Stage11-2
四周目のホームストレートで雪路と合流した。残り二周。呼吸は落ち着いたが疲労は確実に蓄積されつつある。雪路の助言もあって集団内で脚を溜めることにした。
「いきなりふらっと出ていっちゃうんだもん。びっくりしたよ」息を弾ませた雪路が言う。「最初のポイントは取ったんだよね。でも本当の狙いは逃げ切りでしょ?」
「うす」
「それじゃあれは、少し無理があったんじゃないかな……」
「ちょっと欲張りすぎました。あとでもっかい仕掛けます」
「んー……」
雪路の返事はかんばしくなかった。あとは口をつぐんでしまう。
春風の勝利条件は三位入賞だ。多人数でのスプリントよりは逃げ切る方が安全かつ確実ではないだろうか。
だがしばらくの間、春風は思うように動けなかった。自分一人ではうまく集団内で移動できない。先頭交代に加われないためアタックの機会も得られず、ほかの選手が二回ほど仕掛けて捕まったのを眺めているだけだった。
一つだけ幸いなのは集団の人数が徐々に減っていることだ。速度が変化したりコーナーを抜けたりするにつれて集団が縦に伸び、遅い選手や下手な選手を境目にして、急カーブで中切れを引き起こす。いつまでも人が減らないよりずっとましだ。
少しずつ人数を増減させながら、メイン集団は最終周回に突入した。ブザーがポイント周回であることを告げる。
――――今度こそ逃げられるか……?
「春風くん、また逃げようと思ってるでしょ」
いつの間にか雪路が一列下がり、隣に並んでいた。
「! はいっ」
「そわそわしすぎかも。やるならさっきみたく思い切りやんなきゃ」
「って言われても……なかなか前に出れなくって」
「じゃあ、ぼくが連れてくよ」
「い、いいんすか? さっきは微妙な反応でしたけど」
「ん……このままの位置をキープしていけば、それなりに上位を獲れるだろうから……ちょっと迷っちゃったんだけど。でも、ぼくはやっぱり根っからのアシストだから。今日は春風くんに勝ってほしいかな」
雪路は控えめに笑い、後ろについてくるよう手で指し示す。ありがたく彼の背後につかせてもらいながらも、春風は訊ねた。
「なんで、初対面の俺にそこまでしてくれるんすか」
「好きだから」
「え」
「え?」
きょとんとした反応の後、雪路が考えるための短い沈黙。なんとなく周りから見られている気がして恥ずかしい。赤くなったのは雪路も同じらしく、慌てた声が返ってきた。
「ち、違うの! そういう変な意味じゃなくって」
「変……」
「もっと友情的な意味だよ。春風くんみたいに『何が何でも勝ちたい』って人――大切なものを賭けて挑んでる人が好きだから、ぼくも全力で応援したいんだ」
「……それって、黒羽さんのこと?」
「うん。まぁ自転車に限らず、何かを頑張ってる人が好きなんだけど、黒羽くんは特別。うちのエースで、ぼくのヒーローだから」
集団は大きな動きがないまま下りに入った。ここでまたポイント狙いと思しきアタックがかかるが、今回は集団も反応して速度を上げ、逃がそうとしない。飛び出した数名はなんとか粘ってポイントを獲得した。彼らはすぐに戻ってきて、集団全体にほっとした空気が流れる。
その一瞬を待っていたように、雪路はするりと集団から抜け出した。不意を突かれた上に、アタックとは思えないような初動――集団は本気のアタックへの対応が遅れる。春風も出遅れたがあらかじめ聞いていたおかげで周りより先んじて動けた。ばらけかけた選手たちの合間を縫って飛び出す。
――――って、何かついてきちゃってますけど!?
春風のすぐそばにいた中年の男が二人、それからアタックに反応できた青年が一人と大人が二人の、計五人ついてきた。隣に並んだ春風の表情を読み取ったらしく、雪路は落ち着いた口調で言う。
「大丈夫……これだけいれば」
「二人で逃げるんじゃ?」
雪路は後ろに下がりながらクスッと笑う。
「それは無理でしょ。少人数でスプリントの方が現実的じゃない?」
春風が前に出てさらに加速し、メイン集団を引き離しにかかる。さすがにこの程度では致命的な距離を開けられなかったが、逃げ集団は充分なスピードを獲得した。春風たち七人はゴールまで逃げ切ることを共通の目的に力を合わせ、黙々とペダルを漕ぎ続ける。先頭に出た者はすぐ横にずれて後退し、かなり速いペースでローテーションを回す。
――――脚、けっこうキテる……。
レースの全長は練習よりずっと短いが、強度が明らかに異なる。終盤に少人数でハイペースを維持していると脚の疲労がいっそう際立ち、肺も悲鳴を上げる。
ヘアピンを抜けたところでメイン集団との差を確認。目測で五十メートルもない。下り坂でも休むことなく回し続けた。コーナーの少し前で雪路が先頭になり、かなり苦しそうにしているが代わろうとしない。雪路は最低限しか減速せずに急カーブへ飛び込んでいく。
「ッ……!」
コンマ数秒を稼ぐため緊張に耐える。鍛えられた目で辺りをつぶさに観察し、雪路が通ったラインをトレースすることで切り抜けた。後ろの五人と少しだけ距離が開いた。しかし二人は彼らが追ってくる間も速度を落とさない。
再び集まった時は四人になっていた。先ほどのコーナーで二人脱落したらしい。皆疲労がピークだろうから仕方ないが、あまり人が減りすぎるとゴールまで逃げ切れないかもしれない。かといってここで集団に戻ったとしてもまともに戦えるかどうか……。
コーナーが連続する箇所に差し掛かった。隊列は一巡して春風が先頭だ。立ちはだかる空気の壁を力尽くに切り裂いて進む。身体は休みたがっているが、止まらない。肉体の欲求を意志の力が上回っている。
――――気持ちいい。
誰よりも前を走っていることがこんなにも興奮するのだと、初めて知った。凪沙と走っている時には味わったことがないほど高揚している。ではもしも、このままゴールに辿り着けたとしたら……どれだけの快感が待っているのだろう?
「春風くん!?」
風に紛れて雪路の声がしたが、心臓のドラムにかき消された。下がるつもりはない。このまま全員引き離してゴールしてみせる。
春風は下ハンドルを握ってスピードを維持した。もう後ろは見ない。メイン集団がどこまで来ているのか気にならなかった。ただ前だけを向いて走る。
しかし視界の端に他選手がちらついた。逃げ集団にいた青年だ。抜かせまいとするがあちらの方が少し速い。青年の後ろには大人が一人と、最後尾に雪路。こんな時でも可愛い顔で命令される。
「乗って!」
四番手でS字コーナーを通過した。フィニッシュラインまで残り約一キロ。春風は前に出たくてうずうずしている気持ちを抑え込み、雪路の背後でスパートのための脚を溜める。最後のコーナーを回った。
残り四百。
背後から急速に迫りくる圧力を感じた。波に似た音が近づいてくる。
雪路が前の選手の背中から出た。背後を確認する暇はなかった。雪路と春風が先頭になった直後、幾重にも重なったロードバイクの走行音に包まれる。春風を追い抜いた背中たちがスピードを上げて遠ざかっていく。
「春風くん!」
――――まくる……ッ!
雪路を発射台に飛び出した。全身のバネを引き絞り、力を爆発させる。ハンドルを左右交互に引き付け、車体が傾くのに連動してペダルを蹴る、蹴る、蹴りまくる。動体視力と反射神経に任せてルートを選び取り、前方の選手をかわして巻き返していく。
ゴールが迫る。酸欠で視界が狭まり、目の前の選手しか見えなくなった。いま何位か分からない。だが、とにかくこの相手を抜きたい。
――――届け!
届かない。
――――届け……ッ!
やはり届かない。
自分の心が折れる音が聞こえた。前を向けない。
春風は惰性でゴールラインを越え、ぎらつく太陽から顔を背けた。