人の子
スイは暫くの間コウスケという名の人の子に大切に飼われていました。彼は毎日桶の中を覗き込んでは、飽きることなく翡翠の魚に声を掛けます。
「スイ、元気かい? 僕は今日ね、友達が出来たんだよ。『雨女の子だからお前は雨降り小僧だ!』なんて指差して言ってくるやつを、黙らせてくれた良いやつなんだ。『人に天気を操れるわけないだろう』って言ってさ。……だけど、本当は、いじめっこの言っていることが本当だから、騙しているようで気が重いよ」
コウスケは、他の誰にも相談出来ない悩み事をこうしてこっそりとスイに打ち明けることもよくありました。
「今日は雨が降ったよ。あと、何日ここに居られるかな。遠縁のおばさんが、『最近降らなかったから有難い』って言っていたよ。でも本当は、『そろそろ厄介払い出来て有難い』って思っているんだろうなって、そんな風に疑う僕も、嫌なやつだ。世話になっているのに、こんな風に泊めてくれるのは有難いことだってわかっているのに、おばさんたちを悪いように思う僕は悪いやつなんだ」
スイは、ただじっと目を見返すだけでした。
「そろそろ、父さんと合流出来るかな。父さんは、晴れ男なんだよ。だから、一緒に居られるはずなんだけれど、仕事で船に乗らないといけないんだ。重要な仕事だから、僕たちは連れて行けないんだって。早く会いたいな」
雨が振り続いたある日、コウスケの母が言いました。
「光助、そろそろ出発しなければならないよ。雨が大分降ったからね。それとも、ここに残るかい? せっかく友達が出来たんだ」
「一緒に行くよ」
「そうかい。付き合わせてしまって、悪いねえ」
申し訳なさそうに言いましたが、母は少し微笑んでいました。本当は、一人になるのが寂しかったのでしょう。
コウスケは、桶を持ち川へいきました。水と魚を川へ戻し、
「さようなら、スイ。元気でね」
と別れを惜しむようにいつまでも川を見ています。
スイは、水面から顔を出しました。その瞬間、川蝉に捕らえられて空中に浮かび上がります。スイは、一滴の涙をこぼしました。その雫は呆気にとられて空を見上げていたコウスケの片目にポタリと落ちました。
スイは気がつけばあの人の子の一部になっていました。同じ物を食べ同じものを見て、同じように暮らすうちに、スイは人の子と自分との境が分からなくなってきました。その子が怖いと思えば怖くなり、楽しいと思えば楽しくなります。しかし、人の子の方でも変化があったようで、彼はあるとき母に言いました。
「お母さん、僕は時々空の上のことを夢に見るよ。雲の中で、氷の粒になって遊んでいるんだ」
母はふと空へ目を向けます。銀の粒の混じった黒の綺麗な瞳がよく見えましたが、すぐにまた目蓋と睫に隠されてしまいました。
「雲の中には、氷の粒の他に、何か居た?」
「いなかったよ。でも、山で霧に巻かれたときみたいだったから、もしかしたら見えないところにいたのかもしれないよ」
「そう……」
母は、それきり黙ってしまい、二人は毎度のように荷物を背負って黙々と道を歩きます。
振り返ると、遠い山の稜線の向こう側に灰色の雲が湧き、青空との境がくっきりと見えました。




