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「エコだから」とエアコンを切った夏の日、親友の姉は死にかけた。――それ以来、親友の「心配」という名の狂気が止まらない。  作者: 品川太朗


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第4話 守るという名の暴走


ミオの内側で進行している腐敗に、佐伯家の両親も気づき始めていた。


けれど、大人の判断というのは、いつだって正常性バイアスというフィルター越しに行われる。

「あの子もショックだったのよ。時間が薬になるわ」――そんな砂糖菓子のように甘く、脆い言葉で片付けられ、ミオの心臓に根を張った「怪物」は、誰にも咎められることなく肥大化を続けていた。


カレンダーが九月にめくられても、世界の色は変わらなかった。

 新学期の教室にも、あの日のような湿った熱気が澱んでいる。


放課後の気配が満ちる教室で、私は帰りの支度をしながら、隣の席で石像のように固まっているミオに声をかけた。


「ミオ、今日はどうする? 駅前のカフェ、寄ってく?」


「……ごめん、無理。アヤネが動いてない」


ミオは、スマートフォンの画面という世界から一秒たりとも目を逸らさずに答えた。


不審に思い覗き込むと、液晶に表示されていたのは無機質な地図アプリだった。

 詳細な市街図の上で、『アヤネ』という名のアイコンが、大学のキャンパス付近で凍りついたように停止している。


「これ、GPS?」


「うん。お願いして入れてもらったの。これがあれば、どこにいるか分かるから」


ミオの指先が、何かに取り憑かれたような速度で画面をスワイプし、再読み込みを繰り返す。


「講義は終わってる時間だから、いつもならもう移動してるはずなのに。十分前からここから一ミリも動いてないの。電話しても出ない」


「大学生なんだから、友達と立ち話してるとか、自販機行ってるとか、そういうことでしょ」


「でも、もし熱中症だったら? 誰にも気づかれずに、校舎の裏で倒れてたら?」


ミオの呼吸音が、次第に雑音混じりの鋭いものに変わっていく。

 ヒュー、ヒュー、と喉の奥が狭まる音。過呼吸の前兆だ。


彼女の瞳孔は開ききり、そこにはもう、目の前の私など映っていない。

 あるのは、脳内で再生される最悪のシナリオだけだ。


「電話……また掛けなきゃ。確認しなきゃ」


「ミオ! やめなよ!」


私は反射的に、発信ボタンを押そうとしたミオの手首を掴んだ。


ビクリ、と細い体が大きく跳ねる。

 彼女は、まるで信じられない裏切り者を見るような目で、私を凝視した。


「……離して。お姉ちゃんが死んじゃう」


「死なないよ! ただ大学にいるだけじゃん!」


「わかんないでしょ!? あの時だって、家で寝てるだけだと思ったのに、死にかけてたんだよ!?」


ミオが叫んだ。

 悲鳴にも似たその声に、教室に残っていた数少ない生徒たちが、ぎょっとして振り返る。


けれどミオは、周囲の好奇の視線など、肌で感じる余裕すらないようだった。

 私の拘束を振りほどこうと、なりふり構わず暴れる。


「お願いだから邪魔しないで! 私が気づいてあげなきゃ、またあんなことになる!」


「ミオ、聞いて!」


私はミオの両肩を強く掴み、彼女の瞳を真正面から見据えた。


その瞳の奥では、理性と狂気がせめぎ合っていた。

 いや、恐怖という名の狂気が、理性を食い尽くそうとしていた。


「それは“心配”じゃない。もう“怖がりすぎ”だよ。GPSで監視して、電話しまくって……そんなのアヤネさんだって息が詰まるよ。今のミオは普通じゃない」


親友だからこそ、言わなければならなかった。

 傷つける覚悟で放った、鋭利な正論だった。


しかし、その言葉は私が意図した形ではなく、最悪の刃となってミオの心臓に突き刺さったようだった。


暴れていたミオの動きが止まる。

 そして、表情から、すうっと感情の色が抜け落ちていった。


「……普通じゃない?」


それは、ゾッとするほど冷たく、乾いた声だった。


「ユイには、わからないよ」


「え?」


「ユイは見てないもんね。白目をむいて、ピクリとも動かないお姉ちゃんを。氷みたいに冷たくなった手足を」


ミオの手が、私の手をゆっくりと、けれど拒絶の意思を込めて引き剥がす。


「“怖がりすぎ”なんて言えるのは、ユイがあの部屋にいなかったからだよ。安全な場所から指示してただけだもんね」


その言葉は、物理的な質量を持って私の胸を抉った。


息が止まる。反論の言葉が喉で凍りつく。


確かに私は現場にはいなかった。電話越しに指示を出しただけだ。

 血の通わない電波の上で、正論を並べ立てただけだ。


でも、だからこそ冷静になれるはずなのに。そう信じていたのに。


「ごめん、ユイ。もういい」


ミオは私に背を向け、震える指でスマホを耳に押し当てた。

 空虚なコール音が漏れ聞こえる中、彼女は教室を出て行く。


私の存在など、もう意識の端にもないように。


「もしもし、お姉ちゃん!? 今どこ!? なんで出ないの!?」


廊下に響き渡る、悲痛で、どこか狂気を孕んだ叫び声。


私はそれを聞きながら、金縛りにあったように一歩も動くことができなかった。

 助けようとして伸ばした手は、逆に彼女を暗い穴の底へと突き落としてしまったのかもしれない。


窓の外からは、鼓膜を圧迫するようなセミの鳴き声が降り注いでいた。

 季節外れの湿った風が、私の頬を撫でていく。


この長い夏は、まだ終わろうとしていなかった。

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