二人の死霊④
ハルヒコさんは、いまだに淡々とした調子でお経を読んでいる。
目を閉じて、合掌をして、この日のために覚えてきたのだろうか、暗唱しているようだった。生前に、何度か耳にしたことがある。
般若心経といったっけ。
彼が読経を終えるまでにはあとどの程度の時間がかかるのかは分からないけれど、これを読み終わった後に、二人がまだこの場所で何かをする確証はない。
だとすれば、わたしの存在を知ってもらうのならば、今しかチャンスはないということだ。
善は急げ。
時間がない。
だけどこの場所で、二人のすぐ近くで突然姿を現したのでは、あの子がやったのと変わらない。
ただ驚かせてしまうだけだ。
だったら、どこか遠くからーー道の向こうから歩いて来るかたちにしよう。
急がば回れだ。
わたしは静まり返ったアスファルトを音もなく、何度も振り向きながら走り、二人の姿が見えるか見えないかというところまで距離をとった。
自動販売機の明かりの中で、人差し指ほどの大きさになって薄ぼんやりと立ち尽くしている二人。
ここから近づいて行けば、もしかすると彼らは、わたしが幽霊だなんて気づかないかも知れない。
楽しげな予感に、内心でにやりとはにかんだ。
後は、霊感のない彼らの目にも、わたしの姿が見えるようにするだけだ。
実践をするのは初めてだけれど、方法は悪霊の女の子に聞いたことがある。
彼女は、波長を合わせるんだよ、と楽しそうに言っていた。
何度か力んでみると、自分の身体が普段とは違うものになっていくのを感じた。
やった、成功。
わたしはわざとらしくならないようにゆっくりと、ただの通行人ですよ、という風を装って、二人のいる場所へと歩きだす。
二人のそばまで戻ったら、何と言おう。
まずはこんばんは、だろうか。
そうだ、笑顔でこんばんは、だ。
その次には、何をやっているんですか、と聞いてみよう。
初対面の人に幽霊退治だなんて言うわけにもいかず、しどろもどろになる二人の姿が目に浮かぶ。
さあ、そうなったら、次は何と声をかけよう。
あれやこれやと考えていると、まだ距離のあるうちから視線を感じた。
彼氏さんだ。
よかった、ちゃんと見えている。
彼はハルヒコさんと違って目を閉じてはいなかったので、すぐにわたしのことを見つけられたのだろう。
見られている。
胸の奥が震えるほどの感動。
彼を目の前にするたびに、見られていやしないかと思い不安すら抱いたあの目。
とても気が弱そうだけれど、そのぶん優しそうな、あの目。
長らく向けられることのなかった生きている人間の視線は、意識しても意識しても、それでもまだ意識し足りないほどの力を持っていた。
ただの通行人という体で、という考えは既に意味をなくしている。
彼氏さんとは自然と目が合ってしまい、わたしの目はそれに釘づけになっていた。
この視線を引き剥がさなくては不自然だと、強く強く思う。
それでもこの視線を引き剥がすことなんて、できるわけがなかった。
それまでじっとして動かずにいたハルヒコさんが、ちらちらと動きだす。
どうやら読経が終わったらしい。
彼氏さんは何事かを話しかけられているようだったけれど、その視線はわたしの方を向いたまま。
なぜだろうか、彼もわたしの姿に釘づけだ。
話しかけているうちに、友達の様子がおかしいことに気づいたのだろう。
ハルヒコさんも彼氏さんの視線を追って、とうとうわたしのことを発見した。
そこで、気づいた。
どうして最初から気づくことができなかったのだろうか。
彼らの目はおばけでも見るような目、そのものだった。
おばけが出てきたのだから、そんな目をするのは当然だった。
幽霊だなんて気づかないかも知れない。
よくもまあそんなにおめでたい想像ができたものだ。
あの目、怖がる目。
受け入れてくれるわけがない。
幽霊退治の途中で幽霊が現れて、いったい誰が親しげに声をかけるだろう。
幽霊退治をしていた二人は跳ぶようにして車に乗り込むと、わたしの傍らを通り、あっという間に走り去って行ってしまった。
わたしは友好的な幽霊ですよ。
そう言いたかっただけなのに、なんて無様な結果だろう。
どこからか、きゃっきゃという笑い声が響いてくる。
足元へ目をやると、それまでどこに隠れていたのだろうか、悪霊の少女が嬉しそうにこちらを見上げていた。
「おねえちゃん」
いかにも子供らしい、爛々とした笑顔。
「やったね」
心からの楽しそうな言葉。
わたしは、何も言わずに背を向けた。
彼女の嬉しそうな顔を見続けていると、自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだったから。
彼女のことを憎らしく思わずにはいられない自分自身が、どうしようもなく醜く思えてしまうから。
背後に彼女の気配がなくなっても、わたしは振り向くことができなかった。