にしたいものがあるなら、どんな代価でも支払うべきだ。何も捨てられないのなら、お前が欲していたのはその程度の価値しかないものだってことだ」
「…………俺は、」
坂を下り切り、凪沙の方を振り返る。かなり消耗した様子の彼女は泣きそうな顔でこちらを見ていた。いつも睨みつけてくる時の鋭さはもう感じられない。ただのか弱い女の子だ。
凪沙と走る未来と、雪路や黒羽と走る未来――その二つを天秤にかけた。
『きみはきっと、ずっと、間違ってなんかないよ』
誰かの感情論と春風の論理がぶつかった時――それはきっと今だ。
理想論より、論理的に。
春風はやっぱり、スポ根の主人公にはなれないみたいだった。
「……俺は、小豆餅に行きます」
ヘアピンカーブを曲がり切ったところで先頭集団の背中を視界に捉えた。先ほど吸収した二人も合わせた五人で回し、確実にまくっていく。
――――ほんと……最低だ、俺。
昨晩凪沙に言われた通りだ。追いかけ回して仲間ぶったのは春風の方なのに、都合の良い相手が見つかったらそちらに乗り換える。残された彼女はもう、出会った頃ほど孤独に強くないというのに。勝手に手を差し伸べて、勝手に切り捨てるのか。
またしても気分が顔に表れていたのか、先頭交代の際に黒羽からヘルメットを小突かれた。
「泣くのは後な」
「泣いてないっす……俺が泣いちゃいけない」
雨か涙か知らないが、目元の水滴を拭い去った。
自分には被害者や善人ぶる資格はない。凪沙に誠心誠意謝って、あとは彼女の涙と釣り合うだけの結果で償うべきだ。二人で走った日々が無意味だったと思わせないように、春風が自転車で証明するべきだ。
「…………ふぅ」
ゆっくりと息を吐く。にひっと唇を緩めてみて、よかった、まだ笑える――と安心した。俺はまだ戦える。だから凪沙に、今あげられる最高の成果をくれてやろう。
「黒羽さん」
「あン?」
「もうすぐ先頭に追いつきますけど……そしたらサシで勝負しましょう」
仮に彼との勝負の結果、三位以内に入れたとしても、小豆餅高校へ進むつもりだ。
お互いの実力差も、才能の違いも分かっている。
それでも、凪沙が誇ってくれるだけの結果が今すぐ欲しい。
「いいぜ」
即答だった。
軽い遊びのつもりか、もともと逃げ切るつもりだったのかは知らないが好都合だ。
「けど、勝負すんなら追いついてからじゃねぇ――今からだ」
言うが早いか、黒羽が仕掛けた。春風も当然追いかける。話を聞いていた他のメンバーも反応し、結局全員で風除けを交代しつつ、先頭集団との差をみるみるうちに縮めていく。その間にも黒羽が飛び出そうとするが、彼がアタックするたびに春風が潰す。
先頭集団は二十人もいなかった。春風たちは第二コーナーでプロトンのしっぽに食らいつき、ホームストレートで今度こそ黒羽が飛び出す。外側から先頭集団を抜いていった。周回を告げる合図が鳴る。
五周目。
先頭集団も黒羽に反応した。彼を先頭にして集団が縦に引き伸ばされる。
――――誰にも先頭を譲らない気かよ……!?
レースはまだ一周残っているというのに、正気の沙汰ではない。勝負を挑んだ春風さえ尻込みするほどの速度と気迫で黒羽は先行する。
怯んだ。
勝てないと直感してしまった。闘争心が揺らいだ。
「ハルッ」
ふいに懐かしい声がした。
そちらを見上げて、春風は自分がうつむきかけていたことに気づいた。
コースの脇に、カメラを構えた人々に混じって、ひょろ長い少年が立っている。髪がやけに短くなっているが、不機嫌そうな口元も、眠そうな目も、スポーティなデザインの眼鏡も、あの忌々しい引退試合の時のままだった。
奴は春風の名前を呼んだ以外、何も言わなかった。「がんばれ」の一言さえなく、試すような目でこちらの動きを追っていた。
二人の間にはまだ、当然、わだかまりが残っていて。
けれども、だからこそ、今この瞬間だけは憎たらしい視線が力をくれる。
「……上等だ」
火が着いた。
唇を噛み、ブラケットを握りしめる。記憶の片隅で燻っていた闘争本能が爆発し、春風を急激に前へと推し進める。
――――ぶっ潰せ。
――――全力で全員ぶっちぎれ!
ダンシングで黒羽の前に出た。後ろの集団を切り離すため、可能な限りの速度でシケインに突入する。タイヤのグリップ力ぎりぎりのところで切り抜け、ここで得たわずかなタイム差を広げるためにすぐさま再加速。
振り切れない。
わきの下から後方を覗くが、黒羽はぴたりとついてきている。コーナーリングで振り切れないなら、次は下りでの力勝負だ。ここは春風の脚質が活かされる区間。登坂の前に黒羽からリードを奪わねばならない。下ハンドルを握ってスプリントを始めた。
――――振り向くな!
余計な動作を挟む余裕などない。後ろを確認したい欲求を抑え、一直線に駆け下りていく。ケイデンスが上がるにつれてギアを重くしてゆき、最後は一番重たいアウター×トップのギア比でペダルを蹴る。春風は高校生の規格に合わせているため大人のものよりもギア比が軽いが、その差は回転で補うしかない。
回せ、回せ、回せ。
普段のダッシュ練習が、一回のスプリントにつき七秒~三十秒ほど。目的に応じて秒数を変え、インターバルの長さも変えている。長くスプリントした時には、次に満足に動けるようになるまでそれだけ多くの時間を要する。
つまり、中途半端に仕掛けると動けなくなった隙に差される危険が大きいということだ。やるならとことん全力で距離を広げねば意味がない。
気づくと脳内の秒読みを忘れていた。すでに下りが終わろうとしているが、酸欠で視界の端に星屑が散り始めている。――まだ行ける。まだ走れる。
「ハッ……」
のどがヒュッと鳴った。無酸素運動の限界に達し、身体が酸素を求めている。胸いっぱいに空気を吸い込もうとするが受け付けず、咳き込んだ。
あと、もう少し。
下りきるまでどうにかもがき切った。惰性を使って登り始める。肺も脚もつらいまま、休む暇もない。体重を乗せてペダルを踏みつつ、ポイントの地点で横目に後ろを確認した。ちぎったか……?
「速いじゃん、春風」
黒羽は逆サイドにいた。春風の斜め後ろで肩を上下させながらも、薄ら笑いを浮かべている。その表情の不気味さよりも、自分と彼の力量差にぞっとした。勝つつもりでいたことが恥ずかしくなるほどの隔たりを感じる。次元が違う……。
「まぁた顔に出てんぞ」黒羽が軽やかにダンシングして抜き去っていく。「そんなにがっかりすんなって。お前速ェよ」
「くッ」
そんな言葉が欲しいのではない。黒羽に褒められるためではなく、凪沙のために走っているのだ。まだ退けない。負けられない。
突如、獣のような咆哮が大気を震わせた。それが自分のものだと気づきもせずに、春風はもう一回、今度は登りでスプリントする。黒羽までの差を瞬く間に詰めて先頭へ。しかし彼はすぐに追いついてきて、頬を引き攣らせながら笑った。
「おいおい……もうその辺にしとけって。怪我すんぞ」
「づっ……」
両方の太ももが連続で攣りかけた。それでも春風は止まらない。酸素を失い、身体が命令を拒否しようとしても、意志の力ですべてねじ伏せ、ペダルを踏む。
「!」
黒羽がシフトアップした音を聞き、先手を打って加速した。右脚が攣る。それでも止まることなく、唸り声を漏らしながら重力に抗う。
「化け物かよ……!」
そう言いながら黒羽はついてくる。依然として余裕がありそうだ。
だから春風は、三度目のスプリントに挑む。
…………動かない。
膝から力が抜けた。ダンシングできずにサドルに腰が落ちる。右脚も左脚も、腕も、指さえもまともに動かせない。ちょうど登り切ったおかげで倒れずに済んだが、平地とは思えないほどにスピードが出ない。
「……やだ」
まだ終わらない。まだ負けていない。
俺はまだ走れるんだ――。
「もうやめろ」
黒羽らしくもない、気づかいに満ちた声を掛けられた。
「怪我したら元も子もないだろ。勝負はお預けだ」
「……でも、俺は」
「そんな状態で戦えるほど、ゴール前は甘くないだろ」追いついてきた集団に戻りながら、黒羽はひらりと手を振った。「高校で待ってる」
返事は出来なかった。
春風は一人、取り残された。途中で足を着くのは絶対に嫌で、下り坂になるまで一踏み一踏み痛みに耐えながら走った。惰性で下り始め、足を止めると、我慢していた涙が零れてきた。
「……次は、負けない」




