冷笑する婚約者とは終わりにします
「はは、魔力なしとは虚しいものだな。同情すらしてしまう(笑)」
談話室の前を通りかかったところで、聞き覚えのある声がした。
王立学園の談話室では、ギルバート・ロズウェルの声がいちばんよく通る。侯爵子息である彼の周囲にはいつも人の輪ができている。
その中心で語られるのは、たいてい誰かの品評で、今日の標的はどうやら噂の留学生らしかった。
(ギルバート様に気づかれないように、このまま通り過ぎよう)
子爵令嬢のロゼット・エルフォードは扉の前で少し迷い、素通りすることに決めた。彼らに関わって、良いことは何もない。
「そういえば、私の婚約者殿は『人の魔力が目で視える』らしい」
話の矛先が自分に向き、驚いて足が止まる。間が悪く、開け放した扉の向こうにいる令嬢に気づかれてしまった。彼女が「あら」と声を上げると、ギルバートの目もこちらに向いた。
「おやこれは婚約者殿。良いところに。さあ、こちらへ」
見せ物の入場を促す口ぶりで、ギルバートが手招きをする。
長身の細身に仕立ての良い上着をまとい、銀灰色の髪は一筋の乱れもなく撫でつけられている。彫刻のように整った顔立ちなのに、いつも誰かを見下すような冷ややかな笑みを浮かべている。
「ロゼット本人の魔力は大したことはない。戦えるわけでもない。視えるというのも眉唾だしな。つまり、何の役にも立たないわけだ」
「まあ、それは大層なお力だわ」
「わたくしたちもこっそり見られているってこと? なんだか気持ちが悪いわ」
ギルバートとそれを取り巻く令嬢たちの間で、さざ波のような笑いが起きている。
(役に立たない、は今月に入って十二回目だわ)
自分に取り柄がないことはロゼット本人がよくわかっている。灰茶の髪は凡庸で、装飾の少ない制服の着こなしも、菫色の瞳を伏せがちにする癖も、目立たないことを最優先に組み立てられていた。
婚約は家同士の取り決めで、しかも先方から申し出てきたものだ。子爵家の領地は水路の上流をロズウェル侯爵家に握られている。
ロゼットの目には、生まれつき、人の身体を巡る魔力が光の流れとして視える。例えるなら、魔術科の教師のそれは整った用水路で、ギルバートのそれは水量ばかり多い、濁った急流だ。
そしてこの国では、魔力の価値は量と出力で決まる。巡りが視えると言ったところで他人には確かめようがなく、幼い頃に視えたままを口にしたときは、可愛げのない嘘つき扱いをされたものだ。
それにこの目のことは、決して口外しないようにと両親からきつく言い含められて育った。
(別に、私が広めているわけではないから問題ないわよね)
冷笑系婚約者とその取り巻きが、ロゼットの反応を待ってニヤニヤとこちらを見ているのがわかる。
仕方なしにロゼットは息を整えた。
「そうですね。それほど便利な能力ではないと思います」
淡々と答えると、そこでまた笑い声が上がる。
「そう謙遜するな。ほら、せっかくだ」
ギルバートが扇の先で、取り巻きのふたりを指した。侯爵家に近しい令息と、伯爵家の令嬢である。
「ご自慢のその目で、どちらの魔力が高いか言ってみろ」
「あの、それは」
「言ってみろと言っている」
断れる空気ではない。ロゼットはやむなく、ふたりの胸元へ目を向ける。
令嬢の魔力は色鮮やかだが、流れが浅い。対して令息のそれは、静かな分だけ底が深い。
「そちらの、御令息のほうかと思います」
ロゼットは視えたままに答えるしかなかった。
一拍おいて、ギルバートが弾けるように笑う。
「はは! さすがのお力だなあ! 残念、測定値ではこちらの令嬢のほうが上なんだよ(笑)」
どっと笑い声が起きる。令嬢は扇で口元を隠して肩を揺らし、周囲もそれに続いた。
ただひとり、魔力が高いと言われた令息だけが、笑わずにロゼットを見ていた。
「いい余興だった。礼を言うよ、婚約者殿。いやあ、視えるだけの力というのも、なかなか楽しめるものだな」
まだ沸いている輪の中で、ロゼットは微笑みの角度を保った。
何を言っても、どうせ冷笑されるだけ。わかっている。
「お話の途中で失礼します。次の講義がありますので」
ロゼットは一礼して談話室を後にした。笑い声が背中を追いかけてくる。
目線の先にある廊下の窓からは、青々とした中庭の芝が見えた。
(これくらい我慢はできるわ。あと何年でも……)
廊下を歩き出す。靴音がいつもより少し速かった。
(できる、はず)
子爵家のため。そう思って過ごしてきたけれど、その自信は年々目減りしていた。
*
ロゼットの唯一の息抜きは、人のいない早朝に学園の庭を歩くことだった。
その朝は、訓練場の裏手から声がした。
「風よ!」
風魔法の詠唱だ。しかし何も起きない。間を置いて、また同じ詠唱が響く。
生け垣の切れ目から覗くと、見知った留学生の姿があった。
(確か、ハイデン様だったかしら……?)
隣国レーヴェからの留学生、アル・ハイデン男爵子息はひと月前にやってきた。
魔力測定で高い数値だけは出るのに一度も魔術を発動できたことがない、と話の種にされている生徒だ。もちろん中心となってその話を広めていたのはギルバートなのだが。
噂の主をこうして間近に見るのは初めてだ。上背があり、肩幅の広いがっしりした体格に、少し日に焼けた肌。赤銅色の癖毛が汗で額に張りついて、それでも琥珀色の目は的だけをまっすぐ睨んでいる。
貴族の子弟が多いこの学園では、朝から土と汗にまみれている生徒のほうが珍しい。
(とてもきれい。でも、何かがおかしいわ)
アルの姿を見つめていたロゼットは、足を止めたまま動けなくなった。
彼の体内にあるものは、これまで視てきたどの巡りとも違っていた。胸の奥で、桁違いの量の光が行き場を失って渦を巻いてしまっている。
出口へ続く道が数か所、焼け落ちた橋のように途切れていて、魔力を発すべき両手には、何も届いていない。
それでも、その胸元で輝く魔力の光はこれまでに見たどんな魔力よりも眩しく、鮮やかだ。
あまりの美しさに目が釘付けになる。そのせいでアルがこちらに気づいてしまった。
「すまない。うるさかったよな。いつか魔法が使えたらと特訓をしているんだ。往生際が悪いと、笑ってくれていい」
アルはばつが悪そうに頭をかく。
きっとこれまでに幾度となくかけられた言葉なのかもしれない。そう思ったら、自然と足が動いた。
ロゼットは生け垣を回り込み、まっすぐに彼の前へ出る。
「いいえ、あなたに魔力はあります。体内で詰まっているだけです」
「え」
アルは数秒、まばたきも忘れた顔で固まる。
「君、魔力が視えるのか!?」
それからくしゃりと笑った。笑うと犬歯が覗いて、目尻が垂れ下がる。
「え、ええ」
「……なるほど、この子が。その目、すごいな! なあ、どこがどう詰まってる? 良かったら教えてくれないだろうか!」
最初の方は何を言われたのかわからなかった。ロゼットはアルに両手を握られて、ぶんぶんと上下に振られる。剣だこがあって硬い、大きな手だった。
(こんな風に、素直に人に誉めてもらうのは初めてかもしれない)
この能力に気づいたとき、両親は誉めてくれたかもしれない。でもそれから婚約の話がどんどん進んで、初めてギルバートと会ったときには『お前、変な力があるんだって?人の魔力を見るなんて気持ち悪いな』と言われてしまった。
それから、ロゼットは自分のこの能力があまり良くないものだと思っていた。
だが、アルは目をキラキラさせてこちらを見ている。その眼差しに圧倒されながら、ロゼットはおずおずと口を開いた。
「ええと、胸の奥から右肩と両手へ抜ける道が三か所。あとは背中の一か所が塞がっています」
指をさしながら告げると、アルは指さされた場所を自らもぺたぺたと触っている。
「四か所か! で、どうすれば魔力が通るかはわかるだろうか?」
「ごめんなさい。こんな風に塞がった魔力の巡りを視たのは初めてなので、今すぐにはわかりません」
ロゼットはそっと目を逸らす。
ギルバートが言うとおり、ロゼットのこの力は何の役にも立たない。
「……」
アルはどう思っただろう。ロゼットがおそるおそる顔を上げると、アルも何やら考えているようだった。
それから、お日様のように明るい瞳がパッとこちらを見る。
「では一緒に考えてくれないだろうか。君の時間があるときでいい。頼む」
言うなり、アルは深々と頭を下げた。願い事をするときに頭を下げる男を、ロゼットはこの学園で初めて見た。
「あ、頭を上げてください」
「君が引き受けてくれるまでは上げない!」
なんということだ。案外頑固ではないか。
本当に、アルはぴしりと直角に頭を下げたまま微動だにしない。
「……明日も、同じ時間にここでいいですか?」
気がつけば、ロゼットはそう答えていた。その途端、アルは勢いよく頭を上げ、ぱっと破顔した。かと思うと、飛びつく勢いで距離を詰めてくる。
「ありがとう! 本当にありがとう! この恩は必ず返す!」
また両手を取られて、ぶんぶんと上下に振られる。近い。声が大きい。握る力も強い。
「あの、私、まだ何もしていません」
振り回される腕の先で、ロゼットはどうにか口を開いた。
「引き受けてくれただけで十分だ! ああ、そうだ。名乗っていなかったな。俺はアルだ。隣国からの留学生といえばわかるか?」
「はい、存じております。私はロゼット・エルフォードです。あの、手を離していただけませんか」
「おお、すまない! では、ロゼット嬢。明日またお願いしたい」
「わかりました」
解放された手のひらに残る熱を、ロゼットは制服の陰でそっと握り込んだ。
*
特訓は翌朝から始まった。まずは原因の見立てから。
「ハイデン様は小さい頃に、ひどい高熱を出したことはありませんか」
「ある。五歳の冬に三日三晩。医者が匙を投げたと、あとで聞いた」
ロゼットはアルの話を聞きながら、土の上に木の枝で人の形を描いた。そしてそこに、視えるままの魔力の流れを記す。
「魔力の器が大きすぎる子どもは、まれに自分の魔力で熱を出すという記述を見たことがあります。ハイデン様の熱の原因はそれで、そのときに巡りの道が焼けて塞がったんだと思います。量を測る水晶には数値が出るのに、出力だけができないのはそのせいなのかなと」
枝の先を、途切れた線の上で止める。
「そもそも、魔力が多過ぎたのが詰まりの原因なのではないかと思います」
ロゼットなりに調べてみた結果だ。魔力に関する色々な症例が載っている本を昨日は片っ端から調べた。そう、元々のロゼットは、魔力について考えるのが好きだった。
いつの間にやめてしまっていたけれど。
「……そうか。俺は、魔力なしじゃないのか」
アルはしばらく黙って図を見下ろしたあと、ぽつりと呟いた。
「はい。絶対に違います」
「そうか!」
跳ねるように顔が上がった。目の縁が少し赤かったことには、気づかないふりをする。
それから始まった特訓の中身はとても地味なものだった。
塞がった道の手前まで魔力を細い糸にして送り、行き止まりを少しずつ押し広げる。糸を保つには呼吸と姿勢が要るので、朝は走り込みと腕立て伏せから始め、詠唱が乱れないように発声練習までやった。
そしてこれは全て感覚の話なので、ロゼットはアルの魔力を視ながら、事細かにアドバイスをする。
「ハイデン様、まだ魔力の糸が太いです。今の半分にするように意識をしてください」
「わかった!」
「呼吸が速いです。詠唱も頭の中でイメージするように、ゆっくりと言ってみてください」
「わかった!」
アルは、恐ろしく素直だった。言われたことをその場で試し、翌朝には前日の課題を完璧に仕上げてくる。
飲み込みの速さに教える側の準備が追いつかず、ロゼットは夜、寮の机で翌日の段取りを考えるようになった。ろうそくが短くなるのも忘れて、はっとして時計を見る夜が続いた。
(変だわ。私、楽しい)
休憩には、アルが焼き立てのパンを山のように持ってきて、半分に割ったりした。世間話というものを、ロゼットは久しぶりにした。
「ロゼット嬢に、いくつか質問してもいいだろうか」
「あの、ロゼットで構いません。質問も、答えられる範囲であれば」
「ではロゼットと呼ぼう。君は……休みの日は何をしているんだ?」
「お休みの日ですか? 侯爵家にお伺いして、刺繍や勉強をしています」
嘘は言っていない。侯爵家には週末のたびに足を運ばないといけない。そこで侯爵夫人に使用人の扱いをされていることは、アルには知られたくないと思った。
「……そうか。では、ロゼットが休日にやってみたいことはなんだ?」
「笑いませんか」
「笑わないさ」
「お昼まで寝てみたいと、思っています。一度でいいので」
かつて馬鹿にされた望みを、もう一度言ってみた。どうしてだか、アルは否定しないでいてくれると思ったのだ。
「いいな、それ! 休みの日の特権だ。向こうで寝坊するといつもうるさいヤツが飛んで来るんだ。留学したらそれがなくなったから楽でいい」
「まあ、アル様ったら」
やっぱり笑われなかった。ロゼットはほっと胸を撫で下ろす。
「好きな食べ物はなんだ?」
「そうですね、甘いものはなんでも好きです。毎食、デザートが付いたらいいのにと思っています」
「付けていいだろう、別に。食事は楽しいほうが強くなれる。他にやりたいことは?」
「いつか犬を飼いたいと思っています。広いお庭で、犬と遊びたいなって」
「犬はいいぞ! うちにも三匹いる。でかいのが二匹と、ちっこいくせに一番偉そうなのが一匹」
「三匹も。お家が広いんですね」
「ん? ああ、まあ、広いな!」
アルとの会話は、何も気負わなくていい。何かを否定することなく、彼の考えも教えてくれる。
(気の置けない友人って、こういうものなのかな)
すごくいいものだ。
ロゼットは初めてのびのびとした気持ちになることができた。
途中でギルバートに見つかった日もあった。訓練場の裏を通りかかった彼は、泥だらけのふたりを眺めて、それはそれは楽しそうに鼻を鳴らした。
「無駄な能力と魔力なしが、朝から泥遊びか。お似合いだな(笑)」
アルが何か言いかけたのを、ロゼットは目で止めた。相手は侯爵子息だ。分は最初からこちらにない。
(大丈夫、私は彼の冷笑に慣れているから)
アルは、これまでに見たことのない顔をしていた。笑ってもいないし、憤ってもいない。ただ静かにギルバートを見ている。
そして、ひと月が過ぎた朝。それは起きた。
「風よ!!」
低く整った詠唱と同時に、アルの指先から風が渦を巻いて立ち上り、訓練場の的を支柱ごとなぎ倒したのだ。
「……出た」
「出ましたね」
「出たぞ! ロゼット!」
ロゼットはアルに抱え上げられて一回転した。悲鳴を上げる余裕もなかった。地面に下ろされてから、ロゼットは乱れた髪のまま、的の残骸と彼の顔を交互に見る。
「アル様。魔力の加減を間違えています。糸どころか綱でした」
「はは、すまない! 魔力の巡りは、しっかり君にも視えていたか?」
「はい。アル様の全身を巡っています。これならいつでも魔法を発動できると思います」
「……そうか。全部、君のおかげだ!」
アルは子どものように屈託のない笑みを浮かべる。彼の魔力は美しい黄金色だ。眩い光が全身を巡っている。それはロゼットが十八年間視てきたどの流れよりも澄んでいた。
声には出さず、ロゼットはその光の通り道を目でなぞる。
(もう、大丈夫そうだわ)
これ以上、特訓の必要はない。アルとの時間は今日が最後になるだろう。
少し寂しいが、いつの間にか名前で呼び合うようになった友人が目標を達成する瞬間を――魔力が巡る瞬間をこの目に焼き付けることができて誇らしい。
魔法が直撃してしまった的をふたりで拾いに行ったら、支柱が根元からぽっきりと折れていた。
魔法練習用にかなり強化されているはずなのに。
「……アル様。これ、弁償ですね」
「俺が払うから大丈夫だ」
大丈夫なのだろうか。留学生の仕送りで、この備品を修復するのは負担が大きい。
「事務局に掛け合ってみます。分割払いも可能だと思いますので、そのあたりの猶予を申請しますね」
ロゼットが真剣な顔でそう言うのを聞いたアルは、目を丸くしたあとに「助かるよ」と笑ってくれた。
*
学園主催のパーティーは、毎月末にある。
貴族子息が通う学園であることから、夜会での振る舞いを学ぶための教育の一環とされていた。
ロゼットが会場に入ると、ギルバートは令嬢たちの輪の中心にいた。
婚約者をエスコートする気は最初からないらしい。それ自体はいつものことなので、気にせずいつものように壁際へ向かおうとしたところで、ギルバートの声が飛んできた。
「これは婚約者殿。今日は泥だらけじゃないんだな(笑)」
輪の視線が集まる。ギルバートはグラスを掲げ、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「無駄な能力を磨いて、魔力なしと泥遊び。侯爵家に嫁ぐ自覚があるとは思えない。なあ、ロゼット。君は自分の立場がわかっているのか? 私は、いつだって婚約破棄してもいいんだぞ?」
令嬢たちが扇の陰でくすくすと笑っている。
それを聞いたロゼットは、ぴんと背筋を伸ばした。ドレスをつまみ、完璧な淑女の礼をする。
「よろしいのですか? 婚約破棄、ぜひよろしくお願いします!」
朝の魔法特訓で、ついでにロゼットの発声も鍛えられたのかもしれない。その声は会場によく通り、音楽が止まったわけでもないのに、あたりが静まり返る。
(ついに、言ってしまったわ)
ロゼットは礼の姿勢からゆっくり身を起こした。心臓はバクバクとうるさいのに、頭の芯は涼しい。
子爵家は一時的に困ってしまうかもしれない。でも、ロゼットは自分の能力に少しだけ自信がついた。ひと月かけてアルの巡りを追ううちに、この目が向くのは人の身体だけではないのかもしれないと思うようになった。土地を巡る水も、同じ光として視えるのではないか。それならば侯爵家の力を頼らずとも、子爵家の活路を見出すことができるかもしれない。枯れたと言われている水源とは別の水脈を見つけることも、不可能ではない。アルと話していて、その可能性に行き着いた。
「……は?」
ギルバートは呆気に取られた顔をしている。
「婚約破棄、謹んでお受けします。皆さまの前で明言していただけて、手続きが早く済みます」
「じょ、冗談に決まっているだろう。冗談も通じないのか?」
「侯爵子息ともあろう方が、婚約破棄を冗談でおっしゃるのですか? そんなこと、なさらないはずです」
視線を巡らせると、目が合った令息が実に良い笑顔で頷いた。談話室でひとりだけ笑わなかった、あの令息だった。
「確かに聞きました。いつでも破棄していい、と仰いましたね」
「わたくしも聞きましたわ」
「僕もです」
意外なことに、周囲の人たちも声を上げる。
もちろん、婚約は家同士の契約だ。ロゼットの一言で消えるものではない。それでも、これだけの証人の前で「いつでも破棄していい」と言質を取られたのだ。侯爵家の面子にかけて、もう冗談では済ませられないはずだった。
ギルバートの整った顔が白と赤を行き来し、やがて憎々しげに会場の入り口へ向く。
夜会服に着替えたアルが、まっすぐこちらへ歩いてくるところだった。仕立ての簡素な礼服なのに、肩幅と姿勢のせいで妙に見栄えがする。癖のある赤銅色の髪だけは、いつもどおり撫でつけそこねていた。
「……ああ、読めたぞロゼット。その魔力なしか(笑) 無駄な能力に魔力なし、お似合いだと言ったのは私だが、まさか本気にするとはな。おい、留学生。人の婚約者をたぶらかしたな!」
アルはロゼットの隣まで来て、足を止めた。
「まだ、たぶらかしてはいない。それに婚約は、たった今そちらから終わらせたように見えたが」
(『まだ』と聞こえた気が……?)
いやきっと気のせいだろう。ロゼットが首を傾げている間にも、ギルバートは目に見えて怒りに震えている。
「口の利き方がなっていないな、木っ端貴族が……! ちょうどいい、余興だ。魔力勝負をしてやろう。魔力なしがどう吠えるのか、皆さまに見ていただこう(笑)」
「いいのか」
「いいとも! 私に勝てたら何でも望みを叶えてやろう」
勝つことを確信しているギルバートが鼻を鳴らす。
アルはちらりとロゼットの方を見たあと、怯むことなく口を開いた。
「では、俺が勝ったら、二度と彼女の尊厳を傷つけないと誓ってもらいたい」
「は。魔力なしが、勝つ気でいるのか(笑)」
ギルバートは心底おかしそうに嗤った。
「いいだろう、約束してやる。その代わりお前が負けたら、ふたり揃って学園中に詫びて回ってもらうぞ。無駄な能力と魔力なしが身の程を弁えませんでした、とな」
「ああ、決まりだ」
会場がざわめく中、ギルバートとアルは中庭に面した窓から外に出ていく。
ロゼットも慌ててふたりを追いかける。
ギルバートの得意は火球である。侯爵家の血筋は代々火に愛されている、というのが本人の口癖だった。対するアルはまだ魔法を発動させたばかりだ。もし失敗したら、大怪我をしてしまう。
「後悔するなよ、魔力なし! 豪火!!」
ギルバートの詠唱で、人の背丈ほどの火球が膨れ上がり、うなりを上げてアルへと向かう。
だが、ロゼットの目は火球ではなく、アルに吸い寄せられていた。澄んだ光が彼の胸の奥から立ち上がり、ひと月かけて通した道を走って、全身を巡っていく。
(なんて、きれいなんだろう)
迫る火球を前に、見とれている場合ではないのに、目が離せない。
「風壁」
アルの落ち着いた詠唱とともに風の壁が立った。火球はその壁に触れた途端、ろうそくの火のようにかき消えた。風はそのまま止まらず、渦を巻いてギルバートの足元をすくい取る。彼の身体はまるで人形のようにきれいに半回転して芝の上に背中から落ちた。
中庭から音が消える。
「……ば、馬鹿な。お前は魔力なしのはずだ。測定器の故障だと、皆が」
「故障じゃないさ」
アルは手のひらの上に小さな風の渦を立てて見せた。
「教えてくれた人がいる」
周囲のざわめきが弾けた。あれは誰だ、魔力なしではなかったのか、今の詠唱の精度を見たか。
色々な声が聞こえる。
中庭の中央では、アルの立てた風の渦がまだ小さく回っている。
ロゼットは強張っていた肩から力を抜いた。
ギルバートにも怪我がないように配慮したのだとロゼットにはわかる。それくらい、ふたりの魔力には差があった。
「お怪我はありませんか!」
騒ぎを割って、学園長が転がるように駆けてきた。その後ろに、見慣れない壮年の男が続く。
形勢逆転できると踏んだのかギルバートは勝ち誇ったような顔をした。
「学園長! そこの留学生が突然勝負を持ちかけて――」
「アルディス殿下。御前で騒ぎと伺い、肝が冷えましてございます!!」
学園長が駆け寄ったのは、ギルバートではなくアルの方だった。
「……でんか?」
誰かがぽつりと繰り返した。
「殿下とは誰だ?」
「あの魔力なしの留学生が、まさか……」
ざわめきが波のように広がっていく。
芝に尻をついたままのギルバートも、口を開けたまま固まっている。
ロゼットといえば、その場に立ち尽くしていた。
(アルディス殿下、と聞こえたけど……?)
それは隣国の王子の名前だ。
頭の中で、ひと月分の朝が順に思い出されていく。腕立て伏せ。発声練習。半分こしたパン。糸が太いですという説教。
全部、恐れ多くも隣国の王子殿下に対して行っていたことになる。
狼狽して動けないロゼットの目の前に革靴の先が見えた。慌てて顔を上げると、アルが――いや、アルディス殿下が眉を下げてこちらを見ていた。
「……ロゼット。黙っていて悪かった。魔力を治す当てを探して身分を伏せて来た。騙すつもりはなかったんだ」
「あの」
「うん」
「弁償の分割払いのご相談に乗ってしまいました。王子殿下の、仕送りの心配までしてしまい……! 申し訳ございません」
「ああ。あれは嬉しかったな。俺の財布の心配をしたのは、この国で君だけだ」
しみじみと言われても、心の準備がまるで追いつかない。
周囲のざわめきは大きくなる一方だ。
本当に王子殿下なのか。ではさっきの婚約破棄は。あの令嬢はいったい何者だ。好奇の視線と押し寄せてくる気配が、四方八方から迫ってくる。
もはや夜会どころではない。楽団は演奏を止めたきりで、誰も再開を告げないまま、その夜の催しはうやむやのうちに中止となった。
アルディスが小さく息を吐き、ロゼットへ手を差し出す。
「ここにいたら質問攻めだ。送ろう」
「え、あの、でも」
「ゼノン、あとを頼む」
「御意」
戸惑うロゼットの手を引いて、アルディスは人波を割るように歩き出した。詰め寄ろうとする貴族たちは、広い背中がすべて遮ってくれた。
迎えの馬車の前まで来ると、アルディスは扉を押さえ、こちらを覗き込んだ。
「ロゼット。また、会いに行く」
返事をする余裕はなかった。扉が閉まり、馬車が動き出す。
揺れる車内でひとり、ようやく息を吐く。
(……色々ありすぎて、なにがなんだか)
窓の外で、学園の灯りが遠ざかっていった。
*
それからの日々は、目まぐるしく過ぎた。
ギルバートとの婚約は、正式に解消された。
縁談の真相も、父がようやく話してくれた。
この国では、水晶で測れない特別な力は、王家へ届け出る義務がある。ロゼットの目も、本来は報告されるべきものだった。だが侯爵は、その届け出を握り潰していたのだという。
表向きの言い分は、こうだ。特別な力は、悪用を企む輩に狙われやすい。王家に届ければ道具として使われるだけだ。だからロズウェル侯爵家が、家をあげてお嬢さんを守ろう、と。縁談も口外の禁止も、すべてその「保護」の一環だと説明されて、父は頷くしかなかったらしい。
(守ら……れて、いた?)
守られていた覚えは、少しもない。
「巡りを視る目」を知った侯爵は、人の魔力の才や不調を見抜けるその力を、ゆくゆくは家中の魔導士の登用や、跡継ぎの才の見立てに使うつもりだったのだ。価値を他家に気取られることを恐れて夫人と子息にすら詳しい話をしていなかったことで、皮肉にもこうして露見することになってしまった。
報告義務の握り潰しに、水利を盾にした縁談。さらに調べの中で、十年前に枯れたはずの子爵領の水源がよみがえっていることがわかり、その水底から、砕かれた術式の残骸が見つかった。
水脈を堰き止める術式を仕掛けたのは、水利を独占したい侯爵家。申し開きのしようもなく、侯爵は爵位を一段下げられ、王都の屋敷で謹慎の身になったという。ギルバートの姿を、ロゼットが学園で見かけることはそれきりなくなった。
術式を砕いた者が誰なのかは、わかっていない。ただ、侯爵家の術式はかなり強固なもので、あれを上回る力でなければ壊せなかったはずだと、調べに来た魔導士が残骸を前に首をかしげていたそうだ。
(それって)
ロゼットの頭に、まばゆいばかりに輝く魔力を巡らせる人の顔が浮かんだ。
特訓の最中に、アルに水脈についての話をしたのは確かだ。
さらに隣国のレーヴェ王家からは、仰々しい感謝状が届いた。魔力の巡りを視る力は、かの国では百年にひとりの「神の目」と呼ばれ、王家は殿下の御身のために十年探し続けていたのだという。
しがない子爵家の令嬢が受け取るには、少々規模の大きすぎる手紙だ。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「突然の訪問をお許しください」
よく通る声には、聞き覚えがあった。まさか、と思いながらロゼットが玄関ホールへ下りると、扉の向こうに正装のアルディスが立っていた。
(また会いに行くとは言っていたけれど、正装でいらっしゃる理由がわかりません!?)
白を基調にした隣国の礼装は肩章も飾緒も本物で、着ている当人の癖毛だけが今日も言うことを聞いていない。後ろには随行のゼノンが控えている。
ちなみに屋敷の玄関先では、王子殿下の突然の来訪に、父と母が揃って右往左往している。お茶の支度を、いや応接間へ、いっそ王都に使いを、と慌てる声がここまで届いていた。
「ロゼット! やっと会えた」
訓練場で泥だらけになっていた頃とは、まるで別人のようだ。それなのに、こちらを見つけた途端に破顔するところだけは、あの朝と少しも変わらなかった。
応接間の支度を、と父が言いかけたのを待たず、アルディスは大股にエントランスを横切ってきた。ロゼットの前に立ち、それから跪く。
「ロゼット・エルフォード嬢。どうか、俺と結婚してほしい」
吹き抜けのエントランスに、その声はよく響いた。直球だ。心臓が大きく跳ねて、手が震える。
今、彼は何を言った?
混乱のまま、ロゼットは静かに頭を下げる。
「アルディス殿下、ありがとうございます。……ですが、私には身に余るお話で、お受けできません」
「なぜだ!」
「私は婚約破棄されたばかりの子爵家の娘です。それに」
少し迷ってから、ロゼットは続けた。
「この力が必要なのであれば、妃という形でなくても良いのではないですか?」
「違う、ロゼット。順番が逆だ」
立ち上がったアルディスは、一歩、距離を詰めてくる。
その目に見つめられると、全て見透かされてしまいそうだ。
「留学先にこの国を選んだのは、確かに『魔力の視える令嬢がいる』という噂を聞いたからだ。半信半疑だったが」
出会った朝、彼が小さく「この子が」と呟いていたことを、ロゼットはようやく思い出した。
秘密にしたい侯爵の思惑もどこ吹く風で、事情を知らないご子息が学園中に言いふらした与太話は、国境まで越えていたらしい。世の中はうまくできている。
「あの侯爵が隠したがったわけも、今ならわかる。人の巡りが視えるということは、その気になれば、誰の魔力の底も、隠した不調も見抜けるということだ。数値を誤魔化してふんぞり返っている連中は、今頃戦々恐々としているだろう」
「そんな使い方、考えたこともありませんでした」
「知っている」
アルディスがふっと目元を緩めた。
「その力を持ったのが君で、本当に良かった。毎朝俺よりも早く訓練場に来て、魔力を巡らせる方法を夜更けまで考えて、留学生の財布の心配までする。そういう君だから、隣にいてほしいと思ったんだ」
「っ」
まっすぐな目だった。初めて会った朝と同じ目が、今はロゼットだけを見ている。
ロゼットの中で長い間どこにも流れていけなかった気持ちが、あの朝から確かに巡り始めている。まるで、滞っていた場所から解放されるみたいに。
「毎日は無理かもしれないが、休日はお昼まで寝ていていいし、毎食デザートもつけるし、犬ももう一匹飼おう!」
返答しないロゼットに焦れたように、アルディスが言う。
「城は広い。今はでかいのとちっこい犬が両方いる。刺繍の道具は良いものを揃えるよ。あとは何だ? 君の好きなものを、また教えてくれ!」
昼寝。デザート。犬。
全部、休憩の世間話で話しただけの望みだった。いつも馬鹿にされるから、普段は口にしないようにしていたもの。
「ふふ」
あんな他愛もない会話を、残らず覚えてくれていた。
こらえきれず、ロゼットは肩を震わせて笑ってしまった。
「……足りないだろうか?」
「いいえ」
しょんぼりした様子の声に、ロゼットは背筋を伸ばした。ドレスの裾をつまんで、完璧な礼をする。
「アルディス殿下。私でよければ、そのお話、お受けいたします」
「よかった! ロゼット、ありがとう!」
「きゃ!?」
アルディスに勢いよく抱き寄せられ、ぎゅうぎゅうと包み込まれる。ちょっと暑苦しい気もしたが、嫌な気はしない。
「子犬の名前、私が考えてもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
視界の端で、父と母がへなへなと座り込んでいるのが見える。それもそうだ。こんなこと、ロゼットだって信じられない。
ふいに、目の奥で何かがほどけた気がした。
世界が、明るい。
目の前では、アルディスの黄金色が今までで一番眩しく巡っている。座り込む父と母にも、扉の外に控えるゼノンにも、それぞれの色の光が流れている。玄関ホールいっぱいに、大小の巡りが灯りのようにともって視えた。
世界がこんなに鮮やかに視えたことはない。伏せてばかりだったこの目を、ロゼットはいま、まっすぐに開いている。
(なんだか、世界がとても楽しそうだわ)
アルディスと一緒にいたら、この目のことも、もっと好きになれる。
ロゼットは、初めて未来が待ち遠しくなった。
(おわり)
お読みいただきありがとうございます。
今回、誰のキャラが先に決まったかわかるでしょうか…?そう、ギルバートくんです。(笑)をたくさん入れてみました。楽しんでいただけたら幸いです!!
★★★★★いただけるとさらに嬉しいです!!




