しのさんの説得
「可哀想に、こんなに泥だらけになって。まるで、どしゃ降りの雨に打たれたみたいよ」
「これは、遠くの山に……」
しのさんは、スイの汚れた頬を手拭いでそっと拭います。
「おかあちゃん、このお兄ちゃんはスイと言うんだよ。僕を、連れてきてくれたんだよ」
「まあ、そうなのね。本当にありがとう、スイくん。――あら」
綺麗になった顔を見て、彼女は目を見張りました。自分の子とそっくりで、まるで兄弟のようだったからです。しのさんが呆気にとられている隙にスイはその腕から抜け出しました。
「さようなら、お元気で」
しのさんははっとして手を伸ばします。その指先は僅かに届きませんが、スイは立ち止まりました。
「まって、スイくん。一人で帰れるの? お家はこの近く?」
「家は無いです。なにせ、半妖半仙ですから」
スイが正直に答えると、しのさんは訝しげに首を傾げました。
「半……なに?」
「半分あやかし者、半分仙人ということです。だから、家ははなくとも、大丈夫なんです。ご心配には及びません。ちなみに、これは僕の相棒の傘お化けの彩です」
和傘は勝手に開いて、くるりと回りました。鮮やかな花のような色合いです。しのさんは呆気にとられ、レンは目を輝かせて手を叩きました。お化けは怖くても、彩は怖くないようです。そんなレンをちらりと見て、しのさんは頭を撫でました。
「スイさん、それから、サイ……さん? よければ、家によっていきませんか? いくらあやかし者で仙人でも、それじゃあ寒いでしょう。レンを助けてくださったお礼に、お風呂と食事をご馳走しますよ。――あら、どうして怖がらないのかですって? うちの旦那は子供の頃は雨降り小僧だったそうでね、その頃はずっと雨雲がついてきていたみたいなの。今では普通の人だけれど。だから、不思議なことは案外身近にあるものだってわかっているし、あやかし者にも、やむを得ない事情があるんだって思うようになったの」
スイは、内心で『やっぱり』と思いました。この姿の元になった男の子が成長して、結婚して、子供もいて、今は旅から旅の生活から解放されて平和に暮らしているようだ。そんなところに、僕のような者が割って入って良いものだろうか。もし、あの子が僕を見て何か、悪い影響を与えてしまったら――そう思うと、足がすくむのでした。
「しのさん、僕はあなたの旦那さんがかつてそうだったように、今は雨雲を引き連れています。雨降り小僧なんです。そのうちに雨雲が追い付いてきたら、もし、またあの子――コウスケに雨雲が移ってしまったら大変なので、せっかくのお招きですが……」
「まさか、スイ、あなたは――」
「あと、あやかし者は怖い者も多いので、安易に家に招かない方が良いと思いますよ」
立ち去ろうとしましたが、今度こそ、がっしりと腕を掴まれました。
「せめて、旦那に、光助に会ってちょうだい。もうすぐ仕事から帰って来ますから。――ね?」
スイは眉尻を下げて期待に満ちたしのさんとレンの眼差しを受け止めきれずに、ふいと逸らしました。彩が耳元で「観念しろよ」と囁きました。「ちょっとくらい、大丈夫さ。雨雲は遥か彼方だ」
スイは、こくりと頷きました。




