Stage13-1
鈴鹿ロードレース二日目は予報通りの雨だった。
「ナギは雨女じゃないかと思うんすよ」
一周目のホームストレートを登りながら春風は言った。
「前にナギから勝負を挑まれた時も雨だったんすよね。っで、パンクで帰れなくなったあいつを迎えにいって、俺までびしょびしょに」
「青春だねぇ。毎日美少女とサイクリングとか、くっそうらやましい……」
軽口で応じた黒羽に対し、一つ前を走る雪路が心配そうに言う。
「でも、凪沙さん大丈夫かな……今朝から元気ないけど。春風くん、凪沙さんと何かあったの?」
「……ご想像にお任せします」
「ん……進路のことは聞いたし、なんとなく分かるけど。あとでちゃんとフォローしなきゃだよ?」
「はい……」
春風たちよりも前方右側にいる凪沙を見やり、胸がちくりと痛む。
昨日の夜、凪沙が提示した条件はこうだった。春風が父との賭けに敗れた場合、二日目のレースで春風の方が上位ならば、春風は小豆餅高校へ。凪沙が上位ならば島に残るか、両親に土下座してでも天崎高校へ進学すること。
つまり春風が三位以内に入れば問題ない。
これまでの希望通り、凪沙と二人そろって天崎へ行ける。
――――この人たちに、勝てればだけど……。
「とにかくぼうっとすんのは後な」黒羽に背中を叩かれた。「天気悪いし、たぶん今日は昨日以上に荒れるからねぇ。気をつけてないと落車に巻き込まれて終わっちまう。注意してても避けれなかったりするけど、呆けてる時とは怪我の度合いが違うからな」
「うす」
「言葉の重みが違うよね。黒羽くんは落車のプロだし」
「まぁな。でも今日はお前がいるから大丈夫さぁ。頼りにしてるぜ」
「うんっ」
集団はホームストレートを走り抜け、続くシケインで間延びした。誰もが落車を意識しているのだろう、雰囲気がぴりぴりと張り詰めている。スピードも心なしかゆっくりだった。
西ストレートを下り、スプーンカーブへ。雪路の判断で小豆高自転車部が動き出す。春風は当然便乗した。集団の後方は落車やそれに伴う中切れの危険が大きい。黒羽は積極的にアタックを仕掛けるつもりだとも言っていたから、攻守両方のためにできるだけ前方に位置する必要がある。
しかし如何せん人が多い。まだほとんど脱落していないから九十人もいる。三人は凪沙よりは前に出たものの、先頭交代に関わることのない位置についた。一周目はまず様子見だと聞いている。無理に動こうとせずに大人しく走り、不要なリスクを排除する。
だが、コーナーが怖い。
まだ雨脚は弱いが路面は充分に滑りやすくなっている。特に逆バンクの――外側が内側よりも低くなっている――ヘアピンカーブは危険だ。集団内で声を掛け合って、あとは誰もミスしないことを祈るしかない。
「雨って嫌だわ……ほんとやな感じ」
黒羽がぽつりとつぶやいた。
同感だ。
雨は落車の危険が増す上に、ジャージが肌に貼り付いて気持ち悪いし体温も奪われていく。自転車用のレインコートを着るという手もあるが春風は持っておらず、黒羽たちも距離が短いからとオイルしか使っていない。
特に目立った問題が起きないまま一周目が終わりに近づいてきた。S字カーブの手前で急にペースが上がり、前後の車間が広がる。先頭付近で誰かが動いたようだが、雪路はまだ動かず、前の選手に合せてついていく。コーナーが終わってから前進した。
直線の間に集団が再びまとまった。二周目。集団は逃げた選手を泳がせたまま、じりじりと距離を詰めていく。そのまま西ストレートを下り終えて登り坂へ。集団後方で誰かが倒れた音がして、ほぼ同時に注意の声が上がる。「落車ァ!」
この区間では先頭から徐々に減速するので、集団内が窮屈になる。下りで獲得した速度をもてあそび追突したのだろう。
「――やいやい、マジかよ」
ヘアピンカーブに差し掛かり、黒羽の顔から薄ら笑いが消えた。前の組でも数台が絡む落車があったばかりらしく、怪我人がコース外に運び出されるところだった。集団は著しく減速を強いられる。
「上がろう?」
「いえっさー」
コーナーを抜けると雪路がダンシングで加速した。ばらけた選手たちの合間を抜いて先頭の方へ駆け上がろうとする。下りで集団が再加速するが、ここで黒羽が牽き始めた。速度の差がつきにくい下りでも着実に前へ上がっていく。
前にいた選手に合流した。大人たちに続いてテグナーカーブを抜け、集団の先頭を捕らえる。後続の選手もまばらに追いついてきたようだ。凪沙が来たかは確認できなかったが、まだ後ろにいるとしても、彼女なら問題なく追いつくだろう。
春風も先頭交代に加わった。逃げていた選手が戻ってくるのを確認。ホームストレートで吸収し、何事もなかったかのように進む。スタート時から変わったことといえば、後方の選手がいくらか離れたことと雨の強さくらいか。春風は裸眼で走っているため鬱陶しいことこの上ない。
レースは三周目に突入した。
ポイント周回を告げる合図の直後アタックがかかった。集団全体の速度が上がり、これは失敗に終わった。……と思いきや、立て続けに他の成人選手が飛び出す。三人が加わり、そこに雪路も飛び乗った。このアタックはポイント狙いのものだろうが、ゴールまでの逃げ切りも想定される。逃げ集団に混じって速度を抑えるのが雪路の役目だ。
「さて、俺らも追いますかぁ」
「うっす」
このまま雪路に任せきりにするわけにもいくまい。あまりリードを奪われすぎると、逃げ切りを狙われる可能性が高くなる。春風と黒羽は積極的に先頭を牽き、下り坂に入った。ポイント争いの小集団は射程内だ。黒羽、春風の順に後退し、先頭交代に入れる位置をキープする。
ステムに取り付けたサイクルコンピュータで確認すると、メイン集団の速度はこれまでの周回よりも上がっていた。数人が逃げているためだけでなく、もう三周目で雨に慣れてきたのかもしれない。
黒羽がぼそりと吐き捨てた。「……嫌な感じ」
「雨、強くなってますね」
「じゃなくってさ。俺の不幸レーダーが囁いてるんだ」
「ハハッ。そんな能力があんなら怪我することなくないっすか?」
「いや春風よ。こんな名言を知ってるか? 予測可能、回避不可」
「!」春風の目が前方の異変を捉えた。「落車!」
「ノォ――――――――ッ!!」
黒羽が左に、春風が右に動いた。
接触があったのはメイン集団の先頭だ。交代の際にタイヤを接触させていた。春風たちまでは距離があったが、右に逃れたのは失敗だった。集団がコースの右寄りを走っていたせいで逃げ場は少なく、おまけに転倒した選手と巻き込まれた選手が横倒しになり進路をふさぐ。ただでさえスピードに乗っている上に、路面の状態は最悪。止まりようがない。
「ッ……!」
無意識に片脚をペダルから外し、左手でブレーキを引いていた。クリートが削れるのも気にせず地面を蹴り、同時に後輪をロックして滑らせることで障害物を回避。車体はそのまま外に流れ、コースアウトした。震えるハンドルを必死に押さえつけ、ガードレール寸前で停止する。
「――ぶはっ……はぁ」
止めていた息を吐き出し、酸素を求めた。何とか怪我をせずに済んだが、顔を上げると、落車と縁のなかった後方の選手が続々と目の前を過ぎていく。その中には凪沙もいた。心配そうな目で見つめてきたものの、彼女は止まらずに走り去る。今は敵同士だ。
落車したのは六人。ほとんどは自力で走路の外に移動しているが、起き上がれない者もいる。動ける自分が助けるべきだ――春風は右足も外すため足首を捻ろうとするが、道の反対側から黒羽に呼ばれる。
「春風! パンクしてないか!?」
「えっ……と、大丈夫っす! でも先にこの人たちを」
「ほっとけ」半身が泥水で汚れた黒羽がこっちに来た。「怪我人の回収は俺らの役目じゃない。そういうのはやるべき奴がやる」
「けど、」
「お前がすべきことは何だ」
――……キレてる?
間延びした口調ではなく、有無を言わせない力を秘めた言葉に気圧される。黒羽が背後を指差した。目を向けるとコース脇に控えていた係員が駆けてくるところだ。
「お前、このレースに勝たなきゃいけないんだろ。ならつべこべ言わずにペダル回せ。見ず知らずの他人なんて切り捨てろ。ほんとに欲しいもんがあるなら走れ」
「……はい」
「中途半端なままじゃ、俺には勝てねえよ」
舗装路に戻り、再び走り出した。前を行く選手はもう見えない。ずいぶんと差が開いてしまったように思うが、勝算はあるのだろうか。
「なぁ春風。俺が昨日言ったこと覚えてるか?」
「『運に関わらず勝てたら最強』……的なあれですか」
「そう、それだ。知ってるか?」
登りが始まり、黒羽が腰を浮かせる。初めて見た時の凪沙の背中とダブって見えた。
いや、実際には彼女よりもさらに無駄がなく、力強く、洗練されている。
「逆境ってのは、自分の強さを証明するためにあるんだぜ」




