Stage7
七月中旬。
徐々に増す蒸し暑さとともに夏休みへの期待が高まる中、連日、進路相談が行われていた。大半の生徒は近所の高校へ行くのですぐに終わり、その分、島外を志望する者や成績不振者に時間が割かれる。
今日は春風の番で、放課後の教室に担任の岩尾と二人きりだ。窓際の席を二つ向かい合わせて座っている。岩山の如き巨漢と至近距離で二人きりになると圧迫感がすごい。怖がっていた凪沙の気持ちが理解できた。
エアコンのない教室はかなり蒸し暑かった。扇風機もなく、潮の匂いを孕んだぬるい風が時折、開け放たれた窓から吹き込んでくる程度だ。玉のような汗を浮かべた巨漢はバインダーでしきりに扇いでいる。
岩尾が進路希望票を取り出して言う。
「五高か天崎高……遠海と同じだが志望の順位が逆だな。これでよかとか?」
「いつでもナギにべったりってわけじゃないんすよ。それで合ってます。一応書きはしましたけど、天崎に行くことはない……」
「ふむ。天崎は運動部主体の学校だからな。確かにお前の成績からしたらもったいなか。まぁ、五高でも余裕で合格できるだろうがな……島外の進学校は考えとらんのか? 時間はかかるが、高速船を使えば通えるぞ」
「進学校に行ったからって、良い大学行けるわけじゃないですし。俺、一人でもこつこつ勉強できるタイプだと思うんで。そういうとこ行けば進学しやすくなるとは思いますけど、自転車に乗る時間を削ってまで勉強に打ち込みたくはないっす」
「そうか。良いところへ行ってくれたら学校としてはうれしかばってん、仕方なかね」
「すいません」
「謝ることじゃなか。これは他でもない、お前の将来を左右することよ」
いいこと言うじゃん――と思って顔を上げると、父親のようなまなざしが春風に向けられていた。目が合うと少し照れくさい。しかし岩尾はどっしりと構えたまま、決して春風から目を逸らすことなく言葉を続ける。
「親御さんにはもう相談したとか」
「はい。こないだ親父と話して、天崎はやめておけって言われました。部活のためだけに高校を選ぶのは……バレーの時みたくなったらお終いだから、反対だそうです。俺も色々考えたんですけど、結局、納得しちゃいました。親父が正しいです」
「ふむ。まぁ親父さんの言うことは正論だな。オイも同じ意見たい」
――――だよな……。
近頃癖になりつつあるため息をついた。高校で自転車部に入れないことに未練はあるが、どうしようもない。
しかし、と岩尾が付け足した。
「お前の本音はどうなんだ。やりたくはなかとか? 自転車ば、高校で」
「やりたいに決まってんじゃないですか。だから今こんなに悩んで……」
「だったらやればよか」
――――はぁ?
「いきなり何すか。部活のために高校を選ぶべきじゃないって言ったばかりでしょ」
「そうさ、選ぶべきではなか。五高に進学した方がベターなのは確かだからな。だが五高に劣るからといって、天崎に行くことが間違っているわけでもなかったい。より良いか悪いかの違いはあっても、正解なんてないんだ」
「だから、やりたい方をやれと?」
「ああ」
岩尾は首肯した。それからまた、相変わらずまっすぐな両目で見つめてくる。
「自転車をやりたい、でも偏差値の高い大学にも行きたい。だったら練習も勉強も頑張るしかないだろう。勉強の環境が整っていないと難しいかもしれんが、『一人で勉強できる』と言ったのはお前だ」
「じゃあ――」
「それでもオイは親父さんを支持するがな」
「優柔不断か! どっちの味方なんだよあんた!」
「お前の味方に決まっとるだろう。教師だからな。あくまでオイ個人としては親御さんば支持するというだけだ。お前自身が選んだ道なら基本的に背中を押してやるさ」
「……じゃあ、今、押してください。お願いします」
ゴンッと額を机にぶつけた。そんな春風の姿に苦笑する声がして、頭をわし掴みにされる。ぐぎぎ、と顔を上げさせられた。
「これは教師の意見ではなく、ただの独り言だ。やけん礼は要らんぞ」
「はい」
「オイもそれなりに長くこの仕事をしてきたけん、今まで色んな奴に出会ってきた。生徒だけでなく、その親や同僚の教師、オイの家族や友達も含めてだ。その中には実際に、敷かれたレールの上を走って一定の成功を手にしたもんがたくさんいる。まじめくさった人生だが誰にも否定はできん。――が、そんな彼らは往々にして、大きな挫折や敗北を知らない」
五高に進んだ先に待っている人生は、おそらくそれだろう。
「一方で、何かに失敗したもんも大勢いる。困難に躓いて転び、傷ついて、そのまま立ち上がることをしなかった連中ったい」
「それは……春までの俺っすね」
「かもしれん。では、今挙げた二つのタイプに共通していることは何か?」
岩尾は春風に少し考えさせたのち、自分なりの答えを教えてくれる。
「オイは『挫折できないこと』だと思う。失敗したことがないから、あるいは敗北に屈したから、挫折することが怖い。だから次のでかい目標に挑戦できない」
実感の込められた声音だと感じた。だてに長くは生きていないのだろう。
岩尾は最後まで目を逸らさずに、春風と向き合ってくれた。
「なぁ反町……本当に怖いのは転ぶことじゃなくて、転ぶ痛みを忘れることなんだ」
帰宅すると凪沙が縁側に腰かけて待っていた。すでに自転車用のジャージに着替え、入道雲の浮かぶ空を見上げている。隣では距離を置いてトラ丸がお昼寝中だ。春風は自室に荷物を置き、洋間を突っ切って縁側に出た。潮風に乗って草木の匂いが運ばれてくる。裏山の方では蝉たちが合唱している。
「お待たせ」
「……遅い」
あまり尖っていない声。凪沙はごろんと寝そべり、こちらを仰ぎ見てくる。
「最近迷ってるみたいだったけど、進路どうするの。クマ先生は役に立った?」
「あぁ。あの人、やっぱいい人だな」
「基本うざったいけどね」
その通りだから反応に困る。まぁな、と苦笑いした。凪沙の隣に腰を下ろし、トラ丸の喉をゴロゴロしてあげる。
「もうすっかり夏だな」
「うん」
青と白の鮮やかなコントラストが目に沁みる。今年も暑くて熱い青春の季節がやって来た。庭を吹き抜けた風が鮮烈な思いを胸に運んでくる。
「ナギ」
「うん?」
「レースに出よう」
きょとん……と、凪沙は突然の提案に驚いたようだった。しかしすぐに不敵に笑い、「待ってました」とばかりに跳ね起きる。
「いいじゃん、そのアイディア。さすがハル」
「だろ」
笑い返して、春風は立ち上がった。庭を囲う塀の遥か彼方に、小さいながらも海が見える。あの向こうに行きたい――。
覚悟は決まった。
「大会で勝って、天崎行きを親父に認めさせる」