ダーク
どれくらい走ったのだろう。小さな公園を見つけた僕は、白い息を吐きながらベンチに倒れ込んだ。自分の貧弱さに苦笑する。
周囲は薄暗かった。弱々しく光る街灯は、僕の左側を照らしている。
一度息を吐き、右手をポケットに隠した。
そして、あの日のことを思い出す。
「この問題わかんないんだけど。教えてよ」
放課後の図書室。宿題が終わったので友達の加藤と帰り支度をしていると、背後から申しわけなさそうな声がした。クラスメイトのあゆみだった。
「色々調べたんだけど、どうしても解けなくて」あゆみは頬を赤く染めながら隣に座ると、僕の顔を覗き込んだ。「数学得意だよね? お願い」ふんわりと甘い香りがする。
僕は戸惑い、加藤に目で助けを請う。
そこで友人は、「悪いな、俺たちこれからバイトなんだよ」顔の前で手を合わせ、逃げ道を作ってくれた。「ごめんな」
「バイト?」あゆみは小声で訊ねた。
加藤は両方の拳を前に出し、「これこれ」動かす。原チャリのつもりだ。
それであゆみは察したのか、嬉しそうに微笑み、「買ったら、乗せて乗せて」またしても僕の顔を覗き込んできた。薄桃色の唇が扇情的で、ドキリとする。
「俺じゃないのかよ」加藤が残念そうに呟いたところで、この話は終わった。「おい、そろそろ時間だ」
僕は恥ずかしさのあまり無言で立ち去ってしまった。
その帰り道、「お前に気があるんだよ」加藤は羨ましそうに肩を叩いてきた。「モテるなあ」
翌日、僕は加藤が言うならいいか、と緊張しながらも彼女と一緒に問題を解くことにした。登校したばかりの朝のことである。
しかし――
あゆみは問題を解き終わると、広げていたノートを即座に片付けてしまった。さらに携帯を開き、乱暴に椅子から立ち上がる。
それを見た僕は勇気を出し、「来週には乗せてあげられるかな」と誘ってみた。このままでは、彼女とは二度と会話ができないような気がしたからだ。
だが、あゆみの返答は素っ気ないものだった。
「ん? ごめん急いでる」
僕はなぜか急に恥ずかしくなる。「顔、赤いよ」と彼女に指摘されるほどだった。ストラップをチャラっと鳴らしたあゆみは、何でもないように教室を出ていく。近くにいた女子生徒の哀れみを含んだ視線だけが、残った。
せめて一言欲しい。ただそれだけの気持ちで、僕はテスト返却日に声をかけようとした。が、あゆみと楽しそうに笑っている加藤の姿に目がいった。
「いつ乗せてくれるの?」
「来週かな」
「楽しみー」
一週間後。僕はデイバックを背負い、加藤家の前にきていた。目的のものはすぐに見つかった。昨日購入したばかりの原付バイクだ。
デイバックからナイフを取り出し、僕は迷うことなく前輪に突き刺した。
――モテるなあ。
あれは馬鹿にしていたのだ。
――ごめん急いでる。
内心、鼻で笑っていたのだろう。解法がわかれば、彼女はそれでよかったのだ。その後の態度がすべてを語っている。
力を入れ、もう一度ナイフを突き立てた。
「彼氏できたらしいよ」
断られたあと、慰めるように女子生徒が教えてくれた。
僕は頭の中に反響する馬鹿にした声を、鼻にかけた笑い声を、甘ったるい媚びる声を、何もかもを消すため、その場から走り出した。
冷たい風が顔を掠めた。ふっと、白い息を出し、消えるまで目で追う。
辺りはさらに暗くなる。これは自分が作り出した闇だろうか。そんなことを思った。