第1話 夏の終わらない一日
本作を開いていただき、ありがとうございます。
全5話、完結まで一挙公開しております。
日常に潜む猛暑の恐怖と、そこから狂っていく日常を描いた現代ドラマです。
少しでも涼(あるいは悪寒?)を感じていただければ幸いです。
それでは、本編をどうぞ。
今年の夏は、太陽が殺意を持っているかのように酷薄だった。
アスファルトから立ち昇る陽炎が視界を歪ませ、呼吸をするたびに煮えたぎる空気を飲み込んだような重苦しさが肺を満たす。
そんな灼熱の世界から逃げ込み、自室のドアを閉めた瞬間、人工的な冷気が汗ばんだ肌を優しく撫でた。
外界とは隔絶された、二十六度の聖域。
「あー、生き返る……」
私は重力に逆らうのをやめ、ベッドへ沈み込むように身を投げた。
三崎ユイ、十六歳。高校二年生の夏休みは、まだその熱狂の最中にある。
天井を見上げながら、スマートフォンの画面を指先で滑らせる。
午前中は親友のミオと駅前のショッピングモールを練り歩き、戦利品を抱えて帰宅したばかりだ。
SNSのタイムラインには、極彩色のフィルターで加工された「夏」が溢れている。
買ったばかりのワンピースをアップロードするか、それとも撮り溜めた動画を繋ぎ合わせるか。
そんな平和で贅沢な悩みこそが、私の世界のすべてだった。
ブーッ、ブーッ。
不意に、掌の中で長めの振動が走った。
液晶に浮かび上がったのは『佐伯ミオ』の文字。
改札で手を振って別れてから、まだ一時間も経っていない。
「もしもし? どうしたの、忘れ物?」
声は自然と弾んだ。
買い忘れたリップの色味についてか、あるいは帰りのバスで見かけた男子の話か。
私たちの会話はいつだって、シャボンのように軽やかで、かつ儚いもののはずだった。
しかし。
スピーカーの向こうから漏れ聞こえてきたのは、私の知っている親友の声ではなかった。
『……っ、はぁ、はぁ、っ……!』
荒く、切迫した呼吸音。
まるで何キロも全力で走り続けた獣が、喉を鳴らしているような音だ。
「ミオ? どうしたの?」
『ユイ……ユイ、どうしよう』
「なにが? 落ち着いて。なにかあった?」
私は反射的に半身を起こした。
背筋を冷たい指でなぞられたような悪寒が走る。
ミオは感受性が強く、少しのことで心が波立つ子だ。
けれど、受話器越しに伝わってくるその震えは、いつものパニックとは明らかに質が違っていた。
歯の根が合わないような、生理的な恐怖が言葉を細切れにしている。
『お姉ちゃんが……アヤネお姉ちゃんが、動かないの』
「え?」
『呼んでも、揺すっても、起きないの。体がすごく熱くて、焼けるみたいで、でも汗かいてなくて……目が、目が半開きのままで……っ!』
描写された光景が脳裏に結像した瞬間、心臓が早鐘を打ち、私はベッドから跳ね起きた。
アヤネさんはミオの姉で、大学生だ。
少しルーズだけれど、ミオに向ける眼差しはいつも柔らかく、優しい人だったはずだ。
その人が、「動かない」なんて。
「ミオ、今どこ!? 家?」
『うん、家……お父さんもお母さんも仕事でいなくて、私、帰ってきたら……リビングで、お姉ちゃんが……』
「エアコンは!? 部屋、涼しいの!?」
私の鋭い問いかけに、一瞬、通話の向こう側で時間が止まったような沈黙が落ちた。
やがて返ってきたのは、絶望そのもののような、掠れた嗚咽だった。
『ついてない……切れてる。タイマー、切れてる……!』
熱中症。
その単語が、警報音と共に脳内を支配する。
しかも、ただの目眩や頭痛ではない。意識障害を起こしているのなら、それは生命の危機を意味していた。
「ミオ、聞いて! 今すぐ救急車! 一一九番!」
『で、でも、どうしよう、私……』
「いいから掛けて! 住所言えるでしょ!? お姉ちゃんが死んじゃうよ!」
喉が裂けてもいいと思いながら、私は叫んでいた。
あえて残酷な言葉を選んだ。今のミオは、強い衝撃で思考のループを断ち切らなければ動けない。
『わ、わかった……掛ける、掛けるね……』
ミオの悲鳴のような応答。
ガタガタと何かが倒れる音、床を這うような衣擦れの音。
「掛けたらすぐに戻ってきて。救急車が来るまで、服を緩めて、脇とか首を冷やすの。保冷剤あるよね?」
『う、うん……』
「大丈夫、ミオならできる。落ち着いて、まずは電話して」
プツン。
通話が途切れた。
あまりにも唐突な断絶。
部屋には再び、エアコンの低い駆動音だけが取り残された。
私はスマホを強く握りしめたまま、部屋の中央で立ち尽くしていた。
指先が白くなるほど力を込めても、体の震えが止まらない。
ふと、窓の外に目をやった。
夕暮れの空は、毒を含んだように赤く、不気味なほどに美しかった。
燃え落ちる太陽が、世界を血の色に染め上げている。
私の指示は正しかったのだろうか。
もっと他に、言うべき言葉があったのではないか。
そもそも、あのアヤネさんが、本当に助かる保証なんてどこにもない。
何もできない無力感が、鉛のように重く、私の肩にのしかかってきた。
平和な悩みで満たされていた今日という一日が、こんなにも唐突に、断崖絶壁へと突き落とされる形で終わるなんて。
夜の帳が下りても、私の掌はスマホの熱を放すことができず、ただ長く、暗い時間を刻み続けることになるのだと、予感していた。
お読みいただきありがとうございます。
幸いにも一命を取り留めた親友の姉。しかし、事件はこれで終わりではありませんでした。
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