お話希望です③
通話が終わり、直後に訪れた不穏な静けさの中、彼氏さんは携帯電話を握ったままバックミラーを見たりサイドミラーを見たり、前後左右をきょろきょろ、きょろきょろ。
それから間もなく、さも当然のようにわたしと彼氏さんは目を合わせた。
目が、合った。
わたしは今、彼氏さんに見られてしまっているらしかった。
姿を見せようと思っていたわけではないけれど、見られないように、と特別意識をしていたわけでもなかった。
結果として、わたしは先ほど姿を現した時の感覚を引きずってしまっていたのだろう。
わたしの姿が、今、どのようにして彼氏さんの目に映っているのかは分からない。
ぼんやりとしているのか、はたまた透き通って見えるのか、それとも生きている人間のようにはっきりとした輪郭を持って見えているのだろうか。
ただ、見る間に泣きだしそうな顔になっていく彼の表情から推測するに、あまり友好的なものに見られていないことだけは確かだった。
どういうわけか、このタイミングで得心する。
彼も、わたしと同じなのだ、と。
わたしがうっかり姿を見られてしまったのと同じように、彼氏さんもきっと、うっかりこの通い慣れた道へ戻って来てしまったのだ。
わざわざ幽霊の出た場所に戻って来ようと思っていたわけではないけれど、かといって特別に避けようと気を張っていたわけでもなかったのだろう。
「どうかしたんですか」
彼氏さんの声が、紛れもなくわたしに向けられていた。
その声は恐怖の色を含んだものではなく、その他のどんな感情を含んでいるわけでもない、不自然なほどに平坦なものだった。
直前に目の前のパワーウィンドウがゆっくりと開かれていっていたのだということを意識したのは、声を耳にする前だったのか、後だったのかはっきりとはしない。
けれど、今、わたしと彼氏さんとの間にはガラス一枚の隔たりもない。
言葉が出なかった。
思い返してみれば幽霊のこの身になって以来、生きている人間に語りかけたことなど一度もなかったし、そうでなかったとしても、この状況において何を言えば良いのかが分からない。
だけど、それよりも、何よりも、わたしは緊張してしまっているようだった。
器官としての心臓は既に失われているけれど、どぎまぎとした懐かしい感覚が身体の内から震えながら湧き上がってきているのが分かる。
どうかしたんですか。
直前に耳にした言葉が、こだまのようにして頭の中に蘇ってきた。
紛れもなくその言葉は質問で、彼氏さんの視線がいまだにわたしから離れないのは、目の前で立ち尽くす得体の知れない女の返答を待っているからであるのに他ならない。
わたしは、うつむいた。
もとから、うつむき加減でいたような気がする。
だとすれば、そこから更にうつむいてしまったわたしは今、彼氏さんに頭頂部を見せつけようとしているかのような、それは不自然な格好になっているのだろう。
せっかく声をかけてもらっても何も言うことができない、居たたまれなさ。
目を合わせずにいれば、そんな辛さから逃れられるような気がしたのだ。
実際に、じっと闇色のアスファルトを眺めていると、気持ちが楽になっていく。
いつまでもこうしていられるような、いつまでもこうしていたいような、底知れない安心感がじわじわと足元から侵食してくる。
落ち着きを取り戻しだす頭の中に、除霊の現場が頭に浮かんだ。
あの時はあんなに、語りかけることを楽しみにしていたのに。
こんばんは、と口にすることを考えるだけで、わくわくしていたというのに。
わたしは声をかけたくてかけたくて、たまらなかったのに。
そうだ。このままじゃあ、だめだ。
顔を上げれば、まだそこに彼氏さんがいるはずだ。
わたしの返事を、待ってくれているはずだ。
だけど、この状況がいつまでも続いてくれるわけがない。
早く言葉を返さないと、彼をこの場所に留めているうっかりという魔法が解けてしまう。
声が出てこない。
彼氏さんの顔も、見ることができない。
だったら、
だったら、場所を変えれば良い。
声をかけたくてたまらなかった、あの場所に行けば良い。咄嗟に思いついた強引な発想。
まだ、彼氏さんはわたしの方を見てくれているだろうか。
きっと、見てくれている。
わたしは左腕を真横に伸ばし、この位置からは目視することができないはずの自動販売機を指差した。
あなたがハルヒコさんと、意地を張りながらも楽しげに話をしていた場所へ行きましょう。
あなたが彼女さんと、照れながらも嬉しそうに言葉を交わしていた場所で、わたしもお話しがしたいです。
地味で奇怪なボディーランゲージにどれほどの伝達能力があるのかは未知数だけれども、それが今のわたしにできる、最良のアピール方法だった。