Prologue
高校時代の部活の経験と妄想を糧に。
とりあえず最後まで書けてるので、エタることはないです。
――――腐っていく。
軽トラが揺れた拍子に頭を窓にぶつけ、反町春風は目を開けた。眠っていたわけではないが、しばらく意識が飛んでいたようだ。また時間を無駄にしたことを少し悔やむ。仮に起きていたところで有意義な時間を過ごせていた自信はないが。
隣でハンドルを握っている父が笑った。
「長旅で疲れてるんだろう。着いたばっかりなのに連れ回して悪いな」
「別に……部屋ん中にいたってつまんないし、気にすんなよ」
春風は今日この島に引っ越してきたばかりだ。これからは両親と離れ、父方の祖父母と暮らすことになっている。父は夕方のフェリーで帰るから、その前に二人で親戚に挨拶をして回っているところだ。
「そうか。じゃあちょっとだけ寄り道していいか」
「ん……」
二つほど坂を越えたところで路肩に停車した。助手席から降りると濃厚な潮の香りが鼻をくすぐる。眼前にはだだっ広い砂浜が広がっていて、海は遠くの防波堤のさらに向こう側に見えるだけだ。父が自慢げに言った。
「どうだ、良いところだろう」
「めっちゃ潮引いてるけど」
「おっ。泳ぎたかったか? 実はこんなこともあろうかと水着を持ってきたんだが」
「まだ三月だよ」気を利かせすぎな父には困ってしまう。「泳ぐにはかなり早いだろ。それに……一人じゃつまんない」
――――腐っていく。
「父さんもいるぞ!」
「もう中三になるんだぜ? 親父と二人ではしゃぐような年頃じゃないし」
「そんなこと言って、だらしなくなった腹筋を見せたくないんだろう?」
「うっせ。まだそこらの女よりくびれてるっての」
無神経な父にしっしっと手を振った。父は特に気にした風もなく、「少し遊んでくる」といって靴を脱ぎ捨てて砂浜を歩いていく。春風は口をひん曲げたまま啓人らに寄りかかった。少し乱暴な海風が伸ばし過ぎた髪をもてあそぶ。部活を辞めてから切っていない。
そうか。
もう半年が経つんだ。
「……遠くまで、来ちゃったなぁ」
生まれ育った町を離れて父の故郷に引っ越してきたのだ。移動時間は自動車とフェリーを合わせてほぼ丸一日。やってきたのは長崎県五島市、福江島。お偉いさんを殴った若き書道家が送り込まれたあの島だ。自然しか取り柄がない――というと言い過ぎだが、かなりの田舎であることは否定できない。
――――こんなところで、また見つけられんのかな。
俺はまだ、何かを頑張れるかな……。
半年前から胸に居座り続けている空虚感に苛まれる。筋トレはおろか、かつては日課だったランニングさえやめてしまった。目標を失い、立ち止まっていると、生きている実感が無くなってきた。起きて、食べて、寝て、また起きる――そんな、ただ生きているだけの毎日。これではまるで、
「死んでるみたいだ……」
声に出して初めて気がついた。先ほどから頭をよぎる言葉の意味。
死体は腐る。
――――このままじゃ俺はダメになる。
まっすぐだった頃の自分が朽ち果てて、消えていく恐怖を自覚した。しかしどうしたら良いのか分からない。いや、とにかく前に向けて走り出せば良いのだろうとは思っていても、行き先が定まらないままでは最初の一歩が踏み出せない。
走り方が分からなくなった。
昔はもっとずっと単純だった。今みたいにうだうだ悩んだりしなかった。明確なゴールも、そこを目指すモチベーションもあった。
ああ。
誰かが手を鳴らして導いてくれたら、どんなに良いだろう。
軽トラの進行方向に目をやった。西日を見ていると気分まで沈んでいきそうだ。
どうせ父はすぐに帰ってくるだろうから車内で待っていよう。今度こそ昼寝したっていい。そう思って背中を浮かせ振り向いた、その時、
「!」
春風の前を一陣の風が駆け抜けた。それに煽られるようにして振り返り、目をすがめる。
自転車だ。
競技用の、タイヤが細い自転車――ロードバイク。
春風の動体視力はその姿をつぶさに捉えていた。乗っているのは春風と同い年くらいの女の子だ。格好は薄手の長袖ジャージにサングラス。まだ肌寒いのに汗だくで、髪を頬に貼りつけて、酸素を求めて喘ぎながらも、笑っていた。走るのが楽しくて仕方ないという風に、分かりやすいくらい生き生きとしていた。
一目惚れだった。
「…………あ」
足がうずく。
追い風が背中を押す。
「ちょ、待て! 待って君! 待ってくれ!」
春風は慌てて地面を蹴った。走りながらビーチサンダルを捨て、少女を追って坂道を駆け上がる。……重い。身体が、脚が重たい。肺が縮んでしまったのか、息苦しいのに深く息を吸い込めない。分かりきっていたが運動不足だ。
ローディの少女は車体を右へ左へ、小刻みに振りながら、あっという間に頂上の向こうに消えた。ずぶの素人でもきれいだと分かるフォームだった。まるで鳥が風に乗って舞い上がるかのようなその動作が、春風の両目にくっきりと焼き付く。
――――何やってんだ、俺。
息が苦しいのに、脚どころか腕もまともに振れないのに、ふくらはぎはパンパンに張っているのに、立ち止まれない。自転車の少女はとっくに下ってしまっただろうに、諦められない。
それどころか、あの少女のように口元がほころんでしまう。
苦痛が生の実感を与えてくれた。そんなマゾヒズムに疑問さえ抱かなかった。
――――あぁ。
――――俺、まだ生きてたんだ。
「むぐぁ!?」
油断していたら頂上手前で足がもつれた。つま先が一瞬宙に浮く。反応が遅れ、受け身を取れずに倒れ込んだ。鼻っ面に痺れるような痛みが走る。
「痛ッ……!」鼻に手をやりながら顔を上げた。そして驚きのあまり鼻血を吹き出しながら、失礼にも人を指差す。「って、いた――――――――ッ!?」
「きゃっ!?」
少女はびくっとこちらを振り向いた。止まって休憩中だったようで手にはボトルを持っている。サングラスを外していたため端正な素顔を拝むことができた。大きく見開かれた切れ長の目に、通った鼻筋、健康的に焼けた肌。流線型のヘルメットから覗く黒髪は短めで、長く美しいうなじのラインが強調されている。
――――かっけー……。
緊張と興奮で喉が鳴った。春風は四つん這いのまま少女に接近する。
「ハァ……のっ、それ……ハァッ……なぁ、俺にも……」
「はぁ? ちょ……あんた何!?」
「俺に!」
彼女を至近距離で見上げ、鼻血を垂れ流したままロードバイクを指す。
「俺にも、このチャリ乗らせてくれ!」
「キモッ」
鼻から首まで衝撃が貫いた。メキメキィ、と骨が軋む音が脳に響く。傷口を靴裏の金具で抉られて、春風はさらなる鼻血をまき散らした。「踏まれた」と気づいた時にはすでに、再び空を飛んでいた。
鼻先から血を滴らせて軽トラに戻ると、ちょうど父も帰ってきたところだった。砂にまみれた足を拭いていた父は、春風を見るなりぎょっとした様子で訊ねてくる。
「どどど、どうしたんだ春風。何があった」
「……転んだ」
言えない。
ナンパまがいの行為に及んで返り討ちにされたなど、言えるはずがない。
春風は助手席に乗り込み、中に置いてあったタオルで鼻を押さえた。瞑目してふーっと息を吐く。時間の経過とともに冷静になってきた。つい先ほどの愚行について猛省し、名前も知らない少女に胸の内で謝っておく。
「大丈夫か、春風。けっこう血が出てるみたいだが……きれいなタオルがもうないな。三井楽のおじさん家で手当てさせてもらおう」
「うん。……あのさ、親父」
「どうした?」
「その……」
春風は言いよどんだ。わがままを言って引っ越してきたばかりで、また駄々をこねて良いものかと悩む。
冷静になった今も、胸の奥には熱い衝動が渦巻いている。走ることへの欲求が再燃していた。それもただランニングするのではなく、あの娘と同じ自転車に乗って走りたい。
一目惚れしたのだ――あのロードバイクという乗り物に。
父は車を動かさずに言葉の続きを待っている。横目で窺うと目が合った。きまりが悪くて目線を横に逸らす。
「俺、ロードバイクに乗りたい」
むかし別名義で書いたものを、キャラの名前以外、原型が残らないくらい改稿しました。