第一話 氷の子
雨師さまや妖怪についてはほとんど空想であり、実在の伝承とはかけ離れている場合があります。
昔々、雲の中に神殿がありました。
立派な建物から伸びる回廊の朱塗りの欄干に寄って、雨師さまは雲の海の景色を眺めておられました。
キラキラと自由に飛び回り遊ぶ氷の子供たちは、雨師様のお姿を見とめると嬉しそうに集まって来ました。
「雨師さま!」
「雨師さま、今日はどんなお話をしてくださるんですか?」
「ほほほ……みな、元気そうで何よりじゃ。」
長い銀色の髭を生やしたお爺さんが、目尻の皺を深めながらにこにこと笑いました。雲と同じ色の着物を着て、手には長い木の杖を持って時々身体の支えにしています。
雨師さまはふと、一粒元気のない子を見つけて声を掛けました。
「スイ、どうした? 悩みがあるのなら、言ってごらん」
スイは、おずおずと雨師さまの近くに行くと、キラリ、キラリと話しました。
「僕は、これまで沢山のきょうだい達が雲の外へ旅立つのを見送ってきました。地上はどんなところだろうとわくわくして、自分も旅に出る日を楽しみにしていたのです。けれども、いざ、その日が近づくにつれて、だんだんと怖くなってしまったのです」
雨師さまは、スイを掌に乗せて穏やかに諭しました。
「スイや。慣れ親しんだ場所から離れることはつらいじゃろう。見たことも無い地上に行くなら尚更じゃ。しかし、スイも以前は地上に居たのじゃよ。ただ、ここへ戻ってきて、氷の子となる過程で全て洗い流されて忘れてしまっただけなのじゃ。さあ、みんなに今から水の巡りの話をしよう」
――水は巡る。
天から山へ、山から川へ、川から海へ、海からまた天へ。
雲が湧き、雷を轟かせ、雨を降らせる。
氷の子が成長して雨や雪になり、地上のどこかに降ると、その場所に生きるものと交わりながらも流れ続けて、沢山の新しい経験を積みながら世界中を旅するのだ。
やがて海に出ると、太陽の光に熱せられて空に登りまた、ここへ戻って来る。
「またいつか、きっと会える。それまで暫しのお別れじゃ。地上の旅では色々な物事と出会うじゃろう。二度とは体験出来ない一度きりの出会いが沢山待っておる。辛いことももちろんあるじゃろう、しかし、幸せなこともきっとある。わしは、スイが戻ってきたときに話してくれるのを楽しみに待っているよ」
スイは、雨師さまとの別れが辛くてなりませんでしたが、成長して重くなった身体が雲から落ちるのは自然の摂理であり、逃れられない運命であることを覚りました。
そして、ある日ついに彼は旅立ちの時を迎えます。小さなきょうだいたちや雨師さまに見送られて、思いきって飛び降りました。
スイは、川辺に生える柳の木に落ちました。枝を伝って葉先まで来ると、朝露と交わって水晶のように輝きました。
さらさらと流れる水面の下から、一匹の鮒がじいっと見つめています。その時に魂が宿ったのかもしれません。スイは気がつけば鮒となって水中を自由に泳ぎ回っていました。