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西果てのローディ  作者: 中村なめ
2/25

Stage1

 競技用自転車の一種・ロードバイクの値段はママチャリと比較にならないほど高価だった。とても中学生が手を出せる代物ではなく、手に入れるには親の力を頼るしかない。


 が、ようやくロードバイク購入の許可を得られたのは、三月がもう終わる頃だった。毎日毎晩、静岡の両親に電話を掛けて交渉し続けて、お年玉貯金を切り崩し、最後は祖父母にも金を借りる約束をして、ようやく購入までこぎつけた。


『まぁ、お前がまた元気になるんだったらなぁ。仕方ないか』


 と父が折れたのが昨日のこと。一晩明けて、春風はるかは早速近所の商店街に出かけた。平屋建ての家を出て、小ぶりなご近所さんを右手に見ながら細い道を抜けると、商店街に通じる道路にぶつかる。道を挟んで反対側は、来月から春風が転入する中学校だ。地元にいた頃は学校まで距離があったため、至近距離にあるのは素直にありがたい。


 左折して緩やかな坂道を下っていくとスーパーマーケットがあり、目的地まではそこからさらに五分ほどかかった。わずかに傾斜した商店街の端の方、坂道のてっぺん付近に『ミナトサイクル』はあった。数少ない自転車店の一つだ。


 ――――ここに、あの自転車がある。


 小さな店だが、あの少女がロードバイクに乗っていたのだから、一応この島にも取り扱っている店舗があるのだろう。期待に胸を高鳴らせてガラス戸を開けた。ママチャリや子供用自転車の並んだ雑多な店内を見渡すが、店員の姿が見受けられない。


「ごめんくださーい」

「はい、はい、いらっしゃい」


 店の奥から店長と思しき男性が現れた。年の頃は五、六十歳辺りだろうか。グレーの作業用エプロンを身に着け、スキンヘッドと思しき頭にはタオルを巻いている。愛嬌のある顔立ちで、笑顔が良く似合うかわいらしいおじさんだった。


「おや? 見ない顔だね。転校生?」

「はい、今度中三になります。……あの、自分、ロードバイク探してるんすけど。こちらで取り扱ってますか?」


 店内を見た限りではロードバイクは置かれていない。店長が微妙な表情を浮かべたことで、よその店へ行く選択肢が浮上した。


「悪いけど、うちでは一応ロードは取り扱ってないんだ。こんな小さな島だから需要もなくってね。安物のクロスバイクならあるけど……。他のお店でも売ってるって話は聞かないし、どうしても欲しいなら取り寄せるか、船で長崎まで買いに行くしかないかな」

「そうっすか……」


 春風はすっかり意気消沈してうつむいた。気まずい沈黙をごまかすためか、春風があまりに落ち込んでいたせいか、店長は慌てた様子で訊ねてくる。


「君はどうしてロードバイクに乗りたいんだい? たとえばサイクリングをしたいだけなら、クロスバイクで充分だと思うけど」

「……一目惚れしたんです」

「は?」

「こないだ、すげぇかわいい子がロードで走ってるのを見ました。裸足で追っかけました。顔面蹴られました」


 臆面もなく言い放った春風を見つめ、店長は口を半開きにしたまま固まっている。流石に引かれるだろうと分かってはいたが、他にうまい言い訳も浮かんでこなかったので正直に答えた。


「まじで一目惚れだったんです! いや! 決して彼女のことが女の子として気になるってわけじゃなくてですね、その子がロードで走ってる姿がすごく生き生きしてて、あぁ、俺もあんな風に走りたいなぁ――と」

「そ、それは衝撃的だね。というか普通、ロードで走ってるのを見ただけでそこまで感動しちゃう人ってなかなかいないよ?」

「いやぁ……なんていうか俺、挫折、しちゃいまして。ずっと腐ったままでいたんすけど、あの自転車に乗ったら変われるような気がしたんで。とりあえず走り出しちゃおうかと」


 そこまで言って春風は、遅れてやってきた恥ずかしさをごまかすように笑った。鼻の絆創膏を照れ隠しのため指先でさする。店長はと言うと、そんな春風を丸く見開いた眼でまじまじと見つめていた。店長のつぶらな目に気づき、春風は頬がさらに熱くなる。

 キュートな禿頭の店長はしばし黙考したのち提案した。


「乗ってみる? ロードバイク」


 予想外の言葉だったため理解が遅れた。丸い瞳に返事を促され、ハッとして頷く。


「は、はい! ぜひ! ……けど、ロードは置いてないんじゃ?」

「商品としては、ね。ちょっと待っててくれるかな、持ってくるから」


 店長は春風にパイプ椅子を勧め、自分は店の奥に消えていった。春風は頬が緩むのを堪えられない。

 ――――ロードに乗れる!


 期待と興奮ではち切れそうな春風にとって、店長が帰ってくるまでの時間は何倍にも引き伸ばされて感じた。実際には三分にも満たなかっただろうが、すでに我慢の限界だった。店長が押してきた華奢な自転車を目の当たりにした途端、飛び跳ねるようにして立ち上がる。


 細いフレームは黒を基調としたカラーリングで、下方手前に湾曲したハンドルには、やや黄ばんだ白色のテープが巻かれている。同じく白のサドルはママチャリのものと比べて細く、薄く、軽そうだった。タイヤの幅も見るからに細くて側溝の金網に引っかかりそうだ。


 これが、スピードを追求するための自転車。


 のどがゴクリと鳴った。無意識にハンドルに伸ばそうとした手がピクリと痙攣する。興奮を隠しきれない春風に苦笑しつつ、店長が説明してくれる。


「これは店の商品じゃなくてね、僕が昔乗っていたものなんだ。腰を痛めてからはずっと乗ってなかったんだけど、いつまでも埃をかぶせていたら可哀想だし、君に試乗してもらえたらと思って。メンテするから、もうちょっとだけ待っててね」


 店長は工具やら空気入れやらスプレー缶やらを並べるなり、テキパキと作業を始めた。ド素人の春風にはどこをどういじっているのか分からなくて、ただ、魔法みたいだと思った。チェーンに新たなオイルを注しながらクランクを回し、ガチャガチャと変速する音のメカっぽさが、男の子心をくすぐる。


「お待たせ、行こうか」

 二人と一台は店の外に出た。春風はロードバイクのハンドルを握り、店長から乗り方と走行中の諸注意を受けた。


「とにかく、車にだけは気をつけてね。コースは任せるから気の済むまで走ってきて」

「はい! ありがとうございます!」


 体育会系らしく返事を響かせ、春風はフレームに跨った。店長から借りた流線型のヘルメットをかぶる。右足でペダルを踏み込みつつサドルに飛び乗り、左足もペダルに載せた。乗り慣れたママチャリと比べて腰の位置が高く、深い前傾姿勢になっている。


 ――――けど、意外とイケそうかな。


 初めこそ違和感があったが、思いのほかすぐに慣れてしまった。歩道をゆっくり流してから車道に出る。手を振る店長に片手を挙げて応じたのち、前に向き直ってペダルを踏み込んだ。


「おおっ」


 スッ、と肺腑から空気が抜ける錯覚を覚えるほど、敏感な加速。


 ママチャリと比べて、ペダルを踏む力がよりダイレクトに地面へ伝わっている気がする。一踏み一踏みがスピードを生み出し、春風の身体を前へ運ぶ。進んでいく。


 ――――ギアは……左手が前、右手が後ろ。


 店長の説明を思い出しつつ、実際に変速して覚えた。ロードバイクの変速機はブレーキレバーと一緒に取り付けられていて、たとえば後ろのギアなら、シフトレバーだけを動かすと重たくなり、ブレーキレバーごと二本まとめて動かすと軽くなる。


 踏みやすい重さのギア比を見つけ、春風は巡航に移った。先日父の運転する軽トラで通った道をトレースする。島で唯一のショッピングモールの前を通過し、しばらく行くと緩い坂道にぶつかった。交通量も信号も減って走りやすくなった。


「軽い……すごく軽い!」


 登り坂に入るとロードバイクの軽さをさらに実感した。さすがに運動不足は否めないが、それでも速い。息を弾ませ、重力を振り切って駆け上がっていく。

 気持ちいい。

 胸に心地良い息苦しさを感じながら登り切り、行く先は下り坂に転じた。ギアを上げる。ハンドルをドロップ部分に持ち替え、前傾をさらに深くした。もう一枚、二枚、三枚……速度を獲得するにつれてギアを重くしていく。強さを増した向かい風が耳を聾し、視界の両端に映じた景色が融解する。


 ふと速度計に目を落とすと六十キロ出ていた。「もっと速く」と脚がうずく。春風は奥歯を鳴らし、全力でペダルを蹴った。



 ――――遅い。

 ミナトサイクル店長、みなと銀次郎は店のカウンターに肘をつき何度も時計に目を向けていた。現在の時刻は夕方の六時。春風が試乗に出かけてから五時間近くが経過している。


「ままままさか事故!? 事故にでも遭ったんじゃあ……!」


 店長は心配で居ても立ってもいられない。初めは乗り逃げを疑いもしたが、この狭い島でそんなことをしようとは思わないだろうし、あの少年は悪事を働くような子に見えなかった。春風は店長の知っている〝彼女〟に似ていて、不器用だけれど自転車にはまっすぐな気持ちを抱いているようだ。だから自分の愛車を貸したのだ。


 どうか無事に帰ってきてほしい。あと三十分経っても戻らなければ警察に相談しようと決めた。店のガラス戸が開けられたのはそんな時だった。


「お、遅くなってすみません……ただいま戻りました」

「おおっ! 心配したよ、えっと」駆け寄った店長は首を傾げた。「何くんだっけ」

「ハルカです。反町春風……ぷはぁぁ」


 店長がロードを預かると、春風はふらふらとパイプ椅子に座り込んだ。まるで真っ白に燃え尽きたボクサーのような風格さえ漂っている。自転車初心者の少年がどれだけ走ってきたのか店長は興味が湧いた。海開きはまだだが、海水浴場辺りまで行ってきたのではないか。


「けっこう長いこと出掛けていたけど、どこまで行ってきたんだい?」

「どこまでって……島を海沿いに一周して、この店までですね。途中でちょいちょいショートカットした気がしますけど、ほぼ一周じゃないかな」

「なっ」


 ――――そんな馬鹿な!


「島一周って、八十キロ以上あるんだよ? それを初心者のきみが、ビンディングシューズもなしに普通のスニーカーでなんて」

「ビン……? よく分かんないすけど、楽しかったです」どこかネジが飛んでいるらしい少年は苦笑した。「あー、疲れた。股間痛ぇ。サドル細いし固いし、尿道やられそう……」

「…………」


 店長は無言で春風を観察した。全身汗だくで、疲労のせいかふくらはぎが時折痙攣している。それでもロードバイクに乗れた喜びの方が大きいようだった。裏のなさそうな笑顔に期待を抱かされる。


 ――――この子なら、もしかして。


「春風くん」

 中性的な顔立ちの少年が面を上げた。店長は元・愛車のハンドルを撫で、ぽつりと提案してみる。


「もしおさがりでもよかったら、僕のロードを使わないか?」

「え」

「君が新品のロードを買うまでのレンタルってことで。もちろん、タダでもらってくれてもいい。こいつも昔ならそれなりに良いモデルだし、僕と君は身長差もあまりないからサイズも問題ないだろう。最初の一台にはちょうどいいんじゃないかな?」

「そんな、願ってもない話っすけど……い、いいんですか? マジで? 初対面の俺なんかが貸してもらっちゃって」

「もちろんだよ。君の自転車への想いは充分伝わったし。それにね、さっきも言ったけど、こいつをいつまでも眠らせておくのはもったいないから、ぜひ乗ってあげてほしい」

「はい! 乗ります、もー……乗って乗って乗りつぶします!」


 春風は喜び勇んで跳び上がり、ふくらはぎを攣って転がった。「いってぇぇぇっ」


 涙目で床を転がる春風に苦笑しつつ、店長は傍らにしゃがみ込んだ。「その代わり」と交換条件を提示する。倉庫で眠っていた愛車の再利用よりも、こちらを重要視していた。


「その代わりと言ってはなんだけど、春風くんに一つ、頼みがあるんだ」

「ってて……何すか? 何でも言ってください!」

「うん。君がこないだ会ったっていう、ロードバイクに乗ってる女の子――凪沙なぎさちゃんの、友達になってあげてほしい」

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