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「エコだから」とエアコンを切った夏の日、親友の姉は死にかけた。――それ以来、親友の「心配」という名の狂気が止まらない。  作者: 品川太朗


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第5話(最終話) それでも、生きている


その日、教室の彼女の席だけが、ぽっかりと穴が空いたように空白だった。


放課後、担任の口から語られた事実は、予想していたとはいえ、重くのしかかった。

 自宅での昏倒。救急搬送。


診断名は、過度の精神的ストレスに起因する過呼吸と、栄養失調。


私は部活に向かう足音から逃げるように校門を抜け、彼女が運ばれた総合病院へと急いだ。


消毒液と無機質な清潔さに満ちた病室のドアを開ける。


そこには、点滴のチューブに繋がれ、シーツの白さに溶け込んでしまいそうなほど儚くなったミオが横たわっていた。


窓の外はすでに宵闇が迫っている。

 ベッドの脇には、数日で急に老け込んだような佐伯さんの母親が座っていた。


「来てくれてありがとうね」と私に向けた笑顔は、ひどく頼りなく、そして痛々しかった。


母親が気を利かせて部屋を出て行くと、そこには重苦しい沈黙だけが残された。


ミオは天井の一点を凝視したまま、瞬きすらしなかった。


「……ごめんね、ユイ」


乾いた砂のような、掠れた声だった。


「私、おかしくなってた」


「ううん。私こそ、追い詰めるような言い方してごめん」


私はパイプ椅子を引き寄せ、布団の上に投げ出されたミオの手を、そっと両手で包み込んだ。


指先は冷たかったが、掌には確かな体温があった。生きている温度だ。


その熱に触れた瞬間、ミオの視線がゆっくりと私の方へ動いた。

 堰を切ったように、彼女の唇が震えだす。


「あの日のこと、ずっと夢に見るの」


それは、誰にも言えずに彼女の内側を腐らせていた、膿のような本音だった。


「リビングのドアを開けた時、お姉ちゃん、人間じゃなかった。蝋人形みたいだったの。肌が灰色で、口が半開きで……私、死んでるって思った。私が帰ってくるのが遅かったから、私がもっと早く気づかなかったから、私がお姉ちゃんを殺しちゃったんだって」


ミオの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出し、枕を濡らしていく。


「救急車を呼んでいる間も、怖くてたまらなかった。もし、このまま息を吹き返さなかったらどうしようって。エアコンが切れたのは事故かもしれないけど、それに気づけなかったのは私だもん。私のせいだもん……」


「ミオ……」


「お姉ちゃんが退院してからも、笑ってるお姉ちゃんを見るたびに、あの『死んでるみたいな顔』が二重写しになるの。目を離したら、またあの人形に戻っちゃうんじゃないかって……それが怖くて、怖くて、どうしても目が閉じられなかった」


それが、あの異常な監視行動の正体だった。


姉への愛着ではない。

 あの日、彼女の網膜に焼き付いた「死の感触」が、目の前にある「生」を信じることを許さなかったのだ。


サバイバーズ・ギルト。生き残った者が抱く罪悪感。

 ミオの場合は、「姉を死の淵に晒してしまった」という加害者意識が、呪いのように彼女を縛り付けていた。


私は、包み込んでいた彼女の手に、ぎゅっと力を込めた。


「ミオ。アヤネさんは生きてるよ」


「……うん」


「ミオが助けたんだよ。殺したんじゃない、あなたがこちらの世界に引き戻したの。私があの時、電話越しに聞いたミオの声は、パニックになってたけど、必死で、誰よりも勇敢だったよ」


ミオの顔が歪み、子供のような泣き声が漏れた。


私は彼女が泣き止むまで、震える背中をさすり続けた。

 骨が浮き出るほど痩せた背中。


あの灼熱の夏の日、電話越しにはしてあげられなかったことを、今ようやくできている気がした。



季節は巡り、カレンダーは十月になっていた。


朝晩の風には秋の気配が混じり、肌を刺すようなあの日差しは、もうどこにもない。

 あの殺人的な猛暑は、まるで悪い夢だったかのように鳴りを潜めていた。


ミオはまだ保健室登校が続いているけれど、スクールカウンセラーに通いながら、少しずつ日常の輪郭を取り戻そうとしている。


アヤネさんとも、涙ながらに話し合ったらしい。

「心配してくれるのは嬉しいけど、私はもう大丈夫だから。私の生命力を信じて」と、そう言われて、GPSアプリもその場で削除したと聞いた。


放課後の帰り道。


茜色に染まる坂道を歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。

 ミオからだ。


『今日は……ちゃんと眠れたよ』


たった一行のメッセージ。

 そして、部屋の窓から撮影されたであろう、高く澄み渡った秋空の写真が添えられていた。


私は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

 肺の中を、乾いた秋の空気が満たしていく。


きっと、ミオの傷が完全にかさぶたになるには、まだ長い時間が必要だろう。


来年の夏が巡ってくれば、またエアコンの駆動音に怯え、夜中に目を覚ますかもしれない。

 それでも、彼女は今日、確かな一歩を踏み出した。


私はスマホの画面越しではなく、自分の目で空を見上げた。


どこまでも高く、残酷なほどに美しい青空。


本当に恐ろしいのは、死そのものではない。

 死の感触に触れてしまい、それでも生き残ってしまった私たちの「心」の脆さなのかもしれない。


けれど、と私は思う。


脆く、欠けているからこそ、私たちはこうして手を繋ぎ合い、互いの体温を分け合うことができるのだと。

 命を奪う熱ではなく、生きていくための温かな熱を。


「……よしっ」


私は小さく呟き、スマホをポケットにしまった。


歩き出す足取りは軽い。

 今日の夕飯は何だろう。


そんな当たり前の日常が、今は涙が出るほど愛おしく感じられた。


(了)

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


本作は、誰にでも起こり得る身近な脅威「熱中症」と、そこから生じる「サバイバーズ・ギルト」をテーマに執筆しました。

安全圏から正論を言ってしまうユイと、罪悪感から壊れてしまったミオ。不器用な二人が日常を取り戻すまでの物語が、少しでも皆様の心に残ってくれれば嬉しいです。


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