山と烏天狗
後書きに挿し絵があります
「あの雨雲は、どうして減らないのだろう」
小さな小さな雨雲なのに、いくら雨を降らせても小さくなって消えたりはしないのです。スイは度々それが気になって、じっと雲を見上げますが、ただ綿の固まりみたいなものが何も言わずに低い空をももももも……と漂っているだけなのです。
「あやかし者のたぐいなんじゃないかな?」
彩が適当に答えます。
「あの雲の中に何かいるのかも。彩、ちょっと行って見てきてくれない?」
「だから、修行しろよ。お前、中途半端なまま、旅に出たろう」
「旅をするのは、性分なんだよ。それに、山奥だけじゃなくて、いろんな景色を見たくなったんだ」
「確かに、俺も山の中ばかりじゃ飽きてきていたところだったからな。旅に出たおかげで汽車にも乗れたし。次は、どこへ行く?」
「山」
「おい! いろんな景色を見に行くんじゃないのかよ」
「今は紅葉が綺麗だから、近くで見たくなって。山も見所沢山だよ」
「言ってることがころころ変わるな。まるで秋の空のようだ」
「『女心と秋の空』ってやつでしょう」
「少し前までは、『男心』だったんだぜ。俺が現役で傘してたとき、持ち主が歩きながら話していた。その後、軒下に置かれた傘は見知らぬ誰かに盗まれたんだけどな。俺の波瀾万丈な傘生は、そこから始まったんだ」
スイは『淡い』の扉を開けてあやかし通りを経由して気になる山へ向かいました。
「この山の崖の上に、小さなお寺があるらしい」
「これは、険しそうな道のりだぞ。ここから歩いていくのか?」
「修行にもなるだろう。一石三鳥だ」
「綺麗な景色を見て、気になるお寺を見に行って、修行にもなるって? そんな物見遊山な修行があるか」
「いいじゃないか。さあ、行こう」
歩き出して暫くのうちは、坂道も緩やかで人の手も入っていて歩きやすく、鮮やかな錦の木々に目を奪われながら心楽しい道のりでした。
しかし、坂道が急になり始め、あまり人の立ち入らない道に入ると、道が落ち葉で隠れていたり、崩れていたり、倒木や落石が行く手を塞いでいたり、木の根がぼこぼこと道の上に出て来たりして、道は殆ど消えかかり、幾度も見失って迷います。
幸い半仙半妖ですので、何日遭難したとしても霞だけで生きていけます。それにしても、人より丈夫とはいえ、疲れもしますし、眠くもなります。スイは、重い足を引きずって大きな岩の張り出している下まで行くと、積もっていた落ち葉の上に倒れこむように横になり、畳んだ傘を抱き締めながら泥のように眠りました。
次の日も、また次の日も、ひたすら登ります。もはや、紅葉を楽しむどころではありませんでした。岩や石が多くなり、手と足を使い崩れない場所を選んで一歩一歩慎重に登っていきます。
傘を杖代わりにして少しずつ順調に登っていたのですが、間の悪いことに、雨雲が追い付いて来て大粒の雨を降らせ始めました。
足元を小川のように流れ下る雨水。ちょっとでも足を滑らせれば谷底に真っ逆さまです。スイは傘も差さずにずぶ濡れのまま流れに逆らって進みました。
「スイ、もうこれぐらいで止めとこうぜ。危ないよ。淡いの扉を開きなよ」
彩が心配して声を掛けますが、スイは首を横に振ります。
「人間の修行者は、ここを登って頂上にお寺まで建てたんだ。僕だけずるをしたら、なんだか申し訳ないから」
「しょうがないな、最後まで付き合うよ」
こんな悪天候の中を、山をよく知る人は無理をして進んだりはしないことでしょう。しかし、あやかし者の二人はそんなことは気にしません。山へ挑もうとする気持ちに火がついたのです。
風が強くなって来ました。横殴りの雨が容赦なく吹き付けます。視界の悪くなる中、掴んだ岩がゴロリと動き、大地から外れました。スイは体勢を崩して滑り落ち、空中へふわりと身体が投げ出されました。彩が飛ぶために傘を開こうとしても、しっかりと握りしめられているせいで開くことが出来ません。あわや、谷底にまっ逆さまかと思われたその時、どさり、と優しい衝撃が全身を包みました。
咄嗟に瞑っていた目蓋を開くと、すぐ近くに大きな烏の黒い顔が見えました。切れ長の金色の眼差し、鋭い嘴。バサバサと黒い翼で空を掻いて、浮かんでいます。頭は烏ですが、身体は人間のようでした。白い山伏の衣装を纏い、その腕にスイはしっかりと受け止められていたのでした。
「随分、無茶をするあやかし者だ。気骨があるやつだと思ってずっと見ていたが、はらはらしてしょうがなかったぞ。このまま俺が上まで連れて行ってやっても良いが、それでは修行にならんのだろう?」
烏天狗は、先ほどと同じ場所にスイを下ろしました。
「どうも、有り難うございます。烏天狗さん。僕は、雨降り小僧のスイです」
「俺は、烏天狗の銀箭という者だ。もう助けないから、後は自力で頑張れよ、スイ」
バサバサと飛び立っていくその背に向かい、スイは声を張り上げました。
「はい、ぎんさん!」
「ぎんせんだ」
烏天狗はちょっと振り返り訂正しました。それから、空中で静止して、何かを思い付いたように嘴に手を当てました。
「そうだ、スイ、烏天狗にならないか?」
「えーと……」
スイは返答に困って口ごもりました。空を飛べるのはいいなと思いましたが、あんな風に烏の顔になるのはちょっと嫌かも知れません。
「お断りします!」
「はっはっは……! そんなにはっきり断られたのは、初めてだ。大抵は、断るのすら怖がられるからな。お前は世間知らずなのか、度胸があるのか。まあ、気が向いたら、いつでも来いよ。稽古をつけてやる」
ヒラリと翼を返して、空の彼方へ飛び去りました。
スイは、黙々と山を登ります。




