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西果てのローディ  作者: 中村なめ
15/25

Stage9-2

 ――――気持ちわりぃ……。


 夕食後、春風は美紗季のベッドで横になっていた。ビールを一気飲みした後、ほんわかふわふわした気分に任せて遠海父と飲み交わし、トイレに行こうとしたところで立ちくらみに遭いぶっ倒れた。


『ゆっくり休んでいてね。おじいさんたちには電話しておくから、起きれんかったら今夜はうちに泊まっていって』

 と美紗季に言われたものの、寝付けない。


 部屋にエアコンがないため暑いというのが理由の一つ。それから、最近春風の心に居座っている得体のしれない気持ちのせいでもある。


「……いい匂いがする」


 軽くしびれた手でタオルケットを抱き寄せた。淡く甘い香りが春風の中に流れ込み、ふらついていた思考を落ち着かせる。徐々に冷静さを取り戻していくが、同時に自分の原始的な欲求が滾っているのを認識してしまい、自己嫌悪に陥る。まっすぐで純粋な自転車少年のつもりだったのに、美紗季に対して汚らしい下心を抱いている。その事実が受け入れがたい。


 甘い気持ちが孕んでいる暗部に頭を悩ませていると、余計に眠れそうになかった。……しかしとにかく暑い。酒のせいかシチュエーションのせいか、身体はいつまでも火照ったままで冷めることがない。

 のどが渇いた。

 台所に行くか迷っていると、タイミングよくドアがノックされ、廊下の灯りが差し込んでくる。エプロン姿の美紗季が入ってきた。


「お水いる? たくさん飲めってお父さんが言っちょったよ」

「いただきます……」

「起きれる?」


 美紗季に支えられて上体を起こした。噛むようにして少しずつ水を飲む。こうした方ががぶ飲みするよりも吸収が良い。


「ごめんね、迷惑かけちゃって」

「いや……こんだけ酔ったのは完全に自業自得だから。謝るのは俺の方です……」


 コップ二杯ほど飲んでほうっと息をついた。コップを返そうとするとやわらかな両手に包まれ、背筋の根っこがびくりとする。


「お姉さんは、とても心配したのです。救急車を呼ぼうかと思ったくらい」

「すいません」

「……春風くんまでいなくなっちゃったら、やだよ」


 美紗季はベッドの端に座り、片手で春風の手を握ったままコップをサイドテーブルに載せた。


『まで』というのは、この家にいない母親のことか。

 凪沙も美紗季も口にはしないが、昔、何かあったのだろう。それだけは墓前の二人を見て確信していた。


 美紗季はまた、両手できゅっとしてくる。


「今、少し喋っても大丈夫?」

「はい」

「ありがと。……今日のお昼に、春風くんのお父さんとレースの話をしていたでしょう? そのことで、あの……言いづらいんだけど……」


 と美紗季は言いよどむが、何を伝えたいか春風は察せられた。彼女が言いにくい部分を引き継ぐ。


「島に残ってほしい、ですか」

「…………うん」


 春風の手を握る両手に力が込められる。美紗季の手はか弱げに、すがるように、小さく震えていた。


「今の春風くんと凪沙ちゃんにとって自転車がどれだけ大切か、一応、わかってるつもり。だけどやっぱり、二人が島を出ていっちゃうのは嫌だな……」

「俺たちが島に残っても、今度は美紗季さんが大学に行って、先に島を出てくじゃないですか。結局、一年もしたら離れ離れだ」


「うん……そうなんだけど、でも……私だって今を大事にしたいの。凪沙ちゃんのご飯を作って、帰りを待って……お休みの日には春風くんの家に行って、みんなでご飯食べて、勉強して……たまに海へ行ったり、花火したり……こんな今の生活が、私、けっこう気に入ってるんだ。たぶんだけど、凪沙ちゃんも」


「ナギが?」

「うん。天崎高校に行きたいのは本当だろうけど、でも、島に残ってもいいって思うとるんじゃないかな。春風くんに出会ってからの凪沙ちゃん、すごく楽しそうやけん……今のままでも満足してくれるんじゃないかな」


 そう言われて、先日凪沙と海に行った時のことを思い出した。彼女は言ったのだ。もし今度のレースに負けても諦めるな、その時は島で自転車部を作ろう、自分も手伝うから、と。

 美紗季も言うのなら、あの時の違和感は間違いじゃなかったのかもしれない。凪沙は「最悪の場合、勝てなくてもいい」と思っているのではないか。今のままでも妥協できるのではないか。


 ――――でも、俺はそれでいいのか?


 自問してもすぐには答えが出ない。美紗季に握られた手をぼうっと見つめ、頭を巡らせる。


 この島に来てからの生活は充実している。何せサイクリングには最適の環境だ。しかし、レースをするとしたらどうだろう。競い合う相手には乏しく、遠征にも相当な時間と費用が掛かる。これはあまりにも大きすぎるハンデだ。春風はバレー部時代の経験から、場数を踏むことの大切さを知っている。


「俺は……」


 ――――レースだけが自転車じゃない。

 ――――サイクリングじゃいけないのか?


「……俺は、レースで勝ちたいんです」


 美紗季の手をそっと解いた。

 薄闇の中、彼女がひどく傷ついた表情を浮かべたように見えて、春風は目を背けたくなった。だが、正面から向き合って伝えなければいけない。これはクマのような担任から学んだことだ。


「ロードバイクに乗れば誰でもそれなりに速く走れるわけで、それだけでも楽しいんだけど。やっぱり自分の根っこの部分が満足できないんです。……あ、いや、根っこって言っても下ネタじゃなくって! 本能っていうか、こう……生きてる実感とか、闘争本能みたいな」

「……ごめんね、わかんない」

「すいません……。けど、俺が走ってるのはそのためなんで。誰かと競い合って、もっと自分を追い込みたい。もっと速くなりたい。先を走ってる連中みんな追いかけて、追い抜いて、この脚で行けるとこまで行ってみたい……だから、島を出なきゃいけないんです。今の幸せを全部大切にすることは、できないです」

「そっか……春風くんはやっぱり、頭のよかとね」

「……そう、かな」


 そんなこと言われてもまったく自信がない。本当に頭が良かったなら、今、美紗季にこんな悲しい顔をさせずに済んだはずだ。傷つけない言葉を選べたはずだ。

 けれども美紗季は言う。


「そうだよ。私や私の同級生なんかより、ずっと大人びてるもの……。春風くんは頭がよかけん、ずうっと先のことまで考えて動ける。それはきっと、とっても大切なこと」


 美紗季はそっと春風の頭を撫でてきた。顔を伏せた美紗季の姿に胸を締め付けられる。耐え切れない春風は、一度は自分から解いた手を彼女に伸ばす。


「美紗季さ――」

「……ん」


 唇をふさがれた。


 春風は美紗季に抱きしめられたまま何もできず、キスの間、瞳を閉じていた。彼女に優しく押し倒され、唇のやわらかな感触が消えた。美紗季は春風の胸に頬をうずめ、華奢な肩を震わせる。


「あの、美紗季さん……誰か来たらまずい……」

「いいの」決して放すまいと、華奢な腕がぎゅっとすがってきた。「いいでしょ、今くらい……私の好きにさせて……」


 濡れた瞳に求められ、春風も彼女を抱きしめ返す。温かくてやわらかで脆そうで、うまく抱きしめている自信が持てない。


「……春風くん」

「……はい」


「いつか春風くんの賢さのせいで、春風くん自身が傷つく時が来るかも……誰かと対立することがあるかもしれない。きみの客観的な正論と誰かの感情論は、必ずしも、一緒じゃないだろうから」


「……はい」

「そんな時が来たとしても、ちゃんと考えて、自分が正しいと思った道ば選んで――ね」


 優しくささやき、か弱い腕に力がこめられる。


 故郷で挫折したあの日から、うだうだ考え続け、腐りかけていたけれど。

 退化した自分をみっともないと思い、自信を持てずにいたけれど。


 こんな春風でも成長しているはずだと、彼女は肯定してくれた。


「きみはきっと、ずっと、間違ってなんかない」

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