Stage12-1
レースを終えてガレージに戻り、シートに腰を下ろした。途端にどっと疲れが押し寄せてきて着替える気力が失せてしまう。ひとまず上のジャージだけ脱いでアンダーとレーパンだけになった。うなだれてため息をつく。
先に帰ってきていた黒羽が軽い口調で訊いてきた。「やっぱ駄目だったん?」
「……はい」
「でも春風くんすごかったよ!」雪路がすかさずフォローしてくれる。「二回も逃げたし、最後のスプリントもかなりまくったんだから」
「結局何位だった?」
「十位っす……」
「負けた!?」
黒羽がレーパンを脱ぎ掛けた格好のまま固まる。「まじかー……やるな春風。あとでかき氷おごってやんよ」
「そういう黒羽さんは何位だったんすか?」
「ひ・み・ちゅ☆」
――――きめえ!
半裸でウィンクする細マッチョの脳天に無慈悲な手刀が振り下ろされた。すっかり目が覚めた様子の顧問・玲佳がこめかみをひくつかせている。
「さっさと服を着ろこの変態。……雪路も、中坊のきみもだ。汗で冷える前に着替えなさい」
脳天チョップは御免なのでさっさと着替えることにした。鞄の中をあさっているとなぜか視線が隣に引き付けられる。見えない力を感じた。
「!?」
引力の発生源は雪路だった。当の本人は気にした風もなくユニフォームのジッパーを下げようとしているが、春風と黒羽を含め、周囲の男性陣の目は彼の胸元に釘づけだ。
「ん? どうしたの二人とも」
「雪路」玲佳が雪路の手を取り立ち上がった。「更衣室に行くぞ。ここは害虫が多すぎる」
「虫!? やっ、どこ!? 背中ついてないですか……!?」
「大丈夫だからこっちに来い……はぁ」
顧問もなかなか大変なようだった。玲佳は雪路の腰に手を回して、更衣室へとエスコートする。黒羽は彼女たちの背中を名残惜しそうに見送っていた。
「黒羽さんって、いつもこんなにドキドキしてるんすか。部活の着替えとか大丈夫すか」
「あぁ……油断したら一線を越えそうな感じかなぁ。もしもユキが女だったら、俺は今頃退学になってんよ」
「怖ェー……」
煩悩の根源がいない間に着替えを済ませた。普段着姿になるといくぶんさっぱりして気が緩む。黒羽と二人そろって寝転んだ。
「インハイ出場って聞いてましたけど……黒羽さんって、実は意外と速くないんすか? スプリント苦手とか?」
「直球だな、オイ」
「すんません」
「いや、まぁいいんだけどさぁ。だって俺、ちゃんと速いし」
「でも俺より順位が下って……組が違ったから単純には比べらんないすけど。雪路さんが『エース』つってたから、てっきりもっと上位かと」
「あー……そりゃあれだ、力があるからって勝てるとは限らないわけでさぁ。横圧されてコースアウトしたり、追いついてすぐ中切れに巻き込まれたり、ゴール前でパンクしたり――そんなことが一レース中にまとめて発生することもあるのね」
「うわぁ……」
そんな目に遭ったらくじけずにいられないだろう。先ほどゴール前で折れてしまった春風としては、黒羽があまりにもけろりとしているのが不思議でならない。
「『悔しくないのか』って顔だねぇ」
「なっ、なんで分かるんすか! さっき雪路さんにも考え読まれたんですけど……」
「分かり易すぎだよ。感情や思考がもろに顔に出るタイプだろ、お前」
「う……」恥ずかしくて寝返りを打つ。「……それで? そんなトラブルの連続のせいで負けて、悔しくないんすか?」
「悔しいよ」
黒羽はまったく悔しくなさそうに言う。起き上がって彼の顔を見てみたが、相変わらずにやにやしているだけだった。
「クリスピン・クロは知ってるか? スペイン出身の自転車選手」
「はい。確か、何年も前にレース中の落車で亡くなられた方ですよね? かなり強いクライマーだったけど、事故とか落車とか……ドーピング疑惑もありましたっけ?」
クリスピン・クロ。
実力がありながらも数々のトラブルに巻き込まれ、数えるほどしか勝利できず、最期は下り坂での落車に巻き込まれて死を遂げた悲運のクライマーだ。春風は自転車のことをネットで調べていた時に彼の名前を知った。
しかしなぜ、いきなりクロの名前が出てくるのか。話の先が読めない春風に、黒羽は変わらず軽いノリで告げる。
「あの人は俺の親父なんだ」
「は?」
「ほれ、証拠の写真」
スマホを投げて寄越された。画面にはスキャンして取り込んだらしき写真が表示されている。場面はレースの表彰式……だろうか。見覚えのある異国の選手と、彼の腕に抱かれて笑う小さな男の子、そして母親と思しき日本人の女性が写っている。
まじか。
ハーフだと聞いてはいたが、まさか有名選手の息子だとは。
「何すかそれ超サラブレッドじゃないですか」
「まぁねー。俺には間違いなく自転車の才能がある。走ってて分かるよ、そんなことは。ただ、親父から受け継いだのは身体能力だけじゃなかった」
「不幸……ですか」
「その通り。賢い連中に言わせてみりゃあ、運なんてものは存在しないってんだろうけどさぁ。実際、ろくでもない目に遭ってばかりなんだ」
確かに今日だけでもすでにチェーンが切れて、コーラが噴き出て、レース中には横圧され、中切れに遭い、ゴール前でパンク。「気のせい」の一言で片づけるには、いささか星のめぐりが悪すぎる。これが毎度のこととなれば相当だ。
「人一倍練習してる自負はある。自分には自転車しかないんだって知ってる。親父のためにもレースには絶対勝つつもりで挑んでる――その上で負けたんだから悔しくないわけないじゃん? まっ、そうは見えないかもしれないけどね。お前なんかとは反対に、気持ちが表に出ない人間だっているわけさぁ」
もしも春風が黒羽のようにツイていなかったとしたら、きっとやりきれない。ぶつけようのない怒りや悔しさを持て余してしまうだろう。
「……黒羽さんって、意外とすごいんすね」
「ははっ、そうだろそうだろ。でも『意外と』は余計なぁ」
「すんません」
「まぁ俺ほど不幸だと逆に吹っ切れちゃうもんでさ。もはや悟りを開いてるね」
「悟り?」
「そう。だってさ――」
黒羽は芝居がかった動きで身体を起こし、にぃっと笑う。
「どんな不運にも左右されず勝つことができるなら、そいつは最強だろ?」
ピリリリリ。
「すいません電話が……」
「やっぱ不幸だ!」
「いや聞いてますって。かっこいーなー黒羽さん」棒読みで褒めつつバッグからスマホを探し当てた。「もしもし? 儚?」
通話の相手は幼馴染だった。なぜか苛立っているらしい声が聞こえてくる。
『ちょっとハル! あんた今どこにいるの?』
「どこって……こないだ言っただろ。鈴鹿だよ」
『だーかーら! 会場のどこにいるか訊いてるんだけど』
「はぁ!? なんでお前がここにいんだよ。受験生のくせに勉強はどうした」
『たまには休んだっていいでしょ。ってかハルだって受験生のくせに、遠くまで出かけて自転車のレースやってるじゃない』
「今回は高校進学が懸かってるんだ。俺の中じゃ受験勉強と同義だよ」
『っで、どこ?』
「儚こそどこにいんだよ。迎えにいくから場所教えろ」
春風は儚の居所を訊いてスニーカーをつっかけた。視線で問うてくる黒羽に言い残してシートを離れる。
「ちょっと幼馴染のとこ行ってきます」
「女の子?」
「はい」
「是非ともここに連れてきて頂戴! Bダッシュ!」
「欲望が顔に表れてますよ!?」
こんな時だけは分かりやすい黒羽に苦笑しつつ、ガレージを出た。強くなってきた日差しに目を細め、帽子をかぶってくるんだったと悔やむ。
「ハル」
聞き慣れた声に呼ばれた。ちょうど凪沙が更衣室から戻ってきたところで、メッセンジャーバッグを肩に掛けている。服装は質素でボーイッシュなものだがよく似合っていた。
「ちょうどいいや、一緒に出店見に行こう。あたし新しいサングラス探したい」
「あー、悪い、後にしてくれ。いま幼馴染が来ててさ、迎えにいくとこなんだ」
「幼馴染……前に話してた子?」
「おう」
「……あ、あたしも行く。いいだろ?」
「おう?」
どうせ紹介するつもりだったため問題ないが、人付き合いの悪い凪沙が自分からついてくるとは思わなかった。彼女も成長しているということか。
「何ニヤニヤしてんの」
「べっつにぃ」
にひっという笑い声を噛み殺した。凪沙と並んで表彰台の方へ向かう。儚はガレージも探したのだろうが、人が多くて見つけられずに出店の方へ行ったのだろう。
「ナギは何位だった?」
「さぁ……集団の中でゴールしたから分かんない。ハルこそどうだったのさ?」
「負けたよ」
そこそこ上の順位だったが、負けは負けだ。言う必要はない。
「そうか。じゃあ明日勝つしかないな」
「……うん」
「自信ないとか言うなよ」本日四度目の肘打ちは優しかった。「明日はあたしも同じ組だし、全力でアシストするから。今日は緊張してうまく動けなかったけど、明日こそは大丈夫だ」
「頼もしいな」
「ハルはいつもより頼りないな」
凪沙が足を止め、不満げにじとっと見つめてくる。春風は情けなくなって目を逸らしてしまった。
「……さっき、ゴール前でさ……心が折れたんだ。全力で逃げて、雪路さんに助けてもらって、最後は集団スプリントで……何人かまくったんだけど、最後の最後に一人抜けなかった」
「情けないなぁ」
「ん……最後までもがけなかったのは反省してる。せっかく練習してきたのに……」
「そうじゃない」
「ふがっ」
華奢な手の割に強い握力で両頬を掴まれた。いつもの攻撃的な瞳に睨まれる。
「情けないってのはゴールスプリントじゃなくって、今のあんたのこと。初めてのレースだったんだから失敗して当たり前だろ。なのに何さ、ちょこっと踏ん張れなかっただけで引きずりやがって。後悔も反省も、明日全部が終わってからしろっての」
「ふ、ふぁい……」
「前だけ見て突っ走る方がハルらしいよ」凪沙は一瞬だけ美紗季のように笑い、手を放した。「あんたが無駄に頭良いのは知ってるけどさ、今は余計なことを考えんな。ピンチの時にはあたしが支えてやるから」
「……凪沙さんマジかっけーっす」
「か、からかうな、ばかっ」
五度目の肘打ちはかわせた。