Stage8-2
午後一時半。二人はいつもより三時間ほど早く午後の練習に出かけた。いつも通り峠を越え、海岸沿いを反時計回りに走って海水浴場を目指した。片道約三十キロ走って到着したそこは、盆前ということもあって客が多い。お盆を過ぎるとクラゲが出てくるので、思う存分遊ぶにはこの時期が最高だ。
「思いつきで来てみたはいいけど、ほんとに高浜でよかったのか? 人多いぞ」
「むっ。ぼっちが人混み苦手だと決めつけてるなら間違いだぞ。あたしレベルになると、どこにいたって基本的に関係ない。どっちみち誰とも喋らないからな」
「悲しい理由だ……」
ロードバイクを停めてワイヤーロックを掛け、更衣室へ。メッセンジャーバッグから水着を取り出して着替える。凪沙はスクール水着しか持っていないため美紗季のものを借りてきた。
そしてすぐに、それが間違いだったと気づく。
「う、嘘でしょ……」
でかい。
これは美紗季が中三の頃に着ていたものだったはず。うすうす感づいてはいたが、姉妹なのにここまで違うとは……。
慌てて家から取ってきたせいで試着していなかった。大人しく引き返すか? と自問するが受け入れられない。わがままを言って連れ出しただけに、さすがに春風に申し訳ない。
「…………着るか」
挑戦なくして成長なし。こうして大きなサイズに挑まなければ美紗季のようにはなれないということ――ではないか。違うか……。
――――でも、それほど変じゃないよな?
とりあえずうまい具合に着こなせたように思う。美紗季らしい大人びたデザインだが、当時の美紗季に似合っていたのなら、妹の凪沙にもそこそこ似合っているだろう。凪沙は服飾のセンスに自信がないが、あの姉が選んだなら信頼できる。
荷物をコインロッカーに預けて外に出ると春風が待ちぼうけていた。スマホをいじっているため凪沙に気づかない。少しむっとして声がとんがった。「ハル」
「……ん。ちょい待ってて、仕舞ってくる」
「…………」
じとっと睨んでみたがスルーされた。春風は言葉通りすぐに戻ってきて、目が合うとようやく言い訳する。
「友達からラインが来てたんだ。ナギは着替えに苦戦するだろうと思って、連絡しながら待ってた」
「女か」
「うん。幼馴染ってやつ」
「ふぅん……あんた年上趣味じゃなかったんだ」
「そうだけど。お前『幼馴染』の意味知ってる? 大概の場合、恋愛対象って意味は含まれないんだぜ。幼稚園から一緒だと、ほとんど兄妹みたいなもんだからなぁ」
春風は困ったように小さく笑い、砂浜へ降りていく。波打ち際はだいぶ手前まで迫っていた。素足を浸すとひんやり気持ちがいい。足元の砂が波にさらわれていき、足の裏を優しく愛撫していく。つい頬が緩みそうになった。
凪沙が隣に並ぶと春風の大きな瞳がすばやく動き、全身をくまなく精査される。
「しかし、意外と似合ってんじゃん、その水着。さすが姉妹というか、美紗季さんのチョイスいいな」
「そ、そっかな……」
さらっと褒められ、やや遅れて頬が熱くなる。今が夏でよかった。頬を赤らめたのがばれたら、春風はきっと「ナギのくせに」とからかうだろうから。
「まあ、ちょーっと成長が追いついてないみたいだけど?」
「一言余計だ!」
「にひひっ。波に流されないように押さえとけよー」
「このッ」
水をかけようと海面を蹴るが、春風はゴーグルを装着し、猛烈なスタートダッシュで逃げてしまう。凪沙はもちろん追いかけた。「待て、バカハル!」
水深は徐々に深くなり、胸の辺りまで浸かるようになった。水着の装着感に違和感と不安を覚え、目を逸らした隙に春風を見失う。潜られた。
「あ」
自分の水中メガネをロッカーに忘れてきたことに気がついた。しかし逃げる間もなく春風の気配が接近してくる。しかし水が綺麗なため上からでも発見は容易なはず。
――――煙幕!?
海底の砂で水中に煙幕を張られた。急いで間合いを取ろうとするが、春風は流石のスプリント力で砂を蹴立てつつ凪沙の周りをぐるりと回る。砂煙に囲まれたせいでどこから攻撃が来るか予測できない。
「ぶばぁっ……」
「ひっ!?」
突然真後ろに出現され、凪沙は飛び跳ねて逃げた。が、春風は水をかけてくるでもなく咳き込んでいる。海水を飲んでしまったらしい。
「隙あり!」
「ごほっ、ちょ、ちょま……しょっぱ……ぶっ!?」
「よっし!」
両の掌を合わせて発射した海水が命中した。春風は盛大によろめいて海に沈む。凪沙は意気揚々と反撃を待ち受けるが、なかなか春風が浮いてこない。砂煙は晴れたので姿はこちらからも見えている。海中で力なく揺れている様はさながらクラゲか水死体のようだ。……死体のようだ。
「ハ、ハル? どうしたんだよ……だ、だいじょうブッ!?」
心配で近づいたら噴水を喰らった。春風がいつものごとく「にっひひ」と笑い立ち上がる。
「バッカでー。こんな罠に引っかかってやんの」
「…………ハル……何考えてんの。ほんとに溺れてたらどうしようって、あたし……」
怒りに震えた涙声で言う。両手で顔を覆いうつむくと慌てふためく声が聞こえた。
「ご、ごめんナギ。そんな心配させるつもりじゃ……ほら俺、肺活量あるからあのくらいじゃ死なないって。えと……ほんとごめブバッ!?」
「あはっ。バカはどっちよバーカ! もっとくらえっ」
「ナギ、おまっ……珍しく楽しそうなところ悪いけど、あんまはしゃぎすぎるとアレだぞ。こういうシチュだと水着が流されたりするのがお約束だからな? 気をつけろよ?」
「大丈夫だって。こんな動いてても全然違和感ないんだし」
そう言って胸元に手をやった。全然……さっきまであったはずの違和感が、ない。ない。どこにもない。
「っっ…………!?」
とっさに胸を抱き春風に背を向けた。きっと今自分の顔は、夏の日差しでも隠せないほど赤くなっているに違いない。目の届く範囲で水着を探すが見当たらない。
春風もほどなくして察したようだった。「おい、まさか……」
こくり。
「バカはやっぱお前じゃねえかこの露出狂!」
「だ、だって仕方ないじゃん、姉さんのが無駄にでかいのが悪いんだ! ていうかあんまり騒ぐなよ。もし人が集まってきたら……あぁ、死にたい……」
「泣くなって! 俺が探すからちょっとだけ待ってろ」
「うぅ……」
凪沙の頭をぽんと叩き、春風は水底に潜っていった。
休憩所の隅で膝を抱えていたらかき氷を差し出された。海パン姿の春風が少し不機嫌そうな顔をして、受け取るように促してくる。「ほれ」
「いくらだった?」
「俺のおごりだ」
「今朝負けたのはあたしでしょ。まだおごってなかったし、あたしが払うよ」
「いいってば。あんましつこいと二つとも俺が食べちまうぞ」
「……そういうことなら」
春風がお腹を壊したら凪沙にも迷惑だ。大人しく受け取った。
「……イチゴミルクか」
「好きって言ってなかったっけや」
「これが好きなのは姉さんだよ。姉さん甘いもの好きだし、イチゴ好きだし」
「あー……悪い、勘違いしてた。俺のと替えるか?」
「んーん。あたしも嫌いじゃないから」
「悪いな」と言って春風が隣に腰を下ろした。
「う……」
――――近くない?
凪沙が意識し過ぎなのだろうか。やや屈辱に思いながらも、さりげなく距離を開けた。水着はもう見つけてもらったので心配ないが、先ほどはしゃいでいた時に無防備な部分を見られてはいなかったかと今更不安になってしまう。春風は動体視力が良いので見られた可能性も充分あり得る。
そんな凪沙の心配をよそに、春風は何事もなかったかのような顔で話を振ってくる。
「ほんとはどの味が好きなんだ?」
「……ブルーハワイ」
「おこちゃまか」
「っ……どこ見て言ってんだ、ばか」
小さな氷山をスプーンストローでつつきつつ、視線を海の方へ逃がした。春風は「見てねえよ」と嘆息し、それからここぞとばかりにからかってくる。
「あんま気にしなくていいんじゃないか? 日本人のって基本的にサイズ控えめだし? 小さくたって需要あるだろ。それに大きいと登りでハンデになりそうだ。重りになっちまう」
「余計なお世話だし……」
「そもそも美紗季さんの水着を着たのが間違いなんだって。スク水でいいだろ。むしろその方が需要あるんじゃね?」
「むぐっ……あたしだってたまには、その……おしゃれしたい時があるんだ」
「ほーぉ」
「何だよその珍獣を見るような目は」
「俺はてっきり、チャリのジャージ以外には無頓着だとばかり思ってたよ。よし、そういうことなら買いに行くか? 水着」
「あんたと一緒に!? なんでそんな羞恥プレイをしなきゃなんないのさ」
「どうせナギ一人じゃ恥ずかしくて水着選べないだろ。休みは長いし、きっとまた海に来るじゃん。だったら今のうちに買っとこうぜ」
二人で買い物って……。
まるでデートじゃないか、と意識してしまい頬がカァッとなった。
思い出してみれば、毎日のように練習して食事や宿題も一緒にしているのに、春風と普通に買い物したり遊んだりしたことはなかった。美紗季は時々、春風と二人でスーパーまで買い出しに行ったりしているのだが。
「あ……あたしのセンスは、自慢じゃないけど当てにならないから……だからハルが選んでよ。ちゃんとまじめに手伝わなきゃ殴るからなっ」
「はいはい」
春風は大きな目を細め、穏やかに微笑んでいる。
「ナギ、早く食べないと薄めたイチゴジュースになるぞ」
「え? あっ……」
言われて気づき、溶けかけのかき氷を急いで口に運ぶ。案の定、頭痛に見舞われた。「痛……」
「ははっ」
春風も真似して氷をかき込み、頭を押さえて「やっぱ痛え」と笑っていた。やはりこいつはバカだ。あたしの隣にはバカがいる。
でも、こんな夏もありかもしれない。
「……ねぇ、ハル」
「ん?」
「もしおじさんとの〝賭け〟に負けても、絶対諦めるなよ。遠回りにはなるだろうけど、島で自転車部を作ればいい。その時は、あたしも手伝うからさ」
…………。
……………………沈黙。
春風はしばらく口をつぐんだのち、猛スピードでかき氷を食べきった。空いた紙容器をぐしゃりと握りつぶし、すっくと立ち上がる。快活なまぶしい笑顔を向けてきた。
「もしもの時は頼らせてもらうよ。でもまぁ、ナギの足を引っ張る真似はしないからさ、心配すんな」
――――ちがう。
訂正の言葉は声にならなかった。足を引っ張るなんて言わないでほしい。
こんな毎日が続くなら、このちっぽけな島から出なくても構わない――凪沙は今、確かにそう思っているのだから。
海水浴から帰宅し、夕飯を食べた後。春風は洋間の窓にもたれ、縁側で参考書を開いていた。室内の灯りのおかげで充分に明るく、勉強に支障はない。ページをめくるとそこに陰が落ちた。窓が室内からノックされる。
「スイカ持ってきたよー」
「あ、ども」
美紗季の両手がふさがっていたため春風が窓を開けた。スイカを載せた大皿を間に置いて座る。
「凪沙ちゃん起きないね。まだ八時なのにぐっすりみたい」
「意外とはしゃいでましたし、最近練習ばかりだったから。仕方ないんじゃないですか?」
「うん……」
美紗季は優しく微笑み、スイカを一切れ手渡してくる。受け取る時、手と手がかすかに触れ合った。互いにびくっと震える。その程度のことは意識しまいと、春風は表情を変えず、すぐさまスイカをかじった。食べるたびに思うのだが、これは野菜や果物というより飲み物ではなかろうか。
「時に春風くん」
「ふぁい?」
「私も海に行きたかー……なんて」
「じゃあ行きましょう」
「なんか軽い……」
美紗季が珍しく不満気だ。しばし上品にスイカを咀嚼してから、もじもじと何か言いよどむ。春風は黙々と次のスイカに手を伸ばしながら彼女が口を開くのを待った。
「……私、春風くんはよくある恋愛マンガの主人公とは違うって、そう思うてたんだけどなぁ。だって実は、全然鈍感じゃなかでしょ?」
「さぁ、どうっすかね。俺、自転車にすべてを捧げる健全なスポコン野郎だもんで、そうゆうのはイマイチわかんないっつうか」
「ずるい……」
「ずるくて結構」口に溜めていた種をプププッと庭に撒いた。「それより、この問題教えてもらいたいんですけど」
「むぅ……どれどれ、数学か」
問題を見せると美紗季が覗き込み、身を寄せてきた。意識しまいと思うがどうしても気になってしまう。なんでこんないい匂いがするんだろ……。でも俺は汗くさくねえかな? 大丈夫だよな?
「春風くん、ねえ聞いてる?」
「へっ? あ、すいません。もっかい最初から……」
「もう」
美紗季は最初こそ不満そうだったものの、丁寧に教えてくれた。見た目で文系だと判断していたので少し意外だ。このことを本人に伝えたら得意げに笑ってくれた。
「文系だけど、国立志望だから理数も勉強してるの。そもそもこれ高校入試レベルだし、できて当然でしょ?」
「おおー、さすがっすね。どこの大学行くんですか?」
「できれば首都圏に行ってみたいかなー。せっかく島を出るなら都会に住んでみたいもの。福岡もよかけど……せっかくだし遠いところ、かな。春風くんは東京に行ったことあっと?」
「ちょっとだけですね。在来線だと実家から四時間くらいかかるんで、わざわざ遊びに行く距離じゃないです」
「そっか。春風くんは大学どこ――って、まだ全然考えてないよね」
「まぁ、パッと思いつくのは都内か……。実家の近くにはあんまり大学ないんで、とりあえず、どこかで一人暮らしですね」
「それじゃあもしかすると――」
と美紗季は瞳を輝かせた。
また互いの距離が縮まる。気を抜いたら夏の魔物にそそのかされ、一線を越えてしまいそうで怖いが、美紗季から目を逸らせない。スイカを食べたばかりなのにのどが乾く。
「あの……美紗季さん、近い……」
「! ご、ごめんねっ。ついうっかり……うぅ」
美紗季はがばっと離れ、混乱した様子であわあわと口走る。最後に「私の意気地なし……」と消えそうな声でつぶやいた。消えていない。耳に届いてしまったせいで、春風はまだ首から上が熱いままだ。
――――何だこれ。
――――すごく恥ずい……。
リン、と涼しげな音色が頭上から降ってきた。それを合図にスイカに手を伸ばすが、触れたのは人肌のぬくもり。二人ともさっと手を引っ込めて謝罪し合った。
「……はい」
美紗季がまたスイカを渡してくれた。それをもらおうとして、春風の指先は空をつまむ。スイカに逃げられた。
「そうじゃなくて、その……」
美紗季はスイカを遠慮がちに春風の口元へ運ぶ。少し怖がっているようにも見えた。
「噛み付いたりしませんよ」
「ち、ちがうよ! そんなんじゃなくって……あ、あーん、って……」
「え」
のどが鳴った。先ほどからのどの渇きが一向に癒えない。恥ずかしさのあまり視線をさまよわせるが、彼女の要望には逆らえなかった。それは春風の欲求でもあったから。
「……んぐ」
「おいしい?」
「…………はい」
果汁が美紗季の指を伝った。薄い赤色に濡れた指先を、美紗季は躊躇うそぶりを見せつつも唇で食んだ。
「…………甘か」
風の凪いだ蒸し暑い夜。夏の魔物は彼女にも憑りついたらしかった。