1・日常の終わりと逃走劇のはじまり
走らせていたバイクを止める。
後ろにあった重みと消え、温もりがゆっくりと冷めていく。
完全に同乗者がバイクから降りたの確認し、自らも続いてバイクを降りる。
「送ってくれてありがと」
そう、バイクから降りた同乗者の女の子が微笑みながらお礼を言う。
俺、《橘 蒼司》と最近付き合い始めたばかりの恋人である《相川 翠歌》だ。
ちなみに翠歌はスイカと読む。
珍しい名前だ。
キラキラネームという程ではないが、小さい頃に軽いイジメにあってないか心配になる名前でもある。
「いや、大丈夫だ」
お礼の言葉に対する答えとしてはやや不適切かもしれない言葉を返す。
初デートで迎えに行き、帰りは送らないなんて事はしない。
自分の事を出来た人間だとは思っていないが、そこまで酷い人間ではないとも思うのだが、翠歌にはそうだと思われているのだろうか?
いや、幾らなんでも穿った物の見方だな……。
「じゃ、また」
何時までもここにいても仕方がないので別れの挨拶を告げる。
ここは彼女の家の前ではなくその手前、住宅街にある階段の前だ。
海沿いの街である、ここ鷹宮町では、傾斜を住宅街にした区画があり、翠歌の自宅もその区画にある。
その区画は細道や、階段が蜘蛛の巣状態で張り巡らせられている。
なので、当然であるかのようにバイクや車はその区画に入っていけない。
必然、俺のバイクでの送り迎えもその区画の手前であるこの階段前という事になる。
「うん。また明日学校で」
翠歌はそう言いながら手を振っていたが、何を思ったのか、俺の手を握ってくる。
……いや、帰れないんだけど。
「どうかしたか?」
「えっ?んーと、なんでもないよ」
「そうか?」
会話が途切れ、それから少し間が開いてからゆったりとした動作で握られていた手が解放される。
なんとも言えない空気が漂う。
何か言葉や行動の選択肢をミスっただろうか?
どうにも"普通"って言うのは難しいものだ。
「じゃあ」
「うん」
何やら話しかけ辛く、放って帰り難い空気の中、少し時間を置いてこちらから帰る意図の言葉を繰り出す。
翠歌がしていたヘルメットをバイクの後ろに付けられた収納ボックスに仕舞い込み、バイクに跨り、走らせる。
スピードが乗り切る前に後ろの様子を軽く伺うと帰る様子もなく、こちらを見送っていた。
その視線を振り切る様にバイクがスピードに乗って、その様を過ぎ去った景色にしていく。
俺も前を見つめてバイクを走らせる。
「さて、どうするか」
今から帰って食事の準備をするのも少し面倒だし、このまま簡単に外食で済ませるか?
あぁ、でも、今日は芹佳さんが帰ってくる日だったな。
ならば、帰って食事の準備をしておこう。
《橘 芹佳》さん。警察の捜査一課に勤め、俺の叔母に当たる人だ。
"事故"で両親を亡くしている俺を引き取って育ててくれた人だ。
俺の父親同様に正義感が強く、その上で誰かの失敗や間違いも許容してくれる優しい人物だが、普段の口調と男性社会とも言える捜査一課が職場と言う事もあるのか、男勝りというか、男装の麗人のようというか、言葉で説明し難い人だ。
言動と行動の所為で近所の子供には大層怖がられているが、子供好きな本人はショックでよく凹んでいる。
家に帰る事は決定したが、どちらのルートで帰るか……。
時計に目を向ける。
アナログとデジタルの両方を表示する時計で、それぞれを別の時間表示にも出来る時計だ。
海外の時差にも対応出来るという事なのだが、今の所は俺には必要なく、アナログとデジタルの両方で同じ時刻表示をしている。
その時刻は18時32分。
その時刻を見て、帰るルートを決めた。
「山道の方だな」
白鷺市にある海に面し、山々に囲まれた二つの街、一つが俺の通う学校もあり、翠歌の家もある鷹宮町。
もう一つが俺の家があり、鷹宮町に比べると都市開発が進み気味な白宮町。
だから、家に帰る為には隣町に行かなくてはいけないのだが、この二つの街を繋ぐルートは大きく三つで、その内一つが歩行者用のルートだ。
残りの内一つがメインの橋で、二つの街を大きく隔てる川を繋ぐ大きな橋だ。
しかし、この時間帯は互いの街に帰る者で溢れ、所謂帰宅ラッシュという状態になる。
そして、最後が山道のルートだ。
曲がりくねった道で、道路の制作時の都合でかなり遠回りになる。
それでも、大橋で詰まるよりはバイクを走らせている方が精神的に苦痛ではないので山道で帰宅することにした。
あの橋が落ちてなければなぁと思う。
先月、大橋以外に在った唯一の車道を含む橋があったのだが、それが経年劣化で落ちてしまったのだ。
市はそれの修復作業も進めるとしつつも、この二つの街をそれ以外との繋がり易くしようと考え、新しく山道のルートから別の隣街に降りていく陸橋の制作話が持ち上がり、その着工に取り掛かっていた。
その着工までの速さから、橋が落ちなくても既に準備は出来ていたのだろう。
山道をバイクで走らせながら、件の工事中の陸橋へと曲がる新道を見遣る。
確かにここから隣街に行けるようになれば便利にはなるだろうな。
ふと、視線を前方に戻すと、車が一台走っている。
そこに頭上から黒い影が降り立つ。
巨大な黒い影は翼の様なもの畳む様にして走行中の車に居座った。
それが何なのかイマイチ理解出来ないままに危険を感じ、バイクを急停車させる。
その直後だ。
黒い影が異様に長い何かを振り上げ、そして、振り下ろした。
雲間から覗く月光に照らされたそれは二メートル以上はある腕と、その先端に付いている鈍く煌めく刃物、いや、爪だ。
この段になり、自分が感じている以上に自分の身が危うい事に気が付き、慌ててバイクを寝かせる様に倒しながらアクセルを開けて、後ろタイヤを空回りさせるかの様にして、アクセルターンを決める。
方向転換に成功したその後ろでは振り下ろされた腕に装甲を容易く切り裂かれ、コントロールを失った車がガードレールを突き破って崖に落ちていき、ほんの少しの間の後に爆発する。
背後から爆炎の明かりに照らされてさらに巨大になった影が路面に映し出された。
その影は炎の明かりで揺らめきながらも翼を羽ばたかせる。
速度に乗り始めたバイクがその幻想的とも言えそうな光景を後ろの出来事にしていく。
「なんだ?あれは何だった?!」
混乱した頭でそう呟く。
まるで現実味を感じない光景のクセに、在った出来事は本物だと証明する様にドッと汗が噴き出る。
あれは本当にあった事なのか?という疑問と、見間違いであって欲しいという願いから、バイクを走らせながら振り向く。
そこで見えたものは疑問の答えでも、願いを叶えてくれる光景でも無かった。
見えたものは遠くで上がる黒煙と間近に迫りつつある黒い影の化け物だ。
「ッ!?クッソがっ!」
意味不明ながらも、後ろの影に追い着かれればタダでは済むまい。
悪態を吐きながら、バイクを加速させる。
先程よりも近い距離で化け物を見たお陰で、全体のデティールが判明した。
足を折り曲げた状態で飛行し、その状態でも三メートル以上はある巨躯で、足を折り曲げたまま立てば地面に届くほど長い腕、黒色の岩肌で全身を覆っている。
出来は良く、趣味は悪い置物の様だ。
まぁ、デティールが判明した所で、この状態が変わる訳でもあるまい。
「どうする!どうする!?」
考える。思考する。
バイクで走れば追いつかれる可能性は低いと思うが、それは平地でどこまでも真っ直ぐであればだろう。
ここは山道で、S字カーブやUターンカーブも多数存在する。
向こうは飛行生物である事を考えると、逃げ切れるかは怪しい。
さらに逃げれた所でどこに行けばいいのだろうか?
翠歌の家?却下だ。何も解決しない上に被害だけが増える可能性が高い。さらにバイクで通れない道も道中に存在する。
真っ先に思い付くのは警察だが、運の悪い事に警察署が存在するのは白宮町で、鷹宮町にはいくつかの交番があるだけだ。
しかし、交番に逃げ込んだ所で警官の一人や二人でどうにかなる相手だろうか?
いや、そこは俺が気にする事でも無いのか?
しかし、無事に逃げ切れたとして、交番で俺を助けた代わりに警官が死ぬのは目覚めが悪すぎるし、何よりも逃げ切れるか?
微かな違和感を感じ、走らせる車線をずらす様に軸移動する。
「っ!?」
その直後に先程までバイクが走っていた位置に爪が掠れていく。
無理だ。
とても鷹宮町の中で山道に一番近い交番までだって持ちそうにない。
その時、視線の先に工事中の看板があった。
こいつは生物だ。つまりは何かで相手を知覚している訳だ。
そして、目がある生物の多くが何かを知覚する手段の割合を視覚に割いている。
「こいつは賭けだぞ」
覚悟を決め、工事中の陸橋のある方向へと曲がる。
機材や通行止め用の三角コーン、それに掛かる棒をあるルートを避けていく。
その内に陸橋の骨組みしか完成しておらず、道路がない辺りまで来ると、急ブレーキを掛けつつもターンさせ、バイクのライトで追って来ていた化け物を照らす。
同時にバイクを放り出す様に飛び降り、周囲に在った鉄パイプを紐で縛って山状に重ねている所に走り込み、周囲に在った機材を蹴り飛ばし、道路が無く、十メートル程下にある森に落とす。
「っ―――」
そして、息を殺す。
子供騙しの様な手だ。
相手が人間であれば、間違いなく周囲を探し、俺を見つけるだろう。
けれど、相手は化け物だ。
目くらましで一度俺を見失ったくれれば、諦めるかもしれない。
諦めなかったとしても、空を飛んで逃げたと思うかもしれない。自分が飛べるのだから、相手も飛べると想定してるかもしれないし、そもそも、この黒い化け物にどの程度の知能があるかも分からないのだから……。
「ギ?グギャ!」
近くにあった別の機材が吹き飛ぶ。
化け物が俺をあぶりだす為か、辺りを腕で漁るように攻撃する。
「ふっ、ふー」
恐怖からか、緊張からか、漏れ始める息を静めながら願う。
こっちじゃない!下に行った!落ちたんだ!向こうを探してくれ!
「ギャ―――!!!」
「―――」
ビリビリと空間が震える程に化け物が叫び、それに対して、なんとか声を出したり逃げ出さずに黙って隠れきる。
どういった意図のものかは分からないが、ここにはいないと判断したのか、化け物は陸橋の下を覗き込む様にして飛び立った。
「今の内に!」
化け物が下に行ってすぐに立ち上がってバイクに向かう。
今の内に逃げなければ!
「え?」
「ギャ?」
え?
確実に化け物は下に飛び立った筈だったのにバイクを起こそうと駆け寄って起こした視線の先には黒い化け物がいた。
一間、二間―――。
お互いが急な状況に驚いたかの様に止まり、困惑する。
そして、背後の離れた所からの奇声で我を取り戻す。
相手は一匹ではなかった。それだけの話だ。
自身を無理矢理そう納得させると、未だに固まっている目の前の化け物から逃げる為にバイクを起こす。
その様子を見て、化け物が我に返る。
化け物が腕を振り上げ、俺は咄嗟にバイクを盾にする様にしゃがみ込む。
化け物の攻撃がバイクの装甲の一部を切り裂きながら、俺にも当たり、腕の一部がぱっくりと裂ける。
そして、追撃に恐怖から目を瞑る。
「―――?」
来るはずの衝撃はなく、目を開ける。
「意味わかんねぇ」
視界に広がるのは木漏れ日が揺れる穏やかな森と、遠くから様子を伺う小さな女の子だった。
急な状況に驚き、疲れ、傷ついた体は思考を放棄する様に倒れ込んだ。
主に半月に一回の更新と言いましたが、前に出してた辺りまではなるべく早く出して追い着きたいと思います。
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