第3話 眠らない妹
事件から二週間が経過しても、八月はその熱気を手放そうとはしなかった。
肌にまとわりつく湿った暑さは、あの日の記憶を執拗に呼び覚ます。
けれど、佐伯家を襲った騒動自体は、表向きには「不幸な事故」として処理され、そして「幸運な結末」として完結していた。
少なくとも、私はそう信じ込んでいたのだ。
久しぶりにミオと二人で駅前のファミレスに入った時のことだ。
店内の空調は強く、グラスの表面には絶えず水滴が浮かんでいる。
私は溶けかけの氷が浮くアイスティーを口に運びながら、向かいに座る親友の顔を覗き込んだ。
「ミオ、なんか顔色悪くない? コンシーラー、浮いてるよ」
厚塗りのファンデーションの下から、透けるような青白さが主張していた。
特に目元の隈は、まるで殴られたかのように濃く、深く沈殿している。
「そうかな? ちょっと寝不足かも」
「まだ夜も暑いしね」
「ううん、違うの」
ミオはストローで氷をカランと鳴らし、独り言のように、あるいは呪文のように呟いた。
「夜中にね、目が覚めちゃうの。正確に、二時間おきに」
「え、なんで?」
「確認しなきゃいけないから」
確認。
その事務的な響きに、喉の奥がつかえるような違和感を覚える。
「お姉ちゃんの部屋、私の隣でしょ? だから夜中にそっとドアを開けて、胸が上下してるか確認するの。エアコンのランプが点いてるか、布団が口を塞いでないか、全部見ないと……安心して目を閉じられないの」
ミオの瞳は、恐ろしいほどに真剣だった。
焦点が定まりすぎていて、瞬きさえ忘れているようだ。
確かにあの事件はトラウマだろう。家族を失いかけた恐怖は計り知れない。
だが、二時間おき? それではミオ自身の神経が焼き切れてしまう。
「ミオ、気持ちはわかるけど、アヤネさんももう元気なんだし、そこまでしなくても……」
「もしまたタイマーが切れてたら? もし停電してたら? 誰が気づくの? 私しかいないでしょ」
食い気味に返された言葉の鋭さに、私は口をつぐんだ。
ミオの瞳の奥には、理屈や常識では消せない、焦げ付くような焦燥感が渦巻いていた。
その日の夜からだ。
ミオから届くLINEの質が、変質し始めたのは。
以前のような『この色のリップ、ブルベに合うかな?』だとか『課題が終わらない』といった、女子高生らしい他愛のない会話は消滅した。
通知が来るたび、画面に踊るのは『アヤネ』という固有名詞だけだ。
『お姉ちゃん、今日は七時に起床。顔色良好』
『夕飯、残してた。夏バテの可能性。室温、一度下げたほうがいいかも』
それはまるで、植物か何かを記録する観察日記だった。
私は『気にしすぎだよ』『大丈夫だって』と、当たり障りのないスタンプを送ることしかできない。
けれどミオの報告は止まらない。止まるどころか、加速していく。
そして、決定的な断絶を感じたのは、昨夜のことだった。
時計の針は二十二時を回り、部屋の灯りを落とした頃だった。
ブブッ。
枕元でスマホが震える。
『ねえ、今日アヤネ何分お風呂入ってると思う?』
唐突な問いかけ。
私は首を傾げながら指を動かす。
『わかんないけど、三十分くらい?』
『四十五分』
間髪入れず、即レスが返ってくる。
『長くない? 普通そんなに入らないよね?』
『女の子だし、半身浴とかしてるんじゃない? 私もそれくらい入るよ』
『でも、お風呂場って暑いじゃん』
文面から、ミオの荒い息遣いと早口な口調が聞こえてきそうだった。
文字の羅列が、彼女のパニックを伝染させてくる。
『のぼせて気を失ってたらどうするの? 湯船で溺れてたら? 私、ドア越しに耳すませてるんだけど、シャワーの音がしないの』
『ミオ、落ち着いて。考えすぎだよ』
『ドア、開けたほうがいいかな』
背筋を、氷のような指で撫で上げられた気がした。
入浴中の姉の安否確認のために、妹がドアを開けようとしている。
プライバシーやデリカシーといった概念は、今のミオの中から完全に欠落してしまっている。
『絶対にダメ! アヤネさんも嫌がるよ!』
私は慌てて送信ボタンを押した。
既読がついた。けれど、返信が来ない。
一分、二分。沈黙が永遠のように長く感じる。
嫌な汗が背中を伝う。
まさか、本当に開けたのでは――。
ブブッ。
通知音と共に、たった一行だけが表示された。
『出てきた。生きてた』
その短文を見た瞬間、私はスマホを放り出したくなった。
「生きてた」という表現。
ミオの中では、もはや姉は人間ではなく、「常に死にかけている管理対象」になってしまっている。
翌日、学校で顔を合わせたミオは、昨日よりもさらに頬がこけ、幽鬼のように痩せ細っていた。
それなのに、私に向けた笑顔だけは、妙に晴れやかで、透明だった。
「昨日はごめんね、ユイ。でも、やっぱり私が監視してないとダメみたい」
監視。
彼女は今、はっきりとそう言った。「看病」でも「見守り」でもなく、「監視」。
それはもう、「心配」という感情の範疇を遥かに超えていた。
口元は笑っている。けれど、ミオの瞳の黒目は暗く濁り、底のない沼のように光を吸い込んでいた。




