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機械化した人々の物語

Prologue


雨が降り続けていた。

全身に降りかかる水量が増すほど、体力が吸い取られていくようだった。

重い足取りを前へ前へと進めながら、私はずっと頭の中で答えのわからない疑問についてばかり考えていた。酷く非生産的行動だが歩く事以外にする事がないこの状況ではむしろうってつけの疑問だったのかもしれない。だが、結局答えがわからずに考える事をやめる。その繰り返しだ。

考える、やめる、考える、やめる。

足は地面から跳ねた水とカッパで隠し切れない部位に雨が降りかかりズボンが濡れ酷く重かった。雨が入りこんだ靴からは不愉快な感触とカパッカパッといった酷く耳障りな音が旋律のように続いている。しかし、止めたいと思う足取りを止めるわけにはいかなかった。私は、自分にいくらか叱咤をして歩き続けた。周りに遅れるわけにはいかない。


彼に会いにいくのだ。実の所そこへは行きたくないのだが、そういうわけにはいかなかった。インタビューをしなくてはいけない。仕事なのだから私の義務であろう。


私がリゲル放送局に勤めだして5年になる。最初は雑用ばかりだったが、運よく地方局のアナウンサーをさせてもらえる事になり、その初仕事が現在の状況である。

以前、首都の置かれていた旧東京地区はかつて夢の島と呼ばれる埋め立て地があった。

夢の島だけではなく以前の華やかなりし頃の状況はもうなく戦乱の爪痕だけが残る、旧東京地区はアングラで暮らす以外に選択の余地がない者達の多い無法地帯になりはてていた。

話しを戻すが、そこは非公式のアンドロイド達の墓場となっている。アンドロイドというとオートマタ(機械人形)を連想するが、人間が破損あるいは消失した器官を補う為に開発された機械による補助器官の事である。現在アンドロイドとはそういった人間を揶揄する言葉に使用されている。だからどんなに機械で換装しても彼らの脳は自前のもので確実に人間なのだから本来なら彼らは憲法によって守られるべき対象の国民に違いない。それを廃棄といった形で捨てる事等本来なら見過ごされるものではないと思う。だが、今はもうそんな議論をする人間なんていないだろう。理屈と理論が必ずしも守られるとは限らないのだ。所詮人間の作った目に見えない束縛、口約束のようなルールである。数の暴力が成功すればないに等しい権力だった。

この問題は酷くグレーゾーンの存在になってしまったのかもしれない。全員それがよくない事だと頭では理解しているが、放置している。それが一番得策だとでもいうように、なんとかする為には金がいる。沢山沢山お金がいる。


一般市民として保護された側の私としては、よくわからないが現在この国も戦乱の真っ只中らしい。普段となにもかわらないから、変化がわからなかった。ただ一度、旧東京地区が瓦礫の山になったニュースをみた時のみ幼い私の心は酷く戦慄を覚えたものだった。でもただその一度切りだった。まるで誰にもわからないように密やかに行われている儀式のように、よその国では毎日のように血なまぐさい戦場が映し出されるが、先進国と呼ばれる国々がその争いの舞台となる事はなかった。旧東京地区が砲撃された時ですら、もうそこは繁栄こそすれぞ首都ではなかったのだから。


-いまもあの汚い埋め立て地のバラックに父はいるのだろうか-


ふと私は父の事を思い出した。

父は事故で下半身不随になった。子供(私や兄弟を含む)や妻の為に借金をして当時最先端だったアンドロイド医療技術に全てを託し彼はアンドロイドとなった。働けなくなるよりは最新技術で社会復帰するのが生産的であり、当然の行為だと…当時の社会の風潮だった。いや、今もそのままだ。

父がアンドロイドの手術を受ける判断をしなかったとしても周囲がするべきだ。一生ベッドの上で過ごす事がよいとおもうのか?それが家族にどれほどの負担をかけると思うのだ?というように説得したに違いない。どちらにしろ父がアンドロイド手術をしなかったという未来はもはや存在しない。過ぎ去った過去についてどれほどああすればよかったと思っても過去を変える力は誰にもない。物語のようにもしかするとできる人間が居たとしてもだ…そんな力は私にはないのだ。私にはない。そこは変えられない。

あの判断は間違いだったのか、正しかったのか?社会は働けない人間に冷たい。技術は加速し、障害者、またはそれらに関わる言葉は差別用語として以前の世界では使用すら制限されていたが今は違う。ヒエラルキーは一巡を終え戻ってきたのだ。健常者の地位が再び戻り、障害者はそれを治す手段があるのにそれに応じない者。甘えという感性が今の世の中の人が唱える風説だった。障害に甘えるな。治せるのに治さないとはどういうことだ?手術をするのに政府から支援金がでる。それでも治さないのか?誰もが口を揃えてこういうのだ。発言、立場の多いほうが勝つのはどれほど時代が巡っても変わらないであろう。それに反論したかった時代もあるが、今ではそんな気持ちすら湧いてこない。理論する事すら無駄なのだ。弁の立つ先導者にでもならない限り彼らの根っ子にある価値観は揺らぐ事はないだろう。その力もまた、私にはない。


アンドロイド達が廃棄されていった理由について考えていこう。

最初はよかった。最新鋭の技術はたちまち人々に伝わり、障害者健常者関係なく手術を受けたがる人間が増えていった。アンチエイジング、痛みのないボディ、身体能力の向上。

CMや広告では喜びの声声声で溢れ、手術の利点のみが語られていく。

技術は更なる技術を編み出し、どんどん進化していく。疲れていくぐらいに日々はめまぐるしく変わっていく。変わっていないと思ってもだ。ある日、自分の周囲が全て変わっていることに気づいてから理解してしまう人もいるだろう。私がそれだ。

アンドロイド技術もそうだ。発注が増えれば中小企業の下請け業者が部品、部位を肩代わりし生産していく。倒産していく所もある。そうすればその中小企業の技術者は他方へちらばりもう生産できない部品が生まれいく。使えない部品が増えればボディのアップグレードをしていくしかない。年毎のメンテナンスにも莫大なお金がかかってくる。経済と利益が溢れればまた技術は向上しアップグレードの繰り返しだ。繊細さの求められる技術には古い性能は追いついていかない。いつまでもいつまでも換えていく事が余技なくされる。

健常者はともかくとして障害者のアンドロイド化も初めの手術には確かに支援金は配布されるがその後はどうだろう?少子化が危ぶまれる中、いつまでも支援などしてもらえない。健常者のように動けるようになったからには、周囲と同じように社会に貢献していくしかない。

アンドロイドになった人々は自らの体がまるで借金の利息のように重くのしかかり、その為に働いて働いて働き続けるしかない。でも、足りないのだ…。

そして私の家族のように、廃棄するしかなくなる。あの島に。

スイスの画家ベックリンの作品を思い出す。「死の島」。まさにあそこはあの絵のように静謐な死の世界となった。誰が始めに捨てたのだろうか?わからない。が、一人が捨てそれからいろんな人があそこに家族、恋人、友を捨てにいった。

そうして、あの島が生まれた。どうしてやるのが一番よかったのだろうか?誰もそれらを殺さずにただ捨てていくのだ。


父は…あの雨の止まないバラックで動くこともできずに眠っている。眠っているというのは間違いかもしれない。鉄の檻の中にいるのだ。今もずっと。

捨てていくとき、私は一度も振り返らなかった。家族の為に働いてくれた者を捨てる時の気持ちはみんなどんなものだったのだろうか。

私はあの時ただただ疲れていて。後ろめたい気持ちとどこかホッとした気持ちがあった。


今はその時と丁度間逆の気持ちかもしれないし、むしろ虚無にも似た気持ちなのかもしれない。ただただ、無意味な思考を巡らせてはやめてを繰り返し心を虚無に近づけていく。

そして、雨の中を皆が厳かな静粛の中巡礼へ行くのだ。死の島へ。

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