雷
ある日広い野原に来たとき、雲の方へ走って大声で言いました。
「どっか行けー!」
雲はただ、低い空に浮かんでゆっくりと渦を巻くばかり。
山を登る途中で二人は岩に腰かけて休憩しました。コウスケはなんとなく雲について尋ねます。
「あの雲は、どこまで逃げても追い付いてくるね」
「私たちの後をついて来るのは、ほんの小さな雨雲なんだよ」
だから、一町も歩けば撒いてしまえる。
そう、母は言いました。
「私は祖母から受け継いで、祖母は祖母の父、つまり私の曾祖父、あなたの高祖父から。その前は分からない。いつから雲に追われているのかは謎なんだよ」
母はこれまで運命を変えようと祈祷師にお祓いを頼んだりしましたが、それからも雲は相変わらず後をついてくるのでした。
「随分、好かれているんだねぇ」
開き直って冗談めかして笑いましたが、コウスケはうらめしい気持ちで口を尖らせます。
「あの雲のせいで、僕らは旅を続けないといけないんだ」
母は、ふふふと笑いました。
「私たちは、なるべく雨の少ない地へ向かって旅をしている。生きているものたちにとって、水はなくてはならないものだからね。雨が降らなければ作物も育たないし、人が暮らして行くことも出来なくなるんだよ。
雨が少ない土地では、雨乞いの為に生け贄を捧げたりするって話だ。そんな酷いことになる前に、私たちが雨雲を連れていけば、何人もの人の命を助けられる。だから、雨雲に好かれるのも、悪いことばかりじゃないさ」
さて、峠の茶屋でお汁粉でも食べようか。
彼女は姉さん被りの手拭いの上に笠を被り直し、白い手甲を着けた手で杖を持って支えにしながら立ち上がりました。
ある町で宿屋に泊まっているときのことです。窓から空を見て母は不安そうに言いました。
「大雨になりそうだね、嫌なときに重なってしまった。聞いてくれそうな人に鉄砲水や土砂崩れや川の増水について気を付けるように伝えてくるよ。そんなこと、分かっているかも知れないけれど、一応、気になるから。その後で私たちは出発しよう」
彼女は、追ってくる小雲だけでなく、どのようにしてか分かりませんが少し先の天気を予想することが出来ました。山や川沿いに住む人たちが、早めに対策出来るようにこうして知らせに行くこともよくありました。
「光助はここで待っているんだよ」
そう言い残して出ていった母は、空が暗くなる頃にようやく戻ってきました。
「ごめんね、遅くなったね」
「伝えられたの?」
「うーん、どうだかね。信じて貰えたかはともかく、伝えることは伝えたんだから、出来ることは、やったってことにしておこう。明日は朝早くに出かけるからね、もう寝てしまいな」
翌日はどんよりとした曇り空で、今にも大粒の雨がポツポツ降って来そうです。風も強く、雷様も遠くでゴロゴロ太鼓を鳴らしているのを聞いては、町の人たちも慌てて戸に板を打ち付けたり、川の土手を補強したりしていました。
「言っても言わなくても変わらなかったかもね」
と、母は陽気に笑います。
暫く歩いていると、雨がざあざあ降ってきました。簑を羽織っていましたが、足元はずぶ濡れです。
時折、目を焼くような閃光が空をジグザグに切り裂き、大太鼓の音が、ゴロゴロ……と空気と大地を震わせます。
風に転ばされそうになったコウスケを咄嗟に抱えた母は、これ以上進むのは無理と判断して雨宿りの出来る場所へ向かうことに決めました。
そうして歩いているときでした。
ピシャーン! バリバリ……!
近くの大木に雷が落ちたのです。
「きゃあ……!」
「わ……!」
「コウスケ、大丈夫? 怪我は?」
「僕は大丈夫だよ、ちょっとビリビリしたけれど。母さんは?」
「私も、大丈夫だよ。ああ、すごい雷だったねえ。ほら、木が真ん中から真っ二つだよ」
二人は、驚きが収まると足早にその場を離れました。
その場には、『折れた木』と、『大きな雷雲の下でふわふわ浮いている小さな雨雲』と、『コウスケとそっくりだけれど半透明の幽霊みたいなスイ』だけが取り残されました。
スイは、眠くて眠くて仕方ありませんでしたので、草むらに丸くなりました。雨は身体を素通りしていきます。
目が覚めたとき、スイは小雲を見て、「ああ、こちらに付いてきてしまったんだな」と理解しました。
「コウスケは、これから落ち着いて暮らせるだろう」
良かった、良かった。
そう、思おうとしましたが、どうしてか、涙が溢れて止まりませんでした。
「どうして、置いていってしまったんだよ……」
嵐は去って、ただ柔らかな小雨が頬を濡らすばかりです。
「一緒にいてくれるのは、お前だけだな。行くか、旅へ。雨の降らない地へ」
スイは雨雲と共に歩き出しました。




