Stage10
読み返していて、オープンⅡって中学生でも出れたっけや……と疑問に思いつつスルー
もう長いこと鈴鹿行ってないんですよねえ
八月下旬。
レース会場までの移動には船と電車を使った。フェリーで長崎へ渡り、特急「かもめ」で博多へ。その先は新幹線とローカル線を乗り継いで、降車駅で自転車を組み立て、会場付近まで走り、予約してあった宿に前泊。
「眠い……」
土曜日。朝五時に目覚まし時計が鳴った。いつも起きている時間だが長旅の後なのでつらい。凪沙が珍しくはっきりと喜びをあらわにしている一方で、春風はげっそりしていた。西の果てから三重県鈴鹿市までの旅路……長かった。実家まで帰るより近いとはいえ、中学生にとってはかなりの長旅だ。
ジャージに着替え、私服を入れたバッグを持ってホテルを出た。コンビニで朝食を買ってから会場に着くと、すでに多くの参加者が集まっていた。大勢の自転車乗りを前に凪沙が女の子らしい歓声を上げる。
「すごい! 見ろよハル、ロードがあんなにいっぱい!」
「あぁ、そだな……」欠伸を噛みしめながら春風は訊く。「ナギはなんでそんな元気なんだよ……」
「だって楽しみじゃん、初めてのレース。ハルこそどうしてそんな疲れてんのさ。あんたの実家まで行くよりだいぶ近いでしょ」
「そうだけど……九州でもレースはあったろ。何もバカ暑い中こんな遠くまで来なくたっていいじゃんか……」
このレースを選んだのは凪沙だった。春風の今更な文句に口を尖らせつつも、凪沙は目をきらきらさせている。
「毎年雑誌なんかで見ててさ、出てみたかったんだ。市民レースじゃかなりの規模だし、サーキット走れるし、色んなブースも出るから。来れるときに来ておきたいと思って」
「……まぁ、確かにテンション上がるけどさ」
「でしょ?」
島には自分たち以外のロードレーサーがいないため、これだけたくさんの選手と自転車が溢れているのは新鮮だ。予想以上に社会人ライダーが多く、それなりに年配の人までいる。自転車関連のメーカーや出版社が出展しているブースも多いため、あとでじっくり見て回りたい。
「とりあえず荷物置こうぜ。休憩場所はあっちみたいだ」
大きなガレージが解放され、参加者はその中を使っていた。ビニルシートやマットを敷いてそれぞれの場所を確保している。朝早いため寝ている者、試走の前に自転車を点検している者が多い。
春風たちも場所取り用のシートは持ってきていた。畳んだシートを手にうろつくが、しばらく探し回っても空いたスペースが見つからない。
「どっかで間借りするしかねーな」
「じゃあハル、交渉は任せるから」
「俺かよ!? お前が行った方が、おっさんたちは喜んで譲ると思うんだが」
「あたしが初対面の相手とまともに話せると思うのか? きょどってうっかり毒舌を吐いたり、顔面蹴飛ばしたりしたらどうするんだ」
かくして春風が交渉担当となったが、まずは声を掛ける相手を探さねばならない。できることなら同年代の方が気楽で良いのだが……。
「あのぅ」
右往左往しているうちに、幸運にも向こうから声を掛けてくれた。おまけに振り返った先に佇んでいたのは遠海姉妹並みの美少女だ。だからといって、凪沙の目つきが険しくなる以外に影響はないのだが。
美少女は人懐っこい笑みを浮かべた。春風と同じ年くらいだろうか。
「場所、探してるんですよね……? もし良かったら、うちのシート一緒に使いませんか?」
「あざっす!」目の前の幸運の女神に感謝したが、ラッキーすぎて少しためらってしまう。「……あ、でも、本当にお邪魔していいんすか?」
「はい。ぼくたちは三人しかいないから、元々取っておいた場所は狭いですけど。二人くらいなら全然大丈夫です」
――――ぼく?
珍しい喋り方の女性がいるものだ。世間は広いなと感心しつつ、にこやかな美少女についていった。
「この大会は参加者が多いので、みんな開門前から並んで場所取りに走るんです。鈴鹿は今年が初めてですか?」
「はい。俺たち二人とも、レースに出ること自体が初めてで。中学の同級生なんすけど、いつも二人で走ってます」
「中学生?」美少女が驚きをあらわにした。「背が高いしかっこいいから、てっきり二人とも年上かと……」
「ってことは、えっと……?」
「あ、ぼくは雪路です。真白雪路」
「雪路さんは高校生ですか? 自転車部の……マネージャーさん?」
「選手ですっ」
えへん、と雪路はつるぺたな胸を誇らしげに張った。なんだ、小さくても可愛い人は可愛いんじゃないか――。比較対象にこっそり目をやるとエルボーが飛んできた。
「ってて……。にしても珍しいっすね、女子の選手って。まぁこいつ――凪沙も一応女なんすけど」
「一応とは何だ、バカハル。あたしはれっきとした女だ」
「はいはい。っで、俺が春風です」
「んー……」
返事があいまいだった。なぜだか雪路はしょげている。というかいじけている。
――――やっべえ何この小動物。全力で愛でたいんだけど。
おかしいな、大人な女性が好きだったはずなのにな……と春風のメンタルが揺らぐ。凪沙までもが雪路を眺めて目を輝かせていて、雪路がいかに愛らしいか分かる。
しかし、二人そろってムラムラドキドキしているところに冷水を浴びせられた。
「ぼく、男なのに……」
「は? いやいや、そんな冗談誰が信じるって……」
「……ごめんなさい」
――――まじっすか。
にわかには信じられないが、そういえば胸がないし服装もボーイッシュだ。この純真そうな美少女(?)が無意味な嘘をつくとは思えないし、事実なのだろう。
「……ねぇ、恥ずかしいです……あんまり見ないで?」
――――ぐはっ。
「雪路さん……ナギと性別トレードしません?」
「どうせあたしは男よりかわいくないです――よッ!」
無慈悲な肘、再び。
春風はみぞおちを押さえ、自転車を支えに歩く。まだ頬の赤い雪路に連れていかれた先には、聞いていた通り他の二名がいた。高校生くらいの男子と、二十代半ばと思しき女性だ。
チェーンに注油していた少年が春風たちに気づいた。浅黒い肌と彫りの深い顔立ち。インターハイで買ったらしい、カメウサギの描かれた半袖シャツを着ている。容姿のレベルは高いが、こちらを見た瞬間に浮かべたに薄ら笑いのせいで台無しだ。紛れもない変態の気配がする。
「おぉユキ、おかえり。そちらのお二人はどちらさん?」
「えっとね、春風くんと凪沙さん。二人ともまだ中学生なんだって。もう場所がないから連れて来ちゃった。いいでしょ?」
「いいんじゃね? 特にかわい子ちゃんは大歓迎だ。よろしくねぇ」
少年はふらっと立ち上がり、へらへら笑いながら凪沙に握手を求めた。きつく睨まれて拒まれるが、特に気にした風もなく春風の手を握ってくる。「よろしくー」
「ども、お邪魔します」
「……します」
空いている方の手で凪沙の頭を下げさせた。
薄ら笑いの少年は間延びした声で名乗る。
「俺は高峰黒羽ね。黒い羽でクレハ。一応ハーフなんだけど、両親離婚してるから苗字は母方のやつ。親父はとにかく女癖が悪くってなぁ、俺にも遺伝しちゃったっぽい。キモかったらごめんねぇ、かわい子ちゃん」
「黒羽くんってよく『変態』とか『ダメ人間』とか言われてるよね」
「ああ、親父譲りでなぁ。あと不幸も遺伝しちゃったけど」
黒羽は「よっこらせっくす」と下ネタをかましながら自転車を担ぎ、運営が用意したバイクラックの方へ運んでいった。帰ってくると腰を下ろし、クーラーボックスから缶入りのコーラを取り出して開封。途端に勢いよく中身が吹き出し、黒羽の顔面に直撃した。とばっちりを受けた周りの参加者に雪路が頭を下げて回る。一方で黒羽は何食わぬ顔をしていた。にへら、と緩く笑う。
「とまぁ、こんな感じのトラブルが日常茶飯事でな。さっきも朝イチでチェーンが切れちゃってさぁ、さすがにビビったわ。他には練習中に鳥のフンが降ってきたり、放し飼いの犬に突撃されて落車したこともある」
「うわぁ……」
――――ワンワン落車ってほんとにあるのか。
「ま、不幸も性格も遺伝ってことで、開き直るしかないわな。どうせ俺には自転車しかねえし? ほかは赤点でも許してもらわなきゃねぇ」
黒羽のぼんやりした瞳が一瞬だけ強く輝いたのを、春風の優れた動体視力は見逃さなかった。凪沙のような剥き出しの鋭さよりずっと怖ろしい、秘められた攻撃性の片鱗を垣間見たようだった。
――――自分には自転車しかないだって?
その言葉が本心ならば、この少年はどこまで自分を削っているのだろう。無駄を削ぎ落とし、砥いで砥いで研ぎ澄まして……どれだけの代価を払って走っているのだろう。保険を張ってばかりの自分とはどのくらい差があるのだろう。
興奮で喉がひりついた。高峰黒羽という少年に興味が湧いた。
「黒羽さんは高校何年生っすか? 自転車歴は?」
「ロードには十歳頃から乗ってる。歳は俺もユキも高一だ。ちなみにうちは俺らが創ったばかりの自転車部だもんで先輩はいねえ。ってか部員は俺ら二人だけだわ」
「自分たちで創ったんすか!?」
「創ったっていうか、昔廃部になったのを復活させたんだけど。しかしやたら食いついたねぇ。何? きみらもチャリ部作りたいの?」
「や、まぁ、今回の結果次第では。俺、親と約束しちゃって、もし勝てなかったら自転車部のある高校に行けないんで」
「ふぅん……もし勝てなかったら、ねぇ」
「ちなみに二人はどのレースに出るの? 二日ともエントリーしてる?」
体育座りした雪路が大きな黒目で見つめてきた。いかにも興味津々といった様子だ。彼女――ではなく彼は感情の起伏に富んでいるようで、ころころと表情が変わるので見ていて面白い。
「今日も明日もオープン2です。ナギも一緒に」
「ほんと!? ぼくたちもオープン2なんだよ。組は違うかもだけど、お互い頑張ろうね」
「はい。やるからには負けません」
「いいねー、熱いねぇ」黒羽が茶々を入れてくる。「先輩が現実を教えてあげよう」
「……今日の黒羽くん、なんかいじわる?」
「んなことないって、平常運転だよ。だからユキもいつも通り手伝えな」
「うんっ」
雪路はさらさらの髪を黒羽に撫でられ頬を緩めている。その笑顔には一切の邪気がなく、名前の通りにまっさらで、ずいぶんと幼く見える。
彼らが仲良く兄妹のようにじゃれ合っていると、横になって寝ていた女性がもぞもぞと動いた。だるそうに寝返りを打ち、クールな女優のようなご尊顔がこちらに向けられる。まだ化粧はしていないようだがかなりの美人だ。
「……うるさい」
女性はややハスキーな声で釘を刺した。黒羽たちが即座に大人しくなると、女性はこちらを見やる。
「雪路、この子たちは?」
「座る場所がない中学生たちっす。ユキがついさっき連れてきて……」
「お前には聞いていない」女性はぶっきらぼうに黒羽を突き放し、雪路を抱き寄せた。雪路が真っ赤になってじたばたするのもお構いなしに、豊かな胸に抱いてごろんと寝転がる。「時間になったら起こせ」
「……あいあいさー」
ふざけた様子で敬礼しつつも、黒羽はかなり雪路がうらやましそうだった。正直なところ春風も心惹かれる。二十歳代の落ち着いた美人――文句なしのストライクだ。
女性が雪路と一緒に寝落ちしたのを確認し、春風は小声で訊く。「この人は?」
「うちの部の顧問だよ。小泉玲佳先生。美人だろ?」
「やばいっすね。雪路さんと添い寝とかもはや兵器じゃないすか。理性がどうにかなりそうです」
「だよな! えっと……春風だっけ? お前わかってるな! やっぱこれからの時代は年上モノだよな? 俺いっぺんでいいから包容力のある女性に甘えてみてぇ。でも逆にほろ酔いの女性から甘えられるのはもっとやばい」
「レストランで『大人だから』っておごろうとしてくれた時、『でも俺は男だから』ってなけなしのバイト代から支払って男を見せたいっす」
「『子供だと思ってた男の子が意外と大人でドキッ☆』みたいな? ちょっと背伸びしてる感じが可愛く思えたりさぁ」
「ですね。あと『年齢的に婚活を焦り出すけど年下に恋しちゃって……』とか」
「お互いの時間的余裕が違うんだよな、ああいうシチュって。『彼のことは好きだけど、どうせ子供の恋愛なんて遊びみたいなもの。いずれ捨てられる……』」
「『でも好き! どうしたらいいの』って!」
「わかってるじゃん心の友よ! ここまで話の分かる奴は初めてさぁ。今夜はたっぷり語り合おう。俺のお宝画像フォルダが火を噴くぜぇ!」
「マジすか! ぜひ!」
思わぬところで出くわした同類の存在に気分が高ぶっていた。春風は荷物の整理そっちのけで、理想のカップリングについて黒羽と語り合う。おねショタのショタはいわゆる男の娘でも許されるだろうか? 二人は雪路を見やって異口同音に即答した。アリだ!
「おい、バカ二号」
「ゴフッ……!?」
本日三度目の肘。
「あたし、先にエントリー行ってるから。遅れんなよ」
「ずびばぜん……」
今日はやけに乱暴だ。いつもなら狙う場所を分散してくれるのに、今日はみぞおちばかり突いてくる。凪沙が殺気を放ちながら歩き去ると、黒羽が腹を抱えて笑う。
「おっかない鬼嫁さんだぁ」
「嫁じゃないっす……鬼だけど」
「まぁ受け付けはさっさと済ませちゃいなよ。俺たちもそろそろ試走に行くし、せっかくだから一緒に行こう。特にお前らは鈴鹿初めてだろ? アップがてらコースの下見しとかねぇと」
黒羽はそう言って、つがいの鳥のように眠っている二人を早くも揺り起こす。雪路がとろんとした目を開けた。「ん……もう時間?」
「ああ。試走行って、帰ってきたらすぐにアップだ」
「はぁい……」
雪路が起きようとするが、玲佳に抱きしめられたまま放してもらえない。
「先生……ぼく、アップしに行かなきゃ」
「行かなくていい。代わりに私があっためてやる」
「…………はい」
――――落とされちゃったよ雪路さん!
なんて幸せそうに頬を赤らめるのだろう、と春風まで胸が温かくなる。しかし黒羽は嫉妬の方が大きいようだった。
「うらやしいことやってねぇで行くぞー、ユキ。…………はぁ」
「ご、ごめんね黒羽くん! 拗ねないで、ね?」
雪路は黒羽の腕に抱きつき、上目づかいでフォローした。黒羽はあっさり陥落し、デレデレニヤニヤしている。あの愛らしさの前には仕方ないことなのだろうが、だが、雪路は男だ……。
とうとう雪路に逃げられた玲佳が気怠そうに起きた。
「落車にだけは気をつけなさい。特に黒羽。お前はとにかくツイていないからな。雪路を巻き込んだら許さん」
「肝に銘じておきます。まぁ、今度こそ無事に勝ちますってぇ」
黒羽が周りの目も気にせずシャツを脱いだ。腰の辺りに治りかけの擦過傷が見える。よく見ると膝や太ももにも治りかけの傷があった。時期的に考えると、インターハイで怪我したのだろうか。
「どうした? 心の友よ」
「あー……なんか黒羽さん、怪我多いなって」
「嘘!? 俺ってそんな毛深いん? すねなんてツルツルに剃ってあんのに……」
「いや、毛じゃなくて怪我っすね。そういうのちょっと寒いっす」
「そっか……結構自信あったんだけどな、今のシャレ」
ちなみに自転車選手はすね毛を剃っている者が多い。怪我した時の手当てが楽になったり、単に見栄えの問題だったりする。春風のすねもツルツルだ。
「俺ってだいたいツイてないからさ、よく落車に巻き込まれたりすんだよ。腰のこいつはこないだのインハイでやられた。ロードじゃなくてポイント――トラック種目の方でな」
「せっかく予選は上位で通過したのにね」
「ちなみにロードでも集団落車に巻き込まれたしなぁ……ほんと、我ながらよく生きてるぜ。ってかみんな真っ直ぐ走るの下手すぎ……」
「ロードもトラックもインハイに出たんすか」
どちらの種目でもインハイに出場し、しかもトラックは予選通過。それを創部一年目の自転車部員が果たしたというのは、にわかには信じがたい。
やはり先ほどの予想通り、黒羽はなかなかに速い選手らしい。同じ組になったら直接ぶつかる相手だ。その時勝てなければ、春風は天崎高校に行けなくなってしまう。だが、不思議と悲観的にはならなかった。
――――この人を倒して天崎に行く。
「良い目だねぇ」
にやりと笑った黒羽と目が合った。彼が黒・白・紫でデザインされたユニフォームを羽織り、踵を返すと、背中のロゴが見える。どこかで見覚えのある校名だ。インハイに出たということだから、自転車関連のニュースをあさっていた時だろうか? 記憶をさかのぼってみるが思い出せない。
『小豆餅』
「小豆餅高校自転車競技部一同――つっても選手は二人けど。全力でお前を叩き潰してやるよ、初心者ちゃん」