魔物の瞳
女性向け要素を含み、少々の暴力的場面があります。苦手な方はご注意下さい。
暗い。それに肌に触れるこの不快な感じ、これは何だ。
手を動かす。足も動かす。わずかな隙間にざらざらと落ちてくるのは湿った土だ。そのほかに、土ではないものが冷たくぺったりとまつわりついている。見えないが、人間の形をしたすでに人間ではないものだとわかる。それはとても嫌な感触だった。それでいてそれらは同類なのだと感じた。とにかくここから出たかった。私はもがいた。頭の上の土を根気よく掻き払った。運よく私は浅いほうにいたらしかった。手が、夜の空気に触れた。
私は土の下から這い出し、空を見上げた。美しい月夜だった。私の着ているものは服の形を成していないほどぼろぼろだったが、さして気にならなかった。少し歩いてゆくと井戸を見つけたので頭から水をかぶって土を落とした。だいぶさっぱりした。私はまた歩き出した。どこに向かうわけでもなかった。ただひどく寒かった。それにひもじかった。
あたりにはぽつぽつと民家があったがどれも人がいなくて、多くは煙を上げていた。今は戦乱の時代なのだ。道端にときどき死体が転がっていた。それらには興味がわかなかった。
さむい、さむい。同類は役に立たない。・・・
また少し行くとやっとの事で残っている家が見えた。窓から明かりがもれていて、人がいるのがわかった。私は裏手に回って戸をたたいた。中で話し声がして、疲れた様子の中年の男が顔を出した。
「うちにはあげられそうなものはないよ。悪いがほかをあたってくれ」
男は私が何も言わないうちにそう言って戸を閉めようとした。私は戸に手をかけた。
「あんたも焼け出されたんだろうが、みんな自分のことで手一杯だ。うちだってかかあと娘が・・・」
顔をそむけながらちらちらとこちらを見るその男の目を、明るい茶色だなと思って覗き込んだ。
すると言葉が途切れて、男は、ふらふらと私に近づいてきた。肩に手をかけると人間の体温が伝わってきた。首筋に歯を立てて吸い上げた血潮は熱くて、それが体の中に降りてくるとなんともいえない充足を覚えた。とりあえず満足して体を離すと男は倒れた。私は立ち去った。その晩あてどなく歩き続けて、夜明けの前、何の疑問もなく森の暗がりに身を沈めた。
目覚めると私は森の中を歩いた。うっそうとした森の中では星明りすら見えなかった。昼も日がささないのだろう、地面は苔に覆われていた。私ははだしだったので柔らかい苔はありがたかった。しばらくすると寂れた街道に出た。どっちに進もうか迷っていると木の陰に光が見えた。光は複数で、近づいてきた。よく見ると何人かの人間がランプを持って歩いているのだった。彼らは物々しい格好をしていてあまり清潔ではなく(私も人のことは言えないが)、攻撃的な顔つきをしていた。
「なんだ、乞食か」
最初に姿を現した人間は私を見てそう言った。私は物乞いをした覚えはなかったが、勘違いされて困るわけでもなかったので黙っていた。
「どこか焼かれた村の生き残りかなんかだろう。まあ乞食には違いねえな」
「それにしてもひでえなりだ。こんなの襲っても銅貨一枚出やしねえ。ついてねえ」
どうやら山賊かそれに近い者達らしい。しかし彼らは私の格好を見て失望したらしくそのまま通り過ぎそうだった。しかしそうはならなかった。
「確かに金目のものはなさそうだが、こいつ自身が金になりそうだぞ。見ろよこの顔。ちょっと洗ってまともなもの着せりゃ言い値で売れる。」
明かりを突きつけられてまぶしくて目を細める。いつの間にか囲まれていて、厄介なことになっているようだ。
「確かにそうだ。せっかく見つけたのを無駄にすることもない。」
「おいお前こっちに来い。しかしきれいな面だな、本当にそこらの農民か?黒目がでかくて教会の絵みたいな」
彼らの一人が私の目をのぞく。この男の目は茶が濃い。私が見つめ返すとその男は突然腕を放して(私は腕を掴まれていた)足許にひざまずいた。私は今日も食事にありつけると思った。もっとも昨日のように飢えているわけではなかったので、何もこんなおいしくなさそうなのを食事にしなくても良いような気もしたが。
「何やってんだ。そいつを捕まえろ」
男の仲間がわめく。数人が一斉に動いたので私はどれの目を見ていいかわからなくなった。あっという間につかまってしまった。抵抗したがびくともしない。それどころか簡単に肩の上に担ぎ上げられた。あまり楽な姿勢ではない。
「何だ、まるで女の力だな。本当にそれ用にしか売れそうにねえ。」
「売る前にやらせてくれよ。」
担がれたままどこかに運ばれてゆく。さっきひざまずいた男はふらふらとついてきている。やがて建っているのか倒れているのかわからない粗末な小屋に至って私はその中に投げ出された。私を担いできた男は、銅貨一枚出ないと言っていたにもかかわらず、なぜか私の着ているものを剥ぎ取り、脚の間に体を入れてきた。
「おとなしいじゃないか。」
その男が私の顔を覗き込んだ。私はその目を見た。それに、その後ろにぼんやり立っていたさっき惑わした男のことをもう一度見た。二人は私の前で膝を折った。私はそのうちの一人の首に歯を立てた。二人以外の男たちは騒然となった。我々は囲まれた。彼らは武器を持っていて力も強そうだったが腰が引けていた。私が咬んだ男はさっきまで仲間だったうちの一人に襲い掛かっていった。乱闘になったがしまいには我々だけになった。彼らは私についてこようとしたが私はなんとなく不愉快に感じて、どこかへ行けと命じた。最初に私から服を剥いだ男はそれでもついて来そうになった。私は左胸に手を伸ばして心臓を貫いた。さっきまでびくともしなかったのが嘘のようにたやすかった。それで跡形もなくなった。私はその場に残された服をとりあえず身につけた。靴は大きさが合わない上に重たかったが、ないよりましだった。私は小屋を出て街道に戻った。
その次の夜には町に行き当たった。人が多く、土から這い出してから初めて女性を目にした。さほど飢えてはいなかったが、特に若い女たちはすこぶる魅力的に思われた。私はある家の裏手で勝手口から出てきた女に近づいてみた。しかし女は私の服装をちらりと見るなり、顔も上げずに中に引っ込んでしまった。どうやら私は町の中ではたいそうまずい様子をしているらしかった。座って休みたかったが、町の中ではどこに座ってよいのか見当がつかなかった。なお運の悪いことに雨が降ってきていた。
やがて町の中心に出た。そこには教会があった。扉には鍵がかかっていなかったので雨を避けて聖堂に入った。祭壇のあたりは燭台の灯に照らされてぼうっと浮かび上がっていた。奥に聖画が見え、私は目を背けた。これ以上近づかないほうがいい。
「そこにいるのは、誰か」
急に声をかけられる。修道士のようだったが胸のクルスははずされて聖壇の上にのっていた。その人間は近づいてきた。あごひげが短い。
「旅人か?泊まりたいのなら来なさい。教会は人を拒まない」
私は目を見た。修道士は頭を押さえた。もう一度視線をとらえた。すると今度は動けなくなったようだった。私はその血と命を奪い、ついて来られるとわずらわしいので心臓を破壊した。それから衣服をもらうことにした。今身につけているものよりは清潔で軽く、履物もちょうど良い大きさだったからだ。それで静かに去るつもりだったが、奥から主教が出てきて大声を上げてしまった。人が集まってくる気配がした。鐘が鳴った。その音は全身にじんじんと響き、私は気分が悪くなった。よろめきながら聖堂を出、やはり教会はまずかったと思いながら町を抜けるべく走った。鐘の音に気付いた人々が手近な武器を持って追ってくる・・・足のはやい人間に追いつかれそうになって私は飛ぶ。夜に飛ぶ小さな生き物に混じって、遠目に見える森を目指した。
以後、私の毎日は前ほど単純ではなくなった。およそ教会のある土地、ということは人間が住むすべての場所で、私は追われることになった。私の正体に気付くと人々はストリゴイとかキュロイ(吸血鬼)、でなければネクラートとかサモディヴァ(悪霊)と呼び、石を投げ、私には考えもつかないような激烈な呪詛の言葉を吐いたりした。私は眠る場所の安全に気を配り、追われれば逃げた。人間を襲うときは目に付かない場所を選ぶということも覚えた。そうして、一箇所にとどまることなく、いくつかの村や町を過ぎ、やがて、それらとは段違いに大きな町にたどり着いた。
その町に近づくにつれ、街道の往来は盛んになり、町と町の間隔も縮まり、私は1か月ほども食事をしそこなっていた。大きな町にはたくさんの人間がいたが、そのぶん人目は絶えなかった。私は月明かりに目を細めて町の中心を見やった。
すると、きっと教会に違いないと思っていた高台の建物は俗人の城であることがわかった。かなり遅い時間であるのに、高い窓のいくつかには灯が入っていた。私は闇にまぎれて町外れから城へ飛んだ。
近づくと人間の気配がした。耳を澄まして、静かな一角にある窓を覗いた。中には立派な身なりの男が窓に背を向けて何かしていた。あれは食事になるだろうかと考えているとさらに向こうの窓が内側から開かれているのが目に入った。窓枠には夜目にも白い手が置かれていて、私は引き寄せられるようにその窓に近寄った。夜空を眺めていたのは若くこれまでに見たこともないほど美しい女だった。身に着けているのも初めて目にするようなきらびやかなもので、これが貴族の姫君というものなのだろう。女は私の姿を見てきゃっと小さく叫び、後ずさった。私は窓枠に腰掛けて彼女を見つめた。甘く満たされるような心地がした。
「こわがらないで。そばに来て下さい、美しいかた。」
しぜんと声が出た。思えばこれが私の話した最初だった。女は私と目が合うと緊張を解き、優雅な動きで近寄ってきて、私の手をとり、おしいただいた。
「あなた様にわたくしの愛と忠誠を捧げますわ。」
その声音は蕩けるようで、姫君の吐息は花のような香りがした。私はいままでになくうっとりとした心持で血を吸った。たいそう美味であった。体を離すと彼女は少しよろめいたが転ばずに踏みとどまった。私はもういちど彼女のまなざしを見たくて、呼びかけた。しかし彼女は急に私に興味を失ったようで、辺りをきょろきょろ見回しているばかりだった。私は少しがっかりして、女を構うのをやめた。
そのとき部屋の扉が騒々しく開いた。入ってきたのは一人の背の高い男で、強烈な空気をまとっており、私は窓から出て行こうとしていたのを忘れて立ち止まってしまった。彼は私を見て何か言おうとしたが、瞳を濁らせた女がいきなり彼に襲い掛かった。
「痴れ者。誑かされたか」
彼はそう言うなり、すばやく剣を抜いて女の胸を刺し通した。あっという間もなかった。女は塵になって消えた。私はこんなに容赦のない人間を見たのは初めてだった。彼は大股で私に近づいてきて、逃げる間を与えず私の腕をつかんだ。
「お前は何者だ。ここを私の城と知って忍び込んだのか」
私は彼の目を見た。腕をつかむ力が弱まらないのでさらにじっと見つめた。しかし彼の目は相変わらず強靭な輝きで私を見返していた。私は耐えがたくなって目を伏せた。
「答えよ。私の城と知ってのことか」
「知らない。血が欲しかっただけだ」
惑わすことができないとわかって私は何とか彼を振りほどこうと試みた。むろん不可能だった。私が逃げようとしたのを見て、彼はもう一方の腕も捕まえ、床の上に私を押さえつけた。体ごと乗られては身動きもならない。
「おまえは魔物だな?」
「そう言われる」
彼はまだ私のことをじっと見ている。
「なぜ抵抗しない」
変なことを聞く、と思った。抵抗させないようにしているのは彼だ。
「あなたが押さえているから動けない」
ありのままに答えると彼はなぜかゆっくりと笑みを浮かべた。そして床に押さえつけるのをやめ、私を引っ張り起こした。
「こちらに来い」
手首をつかまれたまま、私は別の部屋へ連れて行かれた。そこには召使いと思われる女が一人いて、私を見てとても驚いた顔をしたが、彼は頓着せず、私に湯を使わせるように命じた。
着ている服は、もとが修道士の服だとはわからないくらい汚れて傷んでいた。それを全部脱がされ、召使いの手でごしごし洗われた。私は土埃にまみれたままさすらっていたが本当は清潔にしているほうが好きだったのでこれはありがたいことだった。そのあいだ彼は腕組みをして壁に寄りかかり、ずっと見ていた。召使いは私を洗い終わると新しい服を私に着せようとしたが、彼はそれを制し召使いをさがらせた。
「私が誰か知っているか」
彼はそう尋ねた。私は知らなかった。彼はかなりあきれた様子だった。
「私はラドゥ、この城の主だ。いずれ全ワラキアの主になる。私の領内では何人も私に逆らうことは許されない。当然おまえもだ。おまえはこの城で私にとらえられたのだから私のものだ」
私はそんなものかと思いながら聞いていた。彼は裸で立っている私の後ろに回って腕を回した。その手は温かく、土の下で物言わぬ同類にまつわりつかれていたのとはまるで違って、不快さはない。ラドゥは耳元で囁く。
「わかったか」
わからなかった。私は何も彼に逆らっていないのに、彼は逆らうなと言う。それに人間は私のするように配下をつくることはできないのに、彼のものとはどういうことだろう。黙っているとラドゥはいらだったため息を一つついた。
「まあいい。何が賢明か、じきにわかるだろう。」
彼は私に服を着せないまま寝台に押し込み、窓に分厚いカーテンを下ろした。もうすぐ朝が来る。安全に眠れるのなら私に否やはなかった。彼は寝台に座って私の髪に触れ、唇にも触れようとして、やめ、かわりに、名をきいた。
「名はない」
「ない、では困る。明日になったら私がつけてやろう。おやすみ、名無し」
私は彼を不思議な人だと思った。私に良くしてくれた理由は不明のままだったし、高圧的なのに、眠る前の言葉は甘く響いた。
ラドゥは私に名前をつけた。そして私が完全に自分の名を覚えるまで、日に百回も私を呼んだ。
「どこにいる、ミフネア」
「ここに来い、ミフネア」
「ミフネア、私のものになれ」
私は与えられた部屋で寝起きし、ラドゥが部屋にいるときはたいてい服を着けさせてもらえなかった。彼は私を寝台に横たえて体を眺め、すべての部分に手を触れた。彼の手は力が強くて温かくて、触れられるのは快かった。けれども触られるままになってじっとしていると、彼はときどき不審そうな、いらいらしたような表情になった。そのわけは私にはわからなかった。
ラドゥは私の世話をする小間使いの女を一人つけた。私は一月後にその女を食事にしてしまったが、彼は私が女の首に咬みついてからすべての血を吸い終わるまでずっと見ていて、私に「おまえは吸血鬼か」と確認した。そうだと言うと何か思うところがあったようだった。彼は私を教会に突き出したりはせず、何事もなかったように別の女をあてがった。私が小間使いを殺してしまうたびに新しい人間を連れてきた。彼にはそうする権力があった。彼は私に毎日のように、私は彼のものになるべきで諾と言わないのはばかげたことだと繰り返した。
「私のものになればすべてを手に入れることができる。追われることもなく贅沢も思いのままだ。血も手に入る、男でも女でも好きなのを選べるぞ。欲しくはないか、一人などとけちなことを言わず万民を支配する力が。」
彼は私に余分なほど多くの物を与えた上にそんなことを訊いた。私は支配する力など欲しいと思ったことはなかった。私の明らかな望みは血だけで、そのためには一人の人間を一瞬だけ支配できれば十分であり、わけもないことだった。多くの人数を支配することは煩わしいことに思われた。
「私には必要のないものだ。それはあなたの望みのように聞こえる」
ラドゥは落胆と腹立ちを相半ばして私を引き寄せる。
「そうだ、私はすべてを支配したい。国も人も教会も。おまえはなぜそんなに欲がないのだ。魔物は血を欲するものではないのか」
「月に一人、それで充分飢えない。人間の戦争のほうが多くの血を流していると思うが」
彼は軍隊を率いて戦いを繰り返している。私は城にとどまっているが、連れてこられた捕虜がやがて城壁に吊るされるのをずいぶん見た。私はあんなに沢山はいらない。ラドゥはきっと、敵国や領民にとってはおそろしい人間だろう。逆らう者には容赦がなかった。中途半端な服従も許さず、領内のあらゆる人間に対して絶対者であることを示した。彼は私にもそのようにあろうとしているようだった。
「私に従え、ミフネア。」
いつものように、私を寝台に寝かせて体に触れながら彼は言う。私には彼がなぜわざわざそんなことを言うのかわからない。
「従っているつもりだが」
ラドゥは首をひねる私の顔を両手で挟んで見つめ、そして唇を私のひたいに触れた。私はその感じに身をすくませた。不快だからではなく。
「おまえは私の傍にいるのが良い。この国の支配者である私に望まれているおまえは果報者なのだぞ。おまえは私の愛を享けなければいけないのだ」
私はまた首をひねった。彼の言うのがつまりどういうことなのかは、いつもはっきりしない。そして言うべきことも見つからずただ彼を見る。私は彼を見るのが好きだった。
ラドゥの眉目と口元は意志の強さを見せ、しっかりした顎の線は男としてのゆるぎなさを感じさせた。背は高いほうで、肩から腰にかけて重みのある肉がしなやかな筋を作っている。歩き方から、手の延べかた、こちらに顔を向けるちょっとしたしぐさにいたるまで、すべての動きが自信に満ち溢れ、彼の前では私が自分で考えるべきことなどないような気がする。彼の命じるとおりにしていれば良いのだと思えて。けれどもそうしてぼんやりと見つめていると彼は荒々しく私の顎をつかみ、肩を揺さぶった。
「私に無関心でいるのは許さない。ちゃんとこっちを見ろ。底の見えないそんな目をするな」
私は、ラドゥは私に何をさせたいのだろうと思った。彼は理解できないでいる私をシーツの上に放り出し、怒ったような蔑むような目つきで見下ろしたあと、ふいと背を向けて部屋を出て行った。
ラドゥがなぜ私にいらだつのか、私には謎だ。私は彼に逆らったことはない。それどころか私は彼に触れられるのを快く感じ、あの手が私の肌の上をすべり独特の動きで撫で上げたりある部分を握ったりするとき、頬や唇が震えそうになることがあった。それはだんだんと頻度を増してきてさえいた。
あるとき彼はとりわけ丁寧に私の体をくまなく掌でなぞり、フウと息をついた。それから気を取り直すかのようにもういちど触れはじめた。胸の上の二つの点を指先でひねり、固さを確かめ、私の顔を少し見た。私は見つめ返した。ラドゥの目を見ていると私はかれにどのようにでも委ねてしまいたい気持になる。彼はさらに脚の間、ちょうど全体の中心にあたるその場所を、絡めとるように撫で扱く。そして手の内のそれをしげしげと見つめ、また私の顔をのぞいた。そして再度、ため息をついた。そしてもどかしいような、いつものいらだったような調子で、
「何も感じないのか」
と質した。何も感じないわけはない。私の体は生きたものではないが、感覚はある。触れられていることくらい、目を瞑ってもわかる。そこでそのように答えた。ラドゥは一瞬黙った。
「それで、どんな感じがする。不快か」
そういいながら彼はなおも手を動かす。
「心地よく感じる」
私はそう答え、目を閉じてその感覚に意識を浸した。
そんな会話をした次の晩、ラドゥは部屋に入ってくるなり強い口調で言った。
「服を脱いで寝台に上がれ。仰向けにだ。」
言うと同時に手に持った馬用の鞭がピシリと鳴る。寝台に上がるとラドゥは束ねた鞭の先で私の体をなぞり始めた。温みのない道具が肌に押し付けられる感触は不快だった。いつもラドゥの手が好んで触れる場所を、ごつごつした物体が弄りまわす。彼は私の反応を不気味に静まった目でじっと眺めていた。
ラドゥは私に手を触れなくなった。物で撫でつつきまわし、私の様子を冷たく見下ろし、魔物と呼び、部屋には錠をおろした。私は満ち足りない気持で日々をすごすようになった。
そんなある夜、ラドゥは指くらいの細さの丸い木の棒とオリーブオイルの入った小壺を持ってやってきて、両手をついて四つ這いになるように命じた。
「おまえの体の中をかき乱してやる。すました顔ができないように」
そう言って、棒の先を油に浸し、私の尻にあてがった。私はそんなところに孔があることさえ、意識したことはなかった。無機質な硬いものが押し込まれる。裂けるような痛みがあり、喉の奥で声が引きつれる。棒はどんどん奥に入ってきて、そこで回るような動きをした。体の内側をこすられる痛さは耐えがたかった。私は顔をしかめて首を振った。他にどうしようもなかった。
「どうだ、ミフネア。」
私の表情を見たラドゥは勝ち誇ったように笑っている。私の苦しみを楽しむ、残酷な笑いだった。
(なぜその手で触れてくれないのか)
私は苦しかった。首を絞められているような苦しさだ。そして心臓が冷えて抜け落ちてゆくような虚脱感と同時に襲う頭重。首も心臓も頭も、肉体としての異状はない。怪我などしていないし、病になどかかるはずはない。それなのに、繰り返される行為に苦しみは重なってゆく。彼の手が触れるなら同じ痛みでも快く感じるだろう、だがそうではないから苦しくて怖い。もはや恐怖なくラドゥを見ることはできない。私を苛みながら彼は言う、
「良い顔をするものだな。ただ痛いだけではないだろう、血を吸うときのように赤い目をして」
同じように薄く笑いながら彼は敵と裏切り者の処刑を命じもする。わずかでも彼に従わない者があるとそれも処刑した。その数がどれほどであったのか、私にはわからないが、処刑具は必要以上に飛散する血に赤黒く染まっていた。十数人が斬首されるそのさまを彼は私に見せ、こう言った。
「私に従わない者は皆こうなる」
これだけの多量の血にも彼は酔うことさえなく、その声音には少しの昂ぶりもなかった。あまりになにげなく、傍らの私にしか聞こえないほどの呟きだった。そしてやにわに私の顎をつかむ。
「当然、お前もな。もっと残酷で屈辱的な殺し方をしてやろう。私にすべて捧げろ。お前の意思などない」
私はラドゥの瞳から目をそらすことができなかった。貪欲で残酷で誇り高いまなざしは私をわしづかみにとらえ、私は震えた。
彼は私よりも多くの血を欲している。彼の代わりに彼の剣と領地が数え切れないほどの人間の血を吸う・・・彼は際限なく求め続ける。私は彼の瞳が恐ろしい。彼の欲望の大きさに比べれば飢えを満たすために血を欲することはささやかな望みに過ぎない。私は彼の欲望にとらわれる。その瞳に魅入られる。彼の欲望に引き裂かれることを恐れながら望む。
私は逃げた。部屋には鍵がかかっていたが窓はふさがれていなかった。このころすでにたいていの町がラドゥの傘下にあり、当然追っ手がかかっているものと覚悟しなければならなかったので、私はいつもはるかに望んでいた高い山の方角へ逃げた。深く小暗い森こそ私にふさわしいすみかに違いない。人の欲望の届かないところ、カルパティアの山の懐へと、私は転がり込んだ。
しかし人間はどこにでも住んでいるものだ。そんな山中にさえ、小さいながら町があった。町の少し上のところに、何か大きな城館が建てられつつあった。その城には見覚えのある旗がひるがえっている。ラドゥのもとで、城壁にひるがえるのを眺め暮らした紋章旗が。
私は城主の地位を与えられた。ラドゥは私に貴族の身分と地位を保証し、同時に何人も彼の命に逆らってはならぬことを思い出させた。彼は言う、
『その町を一歩でも出ればお前は破滅する。教会の追っ手によって。そこで私を待つが良い』
と。戻れとこそ言わなくとも、年々、月毎に頻々と、使者は必ず彼の手紙を携えてやってくる。私は常に監視されており、にげることなどできない。できないに違いない。彼に背くなど、おそろしいことだ。
『お前は私のものだ。私はいつでもお前を殺せる。』
彼は私を八つ裂きにせずにはおくまい。
『私はお前の体をすべて探った。あの痛みを忘れてはいないだろうな。お前の尻に木の棒を挿し込んだだろう。私がそれを動かすたびにお前は鳴く。私は思いのままにお前を鳴かせることができる。』
忘れていようはずがない、貫かれる体の痛みを、私の内側に蠢く恐怖を。
私の心は遠い声にわななき脅え、休まる暇もない。夜ごと私は夢に見る、刺し通される甘き疼き、それに打ち崩され我を失うその瞬間を。そのたびに鋭い快感に体を震わせ私は願う、ああ私の恐怖、私の支配者、どうかもっと深く私を貫いて、と。
私は小さな剣を用意した。いつか彼はこの城にやってくるだろうと思った。私はそのときを恐怖にうち震えながら待ち続けた。
喪章をつけた使者が来たのは、何年待ったころだったのか。公は亡くなったと使者は言い、私は戒めを解かれたように軽い心持になった。城主の地位を保つかどうかは私の任意ということだった。だが待ち人が来ないままにここを離れることは考えられなかった。たとえその待ち人が永久に現れないとしても。
ラドゥはその最後の言葉で私を責める、いつもの自信にあふれた彼の声が聞こえるようだった。そして私には相変わらず彼の言うことがつまりどういうことなのか、わからなかった。
『お前は今も何も理解しない。お前の欲望の種類は少ないが、それを律することを知らない。自分の意志もない。
哀れむべき魔物だ。魔物に愛される価値はない。なぜならこの貪欲な存在は、貪った後はすべて忘れてしまうからだ。
私を忘れることは許さない。ここに一つの言葉を書くが、お前にこの言葉の意味はわからないだろう。
私の行為の意味も、なぜ私が名前を与えたのかも、何一つわからないだろう。
おろかなミフネア、お前には私の事が何もかもわからないのだろう。お前自身の事もわからないのだろう、まるで子どものように。
それでもお前がいかに無知かを思い知らせるために、人間にとって最も重く貴い言葉をお前に与えよう。
Te iubesc, Mihnea 』
・Te iubesc. テ ユベスク
=「愛してる」(ルーマニア語)
です。