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西果てのローディ  作者: 中村なめ
17/25

Stage11-1

親知らず痛い…

 春風が参加するレースは全長五.八キロのサーキットを五周――つまり二十九キロ走る。普段練習で走っているよりずっと短いため体力面での心配はいらないだろう。コースのレイアウトは事前に頭に入れてきたし、試走で確認もした。長旅の疲れが心配だったが、調整の甲斐あって脚もよく回る。


 あとは勝つだけだ。


 幸運というべきか黒羽とは組が分かれた。ただし凪沙とも離れ離れになってしまい、いま春風の隣にいるのは真白雪路だ。

 ――が、やたらと心音がうるさいのはときめいているからではない。試合前の緊張には慣れているつもりだったが、久しぶりなせいかうまく落ち着けない。アナウンスの女性の声も耳を素通りしていく。


 合図が鳴り、前で待機していた凪沙たちの組がスタートした。


 このクラスは参加者が多いため二組に分けられている。春風たちは運営側の案内に従って前進し、位置に着いた。ゲートの幅いっぱいに選手が並び、他はその後ろに間なく続いている。ホームストレートの左横には立ち見の観客たちがいて、こちらをじろじろ見て笑っている――ような気がする。


「大丈夫? 春風くん」

「たぶん……試合には慣れてるんで」

「ならいいけど、無理はしないでね? とにかく自分の走るコースを守って、ふらふらしないこと。危ないと思ったら注意するから」

「お願いします」

「んっ。素直でよろしい」


 雪路はお姉さん(?)らしく笑って春風のヘルメットを撫でてきた。彼の笑顔は美紗季のものと似ている気がする。雰囲気が穏やかさで柔らかい。一緒に居て安らげるタイプの人間だ。


 いつの間にかカウントダウンが始まっていた。


 ――――あんな風に泣かせといて、今更「やっぱ島に残る」なんて言えない。

 ――――言っちゃいけないだろ。


 頬をぴしゃりと叩き、強張っていた肩をぐるりと回してほぐす。うつむいて目を閉じ、両手の指を組んでスタート直前まで祈る。いつものルーティンだ。


 出走の合図が鳴り、集団が動き出した。周りに合わせてペダルを踏み、サドルに座ってから左足も固定する。


「って、いきなり飛び出してるんすけど!?」


 スタートと同時に先頭付近の数名がアタックした。二人は同じ高校のユニフォームを着ている。集団もぐんぐんと加速していくが、先行する二人を追いかける者はごく少数だ。


「たぶんあの人たちは、写真に写るのが目的だから。ほっといてもすぐに戻ってくると思うよ。もしかすると逃げ切りを狙ってるかもしれないけど、ゴールまではさすがに距離があるし大丈夫じゃないかな」

「へえ……でも写真のためって、ただの脚の無駄遣いだと思うんすけど」

「そういう楽しみ方もあるってことだよ。高体連の大会なんかとは違うから、勝つことだけがレースの目的とは限らないの。レースだけが自転車じゃないんだってさ」

「……俺は、本気で勝ちを目指さないってのは好きじゃないです」

「そう? ぼくはのんびり走るのも好きだけど……でも、うん。春風くんみたいな人に勝ってほしいって思うよ」


 スピードが上がるにつれて集団がやや長く伸びていく。緩い上りになっているホームストレートが終わりに近づいてきた頃、後ろにつくよう雪路に指示された。急カーブの連続で速度が大幅に落ち、集団の隊列が乱れる。前後左右の距離が縮まりすぎて接触しかけている選手がいたが、春風たちは無事に走り抜けた。


 その後の下りストレートで集団全体の速度が上がった。春風は雪路の後ろについたまま左端にいる。雪路がコースの淵から少し距離を開けた位置をキープしているため左に余裕がある。後続が割り込めないぎりぎりの隙間だ。


 春風はほっと息を吐いた。順調なスタートのおかげで緊張が和らぎ、精神的にもゆとりが生まれてきた。何気なく雪路に声を掛けようとする。


「あの、」

「避けて」


 雪路がすっと左端ぎりぎりまで動いた。

 春風は考えるより先に彼に続く。ほぼ同時に右前方で異変が起きた。二人の選手がタイヤを接触させ、後ろにいた方が堪え切れずに落車。下りで勢いに乗っていたせいで後続の数台が追突し被害が広がった。左に避けた者たちがこちらに押し寄せてくるが、あらかじめ逃げておいたためギリギリ巻き込まれずに済む。


 数台が絡んで転倒する音にぞっとしながらも、落車で生じた空間を使って雪路の前に出た。今の落車によって広がった集団前方との距離を詰めなければならない。コースは緩やかな上りに転じ、右にカーブする。


「今の、なんで分かったんですか?」

「…………勘?」

「まじめに訊いてんすけど」

「ご、ごめんねっ……怒らないで、ね?」

「いや、別にっ、怒ってなんか!」


 しゅんとした声に慌てながら否定した。やはりこの人は性別をごまかしているのではないか。黒羽や先生が話を合わせているのではと疑ってしまう。


「でも、ほんとに勘みたいなものなんだよ? 黒羽くんが何度も落車に巻き込まれるのを見てきたから、なんとなく『危ないなぁ』って分かることが多いだけ。経験に基づく勘だね」

「ははぁ……」


 思わず感嘆の声がこぼれた。経験か――。自分や凪沙に大きく欠けているものだ。今日と明日のレースにおいて、間違いなく大きな壁になるはず。


「……ぁは。ははっ」


 ――――おかしいな。

 さっそく経験の差を思い知ったのに脚は鈍らない。それどころか、少しでも早く前に追いつこうと力が湧いてくる。この道の先にいる人たちをもっと知りたい、見たい、一緒に走りたい……追い越したい。


「熱いっすね」

「うん?」

「にっひひ」


 軽めのギアでペダルを回し、トルクよりも回転数を重視して登った。他の追走者たちと一緒になってメイン集団に追いつく。集団が大きくなってからは再び雪路の後ろについた。勝つためには情けないなどと言っていられない。使えるモノは全部使う。ここで勉強させてもらおう。


 このコースはコーナーが多いため、速度と安全を天秤にかける場面が度々現れそうだ。直角に近い急カーブやS字カーブで数名が集団から離れかけ、追いつくということをしていたが、春風は雪路のおかげで遅れることがなかった。


 どうにか無事に一周目を終え、二周目へ。少し増えた客の中に玲佳の姿があった。声援にかき消されそうだったが、まだ眠そうな声は一応届いた。「雪路がんばー……」


「はいっ」


 雪路がパッと表情を華やがせた。鼻歌まじりに集団前方へ進んでいく。道幅に余裕があるうちに位置取りをしておくためだろう。もちろん春風もついていった。


 ホームストレートの終わりに一瞬だけ後続を確認。じっくり見なくとも状況は把握できた。集団のペースが落ち着いている間に、落車で遅れていた選手たちがちらほらと追いついてきたようだ。


 ――――結構多いな。


 ざっと五十名はいるだろう。いきなり落車が起きた割に被害は少なかったらしい。


 二周目は滞りなく進行した。みんな最初の落車で気を引き締めたのか、ブレーキのタイミングやコーナーなど、声を掛け合って安全にクリアする。


 想像していたよりも動きの少ないレースだ。本気で逃げを仕掛ける選手は現れず、ペースは比較的高速で安定している。大変なのは積極的に先頭を牽いている者たちと、急なコーナーを抜ける度に遅れかけてしまう最後尾付近の選手たち。それからスプリント賞狙いの選手だろうか。


 三周目に入る際、ブザーが鳴らされた。このオープン2は三周目と五周目(最終回)がポイント周回だ。通過順位によってポイントが入る箇所が三つあり、合計点が多かった選手が表彰される。父との賭けには関係ないことだが、もしかすると、交渉の材料として利用できるかもしれない。


「行ってきます」

「えっ……ちょっと、春風くん!?」


 春風は雪路の背中から出た。最初のポイントを本気で狙うつもりで、先に飛び出していた大人たちを追走する。春風の後ろにも一人ついてきて合計六人。

 初めにポイントが入るのはスプーンカーブだ。六人は早いペースでローテーションを回し、メイン集団に追いつかれることなく下りを終えた。同時に登坂が始まり、コースは右側に湾曲する。


 活きの良い壮年の男がアタックをかけた。

 春風は彼が腰を上げた瞬間に反応している。すぐさま追い抜きにかかった。


「ぐッ……」


 春風がわずかに前に出たものの、なかなか振り切れない。そうこうしているうちに他の大人たちが背中に迫ってきた。一人……二人、春風を追い越す。そのままの並びで加点のラインを通過した。


 敗北感に胸がむかつくが、後悔している暇はない。大人たちが集団に戻ろうとペースを落とす中、春風は再加速する。果たして何人ついてきてくれるか――祈りながら確かめると二人残っていた。上出来だ。


 大きな集団を相手にどこまで逃げられるか分からないが、何人かいるならゴールまで逃げ切れる可能性が無きにしも非ず。途中で捕まったとしても、集団の速度を上げさせることで人数を絞れたなら万々歳だ。ゴールスプリントで勝つ確率を少しでも上げておきたい。


 次にポイントを争うダンロップカーブはここから二キロ近く先だ。春風たち三人は再び協力してスピードを維持する。協力者の一人は意外にしぶとかったあの男性だった。春風が手を出せないほど高価な機材を使っているが、見た目にも良い脚をしている。機材に頼りきりでないことの証左だ。敵ながら頼もしい。


 ――――暑っ……。


 頬に垂れた汗を肩で拭った。レースの進行とともに気温が上がりつつある。レース中のエネルギー補給が必要な距離ではないが、給水は忘れずにしておかねばならない。なるべく呼吸の妨げにならないよう素早く水を飲む。


 気をつけていても呼吸が上がってきた。三人で逃げていると集団にいた時とは明らかに負荷が違う。しかもあらかじめ予想していたよりもレース全体のスピードが速い。前を走る大人の吐息が聞こえる。サイクルコンピュータに目を落とす……スピードが落ちている。ひとまず春風が先頭に立った。


 先頭のままヘアピンカーブへ。少人数のおかげで走りやすいが、曲がりきったところでメイン集団が下ってくるのが見えた。このままではもう間もなく捕まってしまう。


 ――――まだだ。


 脚にはまだ余裕がある。春風はダンロップカーブまでは逃げ続けようとダンシングで加速した。しかし背後から聞こえていた呼吸が消え失せ、弾かれたように振り返る。協力者二人が諦めて脚を緩めていた。こちらが勝手に「頼もしい」と期待していた男は情けなさそうに首を振った。諦めろと言わんとしているのが伝わった。


「ッ……」

 奥歯が鳴った。このまま逃げるなら判断のための猶予は一瞬だ。


 一人で突っ走るか、大人しく一度退くか。


 脚は「まだ走れる」「走りたい」とうずいている。もしも春風がバレー部の頃のままだったなら迷わずに進んでいただろう。しかし今は迷っている。立ち止まって考えるようになってしまった。

 これは賢く成長したということなのか、それとも退化の顕れだろうか。


 時間がない。

 ――――俺は……!


 シフトレバーを弾いた直後、春風は集団に飲み込まれた。

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