音楽室
ランチタイムが終わり、歯みがきをした後、彼女が俺に言ってくる。
「音楽室までついて来てくれないかな?」
ミントの清涼感のある香り。
軽く香水でもつけたかのような、良い香りがすると、くんくんと鼻を動かす。
匂いには敏感で、彼女からはいつも良い香りがしていた。
「あのね、楽譜を取りに来なさいって言われているの」
「楽譜? 何の?」
「えっと、次の授業で使うらしくて」
彼女はそう言うと、両手を合わせ、俺に頼み込む。
「一緒に行ってくれない? あの、先生が嫌いとかじゃなくて、その」
「何だよ。はっきり言えよ」
俺の顔が険しくなったので、喧嘩でもしているのかと、周りがちらちら見てくる。
彼女が両手を大きく広げて、皆に見せないようにする。
それから可愛い顔を近づけてきて、正直に言ってくる。
「音楽室に1人で行くのが嫌なのよ!!」
「何で? 何もないだろう?」
「あるのよ。その…音楽家の顔が怖いというか」
「音楽家? …ああ、壁に貼られた肖像画か」
「そう!! その通り!! モーツァルトとか、バッハとか、その笑い声が聞こえそうで、怖いというか…」
「お前、意外と怖がりだもんな」
理科室の件もそうだが、彼女は霊感でもあるのか、怪談を信じているらしい。
俺は機嫌を良くし、くっくと笑う。
逆に彼女は怒ったようで、頰を膨らませる。
「せっかく人が話したのに」
まるでライオンに、たてつくうさぎのような感じたと思い、声をかける。
「悪い。分かったから、一緒に行ってやる」
「本当!? ありがとう!!」
彼女は周りの目を盗んで、素早く抱きついてくると、すぐに離れた。
もったいないと、俺は柔らかな感触をもう一度、願うのだが、無理なようだった。
彼女が手を差し出してくるので、席から立ち上がり、言ってやる。
「俺がいれば怖くないから。大丈夫」
「うん!! よし、行くぞー!!」
急に元気になった彼女に、俺は頭を撫でてやると、手を引っ張っていく。
廊下はまだ歯みがきしている人達や、ロッカーに用がある人達で賑やかだった。
彼女を見れば、俺と手を繋ぐのが恥ずかしいのが、頰を赤く染めている。
大胆なようで、気が弱いというか、可愛い心を持っているというか。
とにかく、俺が守ってやらないとと、顔を引き締まる。
音楽家は2階にあり、階段を上ると、人気がなくなった。
空気が異なり、しーんとしている。
確かに何が出てきそうだと、俺は鳥肌が立つのを感じる。
「ここからが怖いのよ」
彼女は弱々しく言うと、手をぎゅっと繋いでくる。
俺は安心させるように、
「何も出て来ないから、安心しろ」
はっきり言ってやると、足を速める。
これは早めに終わらせたほうがいいと判断し、音楽室に辿り着く。
「中に入るぞ」
彼女に声をかけると、恐る恐るうなずいてくる。
本当に怖がりなのだと、笑ったことを後悔する。
「俺の後ろに続け」
怯えるうさぎを落ち着かせるように言うと、ドアを開ける。
彼女が「ひっ…!!」と短い悲鳴を上げたが、俺は繋いだ手を放さず、中に引っ張る。
音楽室の中はやはり静かで、隅にピアノが置いてある。
壁には音楽家の肖像画が飾ってあり、俺はじっと見つめるが、何も起きなかった。
「大丈夫だぞ。何も起きないから」
「そ、そう…?」
彼女は目を瞑っているらしく、俺の背中のシャツを引っ張ってくる。
そんなに怖いのかと、俺のほうがびっくりする。
「大丈夫だって。別に動いたりしていないし」
「そ、そうなの…?」
彼女を怖がらせないために、優しく言う。
「音楽室の中は陽がさして、穏やかな雰囲気だぞ? 理科室よりは怖くない」
「穏やか…? …本当だ」
ようやく目を開けたらしく、彼女は俺の背中から手を放す。
恐る恐る肖像画を見たようで、繋いだ手に力が入る。
「目が動いた…!! 口が動いた…。ね? ね? 見たでしょう?」
「安心しろって。気のせいだから」
「気のせい…」
彼女は肖像画をじっと見たようで、俺は感心する。
俺に任せて逃げてもいいのに、そうしようとしない。
負けず嫌いなんだよなと、俺は口元を綻ばせるのだった。
「本当だ…。私の気のせいみたい」
彼女の声が普通になり、俺は安心したその時。
ガチャ、っとドアが開いた。
それは音楽準備室で、彼女が「キャー」と悲鳴を上げる。
パニックになって、座り込んでしまった彼女。
俺は守ろうと見れば、何でもない。
音楽の先生だった。
「どうした? 悲鳴なんか上げて」
ぽっちゃりした先生で、音楽を心から愛しているのだった。
指揮をすると、身体全体で表す先生で、皆、真似して面白い人だった。
「おい、おい!! 先生だ、先生」
腕を動かして教えてやると、彼女は「え」と顔を上げ、先生を認める。
「せ、先生…。よ、良かった」
彼女ははあ、と安堵の息を吐くと、ゆっくり立ち上がる。
先生は不思議そうに、こちらを見ている。
「先生、楽譜を取りに来たんだ」
彼女の代わりに俺が言うと、先生は「ああ」と言い、音楽準備室に戻っていく。
彼女は胸を撫でながら、俺を見つめてくる。
「ありがとうね」
「おう。もう怖くないだろう?」
「うん。…あ、先生が来た」
先生はすぐに戻ってくると、楽譜を彼女に差し出してくる。
「はい、これ。次の授業までにマスターするように」
「は、はい!! 分かりました」
彼女は先生と話しているうちに、穏やかとなり、まるで嵐の去った後の海のような、そんな感じだった。
「早く行きなさい。授業が始まるから」
「はい。ありがとうございました」
「ありがとうございます」
俺と彼女は礼を言うと、音楽室から出た。
やはりしんとしているが、用が終わった後だと、心が楽だった。
「良かったな、楽譜が手に入って」
「うん。ありがとうね。ついて来てくれて」
彼女は恥ずかしそうにすると、背伸びして俺の頬にキスをしてくる。
「お、おい…」
俺は動揺したが、彼女も同じらしく、真っ赤だった。
それ以上は追及しないことにし、俺は彼女の繋いだ手を叩く。
「ここから教室までダッシュだ。行くぞ!!」
「うん…!!」
2人は仲良く走り出し、教室に向かったのだった。




