不幸の背中にゃ変わらず不幸。
[登場人物]
■不知見 倖助
専門学校二年。
アンラッキーマン。
■札具 遊炎
専門学校二年。
倖助の友人。
■雷田 瞳
専門学校三年。
変わり者で有名。
■原島 雪一
専門学校一年。
一番の常識人。
■天馬 伝
専門学校の文学教授。
趣味は小説。
■外口 紅茶
専門学校の医師。
只今禁煙中。
■氷山 博
夢国市の研究者。
吏綺をライバル視。
登場してきたら追加する予定。
お願いだ、俺の全ての幸せを賭けていい。
ずっとずっと不幸で構わない。
何も望まないから、頼みます。
最大級のエゴで願う。
だからどうか、どうかどうか××と…
―あるところに、とても不幸な体質の人間がいた。
周りはそれを『アンラッキーマン』と蔑み、ゲラゲラとせせら笑いを向ける。
嘲笑する言葉の裏で、周りは己が巻き込まれる事を恐れていた。
そして殆どの人間が距離を置き、防衛本能からか関わらなくなっていってしまう。
家族以外、大抵の人間は遠ざかって縁が切れることは少なくない。
…しかし、そのアンラッキーマンと呼ばれる人間は、何処にでもいそうな普通の青年だった。
淡い茶色の髪に黒い瞳、背丈も平均より若干高いくらい。
怪我が絶えず、頭を守る為に工事現場で使うヘルメットを常に被っている。
成績も中の上、運動は並。
容姿も怪我の痕さえなければそこらへんにいそうな普通の顔で、変わり者の友人や先輩もいる。
しっかり者の後輩にはよく助けられていたり。
彼は突き抜けて良いところはないが、反対に悪いところもなかった。
ある一つを除いては。
それがアンラッキーマンの不幸体質である。
嘆き悲しむ体質。
生まれ変わってしまいたいと望む、普通は。
しかし、青年の特技は諦める事だった。
人の三倍諦める。
自分の事も、周りも、自分の人生さえも簡単に割り切れた。
それが自分だ、と。
―カーン、カーン。
講習終了の鐘が専門学校に響き渡る。
ゾロゾロと教室を出ていく人の群れから離れた場所に、工事現場で使用されているヘルメットを被った青年が座っていた。
その隣にまだ春なのにも関わらずタンクトップを着た同い年の青年がヘルメットの青年に喋っている。
タンクトップの青年はあまり表情が変わらず、けれどすれ違った女性の何人かは振り返るほどの容姿。
ヘルメットの青年よりも少し高い。
赤く染めた肩にかかるくらいの長さの髪を下で結び、ガタイの良い体を机に乗せている。
人気が殆ど無くなった辺りで、ヘルメットの青年は今までほぼ一方的に話していたタンクトップの青年を促した。
「遊炎、そろそろ行こう。」
「わかった。瞳先輩や雪一は中庭で待っている、とメールが着ていた。
忘れ物はないか、倖助。」
鞄を肩に掛け、肩を並べて歩く二人。
ヘルメットがずれないよう、倖助と呼ばれた青年は手で持ち上げ視界を良くさせた。
人の目につく容姿をしている遊炎と呼んだ友人の隣を歩く倖助も、大きな絆創膏やガーゼを貼られた顔に注目を浴びる。
そんな好奇の視線に慣れてしまった二人は先程の会話の続きをしているようだ。
よく話す遊炎の変わらない顔をぼーっとした表情で見ながら聞き、たまに相槌や返事をする倖助。
返事の倍以上の言葉で返す友人との雑談を、長い廊下を歩きながら耳を傾けのんびり歩く二人。
窓から暖かい春の日差しが差し込む廊下の階段を下っている時、ふと何かを思い出したように何気なく遊炎が倖助に質問した。
タンタンと同じ歩調で歩く倖助はタートルネックを着ており、遊炎のように露出している部分は少ない。
話が変わった事を不思議に思ったのか倖助の顔全体が向けられ、首筋についた刃物の傷痕が見え隠れした。
遊炎の質問は学生の間ではよく交わされる些細な問いかけ。
お昼ならではの疑問。
「倖助は今日、食堂で何を買う?私はカツサンドと焼きそばパンにする予定だ。飲み物は野菜ジュース系にしてビタミンやカロテンなどを摂取し、血液をサラサラにしておこうと考えている。」
「余ってれば何でもいいや。」
興味無さげに顔を軽く俯かせ、ポツリ、呟くように返事をする。
短い返答なのも気にせず、自分が欲しい物のカロリーや味、中に入っている素材の話を延々と語り始める遊炎は小学校低学年以来の友人。
小学校、中学校、高校、現在の専門学校で同じクラスになる頻度が高く、逆に違うクラスになったのが片手で数えられるほど少ない。
そんな二人が友人になるのは出会ってから最初らへんで、きっかけは出席番号の席の順番。
[不知見 倖助]と[札具 遊炎]、必然と仲良くなった。
そんな長年の付き合いの遊炎の変わった内容のお喋りに倖助は慣れ、逆に人よりもあまり話さない倖助に遊炎は飽きた経験は一度もない。
一人がアンバランスな事で均等にバランスが保たれているが、周りから観れば異常な光景。
取り敢えず近づきたくはないと90%の人が思うだろう二人の個性の強さ。
しかし、倖助と遊炎は現状の立ち位置に文句はなかった。
隣でずーっと昔のロボットのように昨日の体験談を喋り続ける友人に聞こえるか聞こえないかの声量でまたポツリ、何かを呟く。
大分遅くなった先程の続き。
「でも、果肉入りジュース飲みたい気分。」
己のちょっとした願望を、口にした。
ぼんやりと言葉にしたそれが、アンラッキーマンの力を解放することに。
―バアァン!!ゴォン!
突然、倖助の前に駆け込み乗車する人間のように勢いよく開かれた扉が、彼の頭を守るヘルメットと無防備な鼻先を直撃。
ヘルメットが寺にある鐘のように鈍い音を鳴らし、鼻先には音が無い代わりに激痛。
扉の速度を肩代わりするかのように倖助は背中から倒れた。
床との接触に再びヘルメットがゴォオンンと除夜の鐘を鳴らず。
やがて音が脳に吸い込まれるようにして、辺りは静けさを取り戻した。
運悪く右側を歩いていたから起きた災難。
これがヘルメット無しだと、最悪脳震盪をおこして病院行き決定。
薄ぼんやりとした意識の中、昔はしょっちゅう病院に世話になっていたな、と思い返す倖助であった。
「無事か?この手を掴んで立ち上がるといい。」
「悪いな。」
「おや、不知見君でしたか。すみません、怪我はありませんか?
近頃この扉は立て付けが悪く、力いっぱい開けないと難しいのですよ。」
上から顔を覗き込む遊炎の手に掴まり、倖助よりも強い力でグイッと引っ張り上げられた。
お互いこのような事故(?)に慣れており、心配という心配もせず通常の会話のようなやり取りで終わる。
後頭部がジンジンと痛むが表情には出さず服の汚れを払い落とし、声のした方へ顔を声のした方へ動かすと、着物を身につけた人がいた。
長い黒髪を上の方に結び、女物の髪留めで前髪を上に留めている。
穏やかな立ち振舞いをと口調は周りをゆったりさせ、けれど飄々としたモノを含ませ波風のようにどこか掴めない人。
高い方である遊炎よりも少しだけ高い。
あまり日焼けしていない肌とすっと鼻筋が通った顔は日本人の美しさを表現しているかのよう。
学生には『教授』と親しみを込められて呼ばれるこの人は、此処の専門学校の教授で文学を教えている。
倖助達が通う専門学校は元短大の為、表向きは専門学校と言われているが半分は短大として使われていたりする。
一風変わった学校であった。
そして、この教授も遊炎や先輩程ではないが変わっていたりする。
祖父の遺品である着物を翻しゆったりとした動作で二人に近づく。
「それにしても、不知見君が自分のせいで怪我をしたのはこれで何回目でしたか。
お詫びと言っては何だけど、飲み物くらい奢ってあげよう。」
「これぞ不幸中の幸い。良かったではないか、倖助。天馬教授に甘えておいたらどうだ。」
落とした鞄を拾い汚れを払っていると、ポンと肩に手を置かれ暫し考える倖助。
何となく嫌な予感がするのは長年の経験や直感からで、でも言うだけ言ってみるかとお言葉に甘える事にしてみた。
「じゃあ、果肉入りジュースをお願いします。」
「果肉入りね。売り切れていたらどうする?」
「何でも良いですよ。」
「わかった。」
「じゃあ、私達も食堂に行くか。カツサンドと焼きそばパンが売り切れてしまう。」
背を押して急かす友人に軽く頷くと天馬教授と共に三人で食堂に向かう、筈だった。
倖助の背後から大量の文学書がまるで計ったかのように倒れるまでは。
―ガッ、バサバサバサッ!!
ドサドサと音をたてて倖助を襲う分厚い文学書はヘルメットや背中、首筋などを痛め付け、けれど左右にいた二人は無傷。
倖助が二人を逃がした訳でもないし、気付いた二人が避けた訳でもない。
アンラッキーマンだけを狙うかのように文学書は倖助だけを集中攻撃。
ついでに文学書を抱えていた人間も倖助の上に尻餅をついた。
嵐が止んだかのように文学書が動きを止め、本の山に埋もれてた倖助の手はピクリとも動かない。
尻餅をついた学生はサアァ…と顔から血の気を無くし、慌てて倖助の上から立ち上げると運んでいた文学書を掻き分け人を掘り起こす。
何度かヘルメットに当たる音がしたが、遊炎が目にした首筋直撃は一般人なら流石に危ない。
打ち所が悪ければ即死するほど危険だが、倖助なら生きているだろう、と学生の側で黙々と友人の発掘を手伝う。
恐いくらい落ち着いている遊炎と、何度か死にかけそうになっているが生きている倖助の頑丈さを知っているからか、天馬教授も床に膝を着いて本を丁寧に退ける。
何だ何だと人だかりが集まるが手伝う様子は見受けられない。
三分の二ほど倖助の上から荷物を退かした頃に倖助は意識を取り戻し、ムクリと体を起こしてバサバサと本を落とした。
頭のヘルメットを両手で被り直し左右をキョロキョロ確認すると遊炎と視線が合う。
寝起きの時のようにぼーっとした顔で後ろ頭をポリポリ掻いた。
原因は自覚しているみたいで倖助は何も言わない。
代わりに遊炎が気絶する以前の説明をしてやった。
「倖助の背後でこの文学書の山を運んでいた学生が躓き、それが全て倖助に当たった。打ち所が悪くて気絶したといったところだろう。」
「すみません!すみません!本当にすみません!」
「そうか。
俺から不幸をとったら何も残らないんで、気にしないでください。此方こそ巻き込んですみません。拾うの手伝います。」
「え…、でも、すみませんすみません。け、怪我はないですか?」
「平気です。」
遊炎の説明を受け、何度も頭を下げて必死に謝罪を繰り返す学生に倖助も頭を下げて謝った。
それに拍子抜けする学生の前でいそいそと文学書を拾い集め、我に返った学生は慌てて謝罪の言葉を口にする。
何事もなかったかのように振る舞う倖助に驚く学生だが、側で遊炎と天馬教授が倖助の手伝いをするので学生もそれに習った。
「ありがとうございました。ありがとうございました。」
ギャラリーだった何人かも手助けしてくれ作業は早めに終わり、ペコペコと何度も腰を折る学生とそれを手伝うギャラリーを三人で見送る。
パンパンと何度か鞄を叩き埃を落とす倖助の左足は本の衝撃で痛みを伴うが、本人は泣き言も苦情も咎める言葉も何も言わない。
本当は背中や腕、体の節々が痛い。
立っているのがやっとな状態。
触れられたら激痛が全身を走るだろう。
さっさと医務室に行けば良いだろうにこのまま食堂に向かおうとする倖助を、遊炎がペシッと顔面を軽く叩いて引き留める。
振り返るとそこには怒ってもいない、困ってもない、哀しんでもいない、呆れてもいない、表情が乏しい遊炎がただ彼を見下ろしていた。
「二人には連絡を入れた。
万が一を考えて医務室で診てもらおう。」
「そろそろ医師に出入り禁止されそうだから我慢する。」
「彼女は普段暇そうにしていますからきっと大丈夫ですよ。不知見君くらいの常連客がいる方が彼女も退屈しのぎになりましょう。」
「教授はさらっと毒を吐くな。」
ふふと小さく笑う天馬教授は二人に背を向け、風のように何処かに消えてしまった。
生徒が心配じゃないのか、と天馬教授の背中を見送りながら思う二人だったがチラと顔を見合わせるだけで、ゆっくりとした歩調で医務室へ足を運んだ。
午後からの講習は二人とも無くそれが有り難かった。
けれど遊炎は怪我人に手を貸してやることはなく、服の下で所々青アザを咲かす重症者の倖助も友人に助けを求めずに肩を並べ淡々と歩を進める。
しかし速度は先程よりもグンと遅くて何度か倖助はよろめいていたりするけれど弱音は一切吐かず前へと歩く倖助。
まるで何もないかのように普通の顔をしている友人が前に倒れて怪我を増やさないよう、その隣でコッソリ背中の服を掴み倖助の一歩に合わせて歩む遊炎。
骸骨のように無言の友人とは対照的にペラペラと饒舌し続ける遊炎の会話を、微かにだが頷いたりなどをして反応を示す倖助に少しだけ表情を変えてまた話す。
そんな二人の後ろ姿を眺めていた天馬教授は手で口元を隠しクスクスと人知れず小さく笑っていた。
―ガラッ!
「不知見先輩!大怪我はありませんでしたか!?」
「おや、やはり生きていたか。」
医務室の扉が音をたてて開かれ、そこから二人の男女が別々の表情で入室する。
一人はギターケースを背負った小柄の青年で、バンドをしているような人が着るパンクな装飾品や服装をしている。
外見通り音楽活動をしているが色々資格とかをとった方が将来は安定すると思いこの専門学校に通っていたりする。
年よりも幼い顔立ちだが性格のようにしっかりした顔つき。
短めの髪の毛先は黒いが中心は白く染めている。
倖助達の一つ年下の[原島 雪一]は目の前に晒されている体の傷に目を見張った。
そんな彼の後ろから遅れて入った女性は倖助と遊炎の一つ上の先輩。
片目を隠すかのように伸ばした前髪と左耳の黒星のピアスが特徴。
遊炎のタンクトップのようにポロシャツを愛用しており、まだ肌寒いので下に長袖を着ている。
小さな胸と髪型さえ変えれば男性に見えなくもない。
喋らなければモテるのだが残念なことに人間は会話をしなくては生きていけない生き物の為、彼女の評価は裏でしか持ち上げられない。
専門学校で遊炎と同じように変わり者で有名な[雷田 瞳]は三人からは『瞳さん』や『瞳先輩』と呼ばれている。
同じ学科の友人もいるにはいるが何故か此処にいる三人や天馬教授とつるむことが多い。
雪一も三人とは違う学科で友達も多い方だが倖助達と行動を共にすることのが断然多い。
軽く酷い言葉を投げ掛ける瞳先輩や心配する雪一の前に、上半身裸で治療を受けている倖助が椅子に座っていた。
近くの数少ない簡易ベッドには遊炎が腰かけていて二人に手を振り挨拶。
振り返す瞳先輩と会釈するだけの雪一だが、雪一は倖助の痛々しい痣や傷痕が痛々しくて心配で不安でたまらない。
アンラッキーマンだとわかってはいるがそのうちポックリ死んでしまいそうな倖助が、彼は弟と重なってしまい余計気になってしまう。
常備しているヘルメットを両手で持ちながら背中に新しい湿布やガーゼを貼ってもらっている倖助の骨張った体は、まだ治りきれていない傷口が至るところにあり細い二の腕にはグルグルと包帯が巻かれてあった。
二の腕の怪我は帰り道に上から大きな硝子の破片が落ちてきて運悪く二の腕を掠めてしまった時のモノ。
その時ほんの一瞬だが小さく悲鳴を漏らし、血が流れる傷口をグッと手で押さえながら痛みに耐える倖助は地面にしゃがんで動けない。
一緒に帰っていた遊炎が迅速な対応で応急処置をしてから近場の病院まで走り込んだので、傷口が悪化するようなことはなかった。
硝子の破片が何処から落ちてきたのかは今でもわからないが原因はわかっている。
遊炎に背負われて帰った薄暗い夜道で『今回は死ぬかと思った』『巻き込んで悪かった、遊炎』と今にも消えそうな掠れた声で呟いた倖助に、遊炎は何時もの調子で長々と話をしたのだった。
宥めるでもなく、非難するでもなく、ただ何時も通り己の知識の中の一つについて探求するかのように持論や自分の意見を語るだけ。
それを黙って聞いていた倖助はそっと瞼を閉じ、子守唄を聞かされた子供のように静かに寝息をたてて体重を広い背に預けるのを確認すると、遊炎はフゥと溜め息一つ溢し一人月夜の中を歩く。
夜桜が咲き乱れる様にゾッと寒気がした。
そんな怪我が多数無数のように存在し怪我の上にまた怪我をするなんて珍しくない。
初めて診た時に今まで目にした事もない酷い体に最初〔いじめ〕や〔DV〕を受けているのかと勘違いした医師だが、ヘルメットと遊炎の存在と本人の言葉、学生の噂や目撃情報で未だ半信半疑だが理解はしている。
普通大学にいる間は暇な仕事の筈なのに倖助と遊炎が来てからというもの気軽にこの部屋を離れられなくなっている。
毎度毎度大怪我をして現れる倖助のせいで医務室で喫煙するわけにもいかず、近頃禁煙に挑戦し始めたので常に苛々している[外口医師]はある程度の処置を終えると倖助の頭をペシィ!と平手打ちして八つ当たり。
当の本人はフイと気だるそうに首だけで外口医師を盗み見るが、さっさと服を着ろ、とシッシッと犬を追い払うように手だけでジェスチャーをして彼女は机に向き合う形をとる。
パサッ、と服を預かっていた遊炎からそれを投げられ片手で受け止め小さく礼を言うと、もそもそとそれを被った。
最後に使い古されたヘルメットを頭に装着し、手渡されたカルテに名前や怪我の種類等を書き込む欄の空白をボールペンで埋めていく。
―コンコン、カラッ。
ノックの音がして医務室にいる全員が倖助と雪一の後ろの扉に注目すると、そこは病人の邪魔にならないよう気を遣いながら静かに開かれた。
人々が注目する先に立っていたのは、全員がよく知る和服姿の人。
天馬教授は缶ジュース片手に学生を眺めるとそっと笑みを浮かべ、パタンと後ろ手で扉を閉めた。
ウゲッと嫌そうな顔で出迎えた外口医師を気にせず缶ジュースを持った手をスッと倖助に差し出し、ぼーっとした顔で見上げる彼の両手の上にポンと置き渡す。
「この飲み物はあまり人気がないようだね。沢山余っていたから簡単に買えたよ。グレープフルーツで良かったかい?」
「すみません。」
深々とヘルメットが落ちそうなくらい天馬教授に頭を下げ、先程約束したお詫びの品、倖助が少ない好物の中でもトップに君臨し、呟くほど飲みたかった物を両手で持ち上げジーっと見つめ続ける。
暫くそうやっていると満足したのか果肉入りジュースを膝の上に下ろし、無言でまたスーッと深く腰を折るともそもそと鞄にしまい込んだ。
外見からの変化や動作からでは微妙すぎて気持ちがわかりにくいが、今まで瞳先輩と話していた遊炎は倖助のちょっとした行動に『良かったな』と見守るような眼差しで喜んだ。
そんな彼も表情だけでは感情の起伏とかはわかりにくいが、話す時の声音や速度、相手を見る眼差しなどで倖助よりわかりやすいっちゃわかりやすい。
そこらへんの学生と遊炎を二人で喋らせてみると顔を頑なに逸らされ、一言も呟きも溜め息も返事も全て無しでずーっと反応も無い、倖助の時には考えられない状況。
何を考えているのか何を思っているのか何を感じているのか、そして自分は遊炎に嫌われているのだろうかという疑問や不安や戸惑いが生まれ気まずい空気に。
…けれど原因や理由は至極簡単で単純で誰も悪くなくて、ただただ遊炎が倖助のアンラッキーマンの体質のように酷い人見知りであるだけ。
子供の頃はあんまり人見知りをせず逆に髪の色のせいで教師や倖助以外のクラスメートに遠巻きにされていた。
それが成長するに連れてだんだんと他人と話すのが恥ずかしくて辛くてワケわからない気持ちになって手に汗が滲んで頭の中が真っ白になって、最終的に何にも出来なくなってしまったのが高校生の初め。
周りも家族も遊炎の変化に戸惑いつつあったが、やはり一人だけ変わらない奴がいたおかげか彼の人見知りは緩やかにだがマシになっていったのは余談。
その頃からアンラッキーマンもアンラッキーマンで色々と大変だったが本人は特に気にしておらず、遊炎の人見知りも倖助には地球の裏側で住む人間のように無関係なので今も昔も変わらない。
専門学校に入学して瞳先輩や雪一、天馬教授達と出会った頃はずっと倖助越しに隠れて距離を置いて、返事や質問には無反応で“何だろうこの人”みたいな視線を投げ掛けられても何も言えなくて、三ヶ月が経って漸く雪一と短くはあるが話せるようになった。
けれど一年以上の付き合いの瞳先輩や天馬教授に外口医師、それ以上の倖助と会話する方がやはり楽しそうで嬉しそうで話しやすそう。
それぞれの好みや過去や体質や性格をわかり合っているからこそ、倖助に語るのは比べ物にならないくらい頭がよく回る。
そのお陰かは知らないが倖助が隣にいながらの講習はノートに書き込みながらも大体は頭で記憶しレポートや成績も人並み以上だったりするが、倖助の方が遊炎のような才能を持ち合わせていない代わりに地道に努力する分毎回遊炎よりも総合的に少し上。
けれどテスト当日や前日に限ってよく利き手を打撲したり骨折したりするもんだから、本領発揮する機会は何時訪れる事やら。
外口医師に追い出されるようにして医務室を後にした一向は中庭に来ていた。
瞳先輩は授業があるので途中で別れ、今は男だけで日当たりの良いベンチに腰掛け倖助と遊炎は遅い昼食をとる。
遊炎の目当ての物は運良く残っており倖助は果肉入りジュースがあれば何でもよかったので適当におにぎりを二つ購入し、その一つをいま食す。
先輩二人が美味しそうにも不味そうにも何も思ってなさそうな顔で食事をするものだから雪一は疑問でしょうがない。
それも毎回。
特に倖助なんかは雪一の記憶にある違った表情と言えば、大怪我をした際に僅かに顔を歪ませたくらい。
本ッッ当に雪一の倖助レパートリーは乏しい。
遊炎も同様だが出会った当初に思いっきり避けられていた事もあり、なんとなく雪一も近寄り難いと思ってたりなかったり。
倖助の左側にストン座り大切な相棒のギターをベンチに立て掛け、絵本を読む母親に向ける子供のような夢見る眼差しで倖助を見上げた。
「不知見先輩、またお祖父さんのお話を聴かせてください!」
「…よく飽きないな。」
「何か気に入ったんです。ボク自身よくわからないですけど。」
「じゃあ、今日は“俺がアンラッキーマンである話”をしようか。」
「はい!」
「では、札具君には自分の小説を読んでもらおうかな。」
「新作か。」
何処か遠くを見詰めて話す倖助の言葉に太陽に負けないくらい明るく返事をする雪一。
その隣で遊炎は天馬教授に手渡された原稿用紙の束を両手で受け取り膝に乗せ崩れ落ちないよう安定させる。
天馬教授の趣味は職業から想像可能な小説で、読むのも執筆するのもどちらも兼用。
それを暇さえあれば原稿用紙に書き綴り、誰かに注意され彼が折れて休憩するか講習がある時間ギリギリまでは何百枚も続けて万年筆を滑らせる困った人。
完成した作品は会社とかには投稿せずに身近な学生や友人に読ませては感想を貰ったり指摘を受けたりしてコッソリ楽しんでいる。
このお話の読者は遊炎で十数人目。
意外と専門学校に通う学生に好評で天馬教授の話を心待ちにしている学生も少なくはない。
遊炎も本を読むのは好きな方ではあるがぶっちゃけ読者よりも体を動かす方が好きなタイプなので、近頃本という本は天馬教授の小説くらいしか読んでいない。
そんな彼の趣味は見た目からして安易に想像出来るバスケ。
身長を活かしたダンクシュートが得意だそうで、けれどロングシュートはめっぽう入らないのは余談。
ポツリ、ポツリ、記憶の糸を探るように語り始めた倖助の雰囲気は、この一時の間だけ優しいモノに変わる。
それを本人が自覚しているのかは周りには知るよしもないが、昔話も楽しみではあるが雪一はこの空気が好きでよく倖助に話をせがんだ。
何十回も同じ話を同じ人間に殆ど同じ場所で頼まれれば普通飽き飽きとするが、彼は不思議そうにするだけで少し間を置いてから己の祖父の話を口にする。
幼い自分に祖父や祖母が懐かしみながら聴かしてくれた大切な大切な…。
―あるところに、一人の男がいた。
倖助のように特に目立ったところはなく、何処にでもいそうな普通の男性だった。
五体満足で生まれ、何事もなく成長して、成績も人並みで、就職して働いて、友人もいて、家族もいて、何の苦労もなく誰もが送るであろう人生をその男性は歩んでいた。
しかし、その男性は一つだけ周りと違っていた。
人間とは欲望の塊のような生き物であるが、その男は前世に欲望を捨ててきたかのように無欲であった。
宝くじなどの賭事に全く興味がなくて、他人に積極的に関わろうとする人でもなかった。
ただそこで生きていて自分が進むべきであろう道を歩むだけ。
結婚すべき年齢になっても異性に対して関心がなくその男性は着々と年を重ね、仕事がなくなれば後は死を待つだけだと思っていた。
転機は突然だった。
帰り道、疲れが溜まっていたのでベンチで一休みしていた。
その男性はもう四十を過ぎた歳になっていて、周りも本人もこのまま独身で生涯を終えるという確証のない確信を得ていた。
その事実に男は嘆くこともなく悲しむこともなく、呼吸をするように現実を受け入れるだけ。
そっと目を閉じて溜め息を吐き出すと、ジャリ、と前の方から砂を踏む足音が聞こえた。
この公園には男しかいなかった。
ホームレスか何かが現れたのだろうと何も気にしなかったが、その足音はだんだん此方に向かって近づいて来る。
カツアゲか何かだったら面倒臭いなと気だるい瞼を開けると…血塗れの女性が目の前にいた。
長い髪で顔は見辛いが傷だらけなのか血がポタポタと顎から滴り、背中から生えている黒い翼は醜く歪み悪魔を想像させる。
ふと女性の頭に注目すると角が生えており片方が欠けてボロボロ。
尻尾が翼のように黒い服から見え隠れしている。
豊かな胸は奇妙な服から惜し気もなく強調され、細い腰も奇妙な服からでもその細さがよくわかる。
血塗れている以外、他の女性が妬みそうなナイスバディなのだが、青白い肌が幽霊を思い浮かべなくもない。
ちょっと残念な女性が無言で立っている状況、しかも夜長というのが更に恐怖を煽るが、男は特に怖がった様子もなく女性を見上げるだけ。
地面に出来上がった血の水溜まりに気づくと男はポケットに手を突っ込み、あまり使われていないハンカチを取り出し、スッと女性に差し出した。
「よかったらどうぞ。あまり汚れていませんので、傷口から感染する恐れは多分ないかと。」
「……。」
「それとも、俺を殺しに来ましたか?」
「……。」
返事をしない女性に淡々と質問をする男性は顔色一つ変えずそう問うた。
外見からして女性は悪魔だろう。
長く伸びた爪は黒いし、長い髪も翼も奇妙な服も足の爪も見え隠れする唇も、肌と血以外全て同じ色。
人間ではないことは確か。
逃げられる距離ではないし、進行方向、逃道は塞がれている。
これで終わりか。
人間じゃない生き物に物理攻撃が効果あるとは思えないし鞄には大切な書類が入っているので乱暴に扱えない。
こんなことになるなら仕事を終わらせておけばよかったな、と今更後悔しても仕方ない。
「悔いはありますが、殺すなら殺してください。」
もう死ぬ身だ。
考えるのも愚行だろう。
ぼんやりと諦めにも似た感情を満たした頭でそう思い、ネクタイを解きボタンを外し女性に見えやすいようベンチに背を預け首を晒した。
痛みを感じないくらい一瞬で殺してほしいな、と最後の願望を頭で願ってみたりするが、相手次第だな、と直ぐ様無かったことにした。
女性は無言を貫く。
青白い手が音もなく静かに上に持ち上がり男の首に触れ、何かを確かめるように指先で形をなぞる。
その指先は男の顔まで上がり、顎、唇、鼻、瞼の順に触れてゆく。
女性のワケわからない行動に疑問を抱きながらも黙って成り行きを見守り、探し求めていた何かを手に入れたのか女性は両手で男の頬を包んだ。
人間のように体温は感じないとても冷たい手だったけれど、何故か男は死の恐怖を感じなかった。
しかもその手は小刻みに震えていて益々よくわからない。
薄暗い女性の顔の一部が僅かに動き初めて喋った。
「アナタ、男性ですか?」
「はい。」
「不知見…倖ですか?」
「はい。」
「…よかった。
あの、すみませんが命を助ける代わりに私を助けてください。見ての通り酷い怪我をしています。貴方の欲望を魅せてください。」
「と言いますと?」
「私を一緒に住まわせて貴方の“欲望”という“エネルギー”を食べさせてください。」
「変わった脅迫に、変わった申し出ですね。
拒否権は?」
「ありません。」
男の名前を問うて安堵した様子を見せた女性だったが、次に吐いた言葉は理解し難いモノであった。
欲望という名のエネルギー。
悪魔は人間とは違う食事をとるのか、と呑気に考えていると女性の顔が至近距離にまで近づいていて、気付いた時には男か女性が少しでも顔を動かせば触れてしまいそうな近さだった。
やっと男性は女性の顔を拝めれた訳だが、女性の容姿は鼻筋がスッと通っただけで、額からは血が留まることを知らず目はずっと伏せられている。
その生ぬるい血が顔を汚すのも忘れて見上げた。
美しいと言えば美しく、普通と呼べば普通で、幽霊のようだと叫べば気味が悪い容姿。
普通なら何らかの拒絶反応を表す筈だが、こんな近くに誰かがいた経験など男には無くて、初めてのことに体や脳は操られたかのようについてゆけない。
今にも重なりそうな女性の黒い唇が蠢く。
「貴方が断れば、今、此処で貴方の魂を喰らいます。どうされますか?」
「一つ質問していいか?」
「どうぞ。」
「俺から欲望というエネルギーを奪ったら、何か変化はありますか?」
「あります。簡単に言えば、人間でいう“不幸”が貴方に降りかかります。貴方が“欲望”や“願望”などを口にする度に蓄積されてある“幸福”が減少し、数秒後に身に危険が及ぶ。
貴方がもし死んだ場合は子孫が受け継ぐ。私が死ぬまで、永遠に。」
「不利益しかないな。」
「諦めてください。」
「では、俺の言い分を受け入れてくれたら、君の脅しをのもう。」
「…述べてみてください。」
ゴクリ、生唾を飲み込む女性の喉がリアルに動く。
緊張しているのか。
悪魔も人とそう変わらない者だな。
男は微かに口角を上げた。
女性を試すように意地の悪い笑みを携え、指通りのよい髪に触れ片手を女性の後頭部に回す。
生暖かい血で汚れても構わない。
空いた手を己よりも一回り細い腰に回し距離を詰める。
今度は女性の方が袋の鼠のように逃げ場を失い男が優位に立ったかのように見えたが能力では女性の方が上。
けれど二者の間の空気は男性の言い様もない圧力をヒシヒシと感じさせ鼠の身動きを取れなくさせる。
男は吐息を当てるように言葉を囁き、年齢を感じさせない色っぽい表情で女性を捕らえる。
「君、今から俺の伴侶になりなさい。そうすれば条件を承諾する。」
「伴侶…とは?」
「俺の妻になるということだ。そうなれば一生俺の傍にいても問題ない。エネルギーを思う存分食べれば良い。」
「……戸籍は?」
「此処は〔夢国市〕ですよ。君が住民登録すれば済む。」
「一生、貴方に憑いていいのですか?」
「俺が選んだんです。拒否権はもうありませんよ。」
「……横暴ですね。」
「最初に選んだのは君だよ。」
「そうでした。」
「で、返事は?」
―サアァ。
女性の長い髪が夜風に揺れる。
女性の指先が男性の唇の形をなぞる。
お互い笑みを浮かべた顔で向かい合うがそこに優しさや穏やかさ愛しさなどは微塵もない。
あるのは獲物を狙う野生の獣。
空気が互いを逃がさない。
「名はコクと申します。」
「倖と呼びなさい。」
「何だか似ていますね。」
「そうだな。
コク、口付けますよ。」
「はい、倖。」
グッと女性の頭に回した手に力を入れ、深く口付けをした。
そこに迷いはなく、乱暴だけど傷つけないように。
男性にとってはファーストキスであるそれは荒々しく、初めてだと思えない激しさであった。
女性も男性を受け止めるように動きに合わせて角度を変え、世界には二者しかいないかのようにお互いを求め貪り合った。
―それから三日後、二者は周りに何も告げずに入籍をした。
誰からも祝福されない、結婚式もあげない寂しいものであったが、それでも二者は充実していた。
寄り添う二つの背中には不幸など全く感じさせない強い繋がりを秘めた色が描かれていた。
―もう、夕方になる。
話し終えた倖助は夕焼けを眺めていた。
雪一はただ倖助を見詰め心配そこに眉を下げては顔を俯かせる。
倖助の隣に座る遊炎はまだ小説を読んでいて、その横にいた筈の天馬教授はいつの間にかいなくなっていた。
誰かと共に帰る学生やサークルに急いで向かう学生、他愛もない会話をしながら帰る学生達と倖助の周りは別世界のように空気が違う。
迷いを含めた震える声でけれどしっかりとした眼差しで今にも消えそうな人を映し、ハッキリと強い口調で雪一は聞いた。
この世界にいる実感が欲しくて。
「不知見先輩は、恨んでないんですか?」
「……。」
―ザアッ。
強い風が吹き抜ける。
雪一は初めて見た。
返事に困ったように眉を下げ、悲しむような慈しむような、難しそうに笑みを作る倖助の顔を。
顔は雪一に向いているのに瞳には何処も何も映し出さない深い闇だけ。
風が止む前にスッと瞳を隠し、二回だけ、否定を示した意味で首を横に振った。
遊炎はまだ小説を黙読している。
雪一は何も言えない。
この話を聴かせてもらう度に質問をしては同じ答えしか貰えないと頭ではわかっているのに、どうしても聞いてしまう。
理由はわからないけれど。
きっと頭はわかっているのだろうけどわからない。
無下に口にする事は許されないと直感しているから。
…だから、雪一は頭を下げて言う。
「ありがとうございました。」
謝罪のような感謝の言葉。
それが青年には精一杯で限界で、倖助は責めることも咎めることも嘆くこともしないから余計頭が上がらない。
瞳先輩が戻り小説を読み終えた遊炎が『帰ろう』と言い出すまで二人は一言も発しなかった。
暗黙の了解がそこにあった。
「此処ね。」
専門学校の門の前に白衣を着た女性が仁王立ちしていた。
その人は白い肌の美人で女性にしては少し高い背丈。
スラッとした体にふくよかな胸、紅い口紅を付けた唇がよく栄える。
「此処にあたしの実験体に相応しい者がいるのね。これであの吏綺勝てる。フフフフ…フフフフフフフ!!!!」
ギュッと自分の体を抱きしめ不気味な笑い声をあげる女性を周りは関わらないよう遠巻きに凝視しながら通り過ぎる。
吏綺と名を口にした人物は女性の一方的なライバルで必ず勝たなくてはならない相手で同じ研究者。
嫉妬と妬みと憎しみを露にした眼差しで此処にいない相手を敵対視し、刹那の時間も惜しいと逸る気持ちで専門学校敷居を跨いだ。
―こっから先は、また別のお話で。
この話は中学三年生の最後らへんか高校一年生の初めらへんに考えたお話。
当初暗くなる予定もなく、変なこだわりを込めて書くつもりもなかった。読みにくくてすみません。
機会があれば続編を書きたい、な。まだ設定は考えてあるのに登場させてない人達がいるので。是非とも。
ありがとうございました。