二人ならきっとやっていける
そういうわけで、わたしはある拘置所内の死刑囚棟にいる。
まったくやることがなくて退屈していたら、妻が面会に来た。
「……ぜんぜん平気そうね」
面会室のガラス越しに、妻が発した第一声はそれだった。
「……まあ、元気だよ。そっちはどうだい?」
わたしは妻に微笑んだ。
妻はやつれ果てていた……
最後に会った一年前と比べると、十も余計に歳をとってしまったように見える。
しかし相変わらず妻は美しかった。
いや、やつれてさらに美しさに磨きがかかったというか……
よくもまあ、こんな美しい女がわたしなんかと結婚してくれたもんだ。
死刑囚の分際で、のろけている場合ではないとは思うのだが。
妻は青ざめた顔で……大きく目を見開いてわたしを見た。
何か得体の知れないものでも見るような目で。
「……“そっちはどう”? いま、“そっちはどう?”って、言ったの?」
「ん? どうかしたの?」
「…………あの子が死んだわ」
「…………」
しばらく黙って、妻の顔を見ていた。
そのことは弁護士から聞いていたが……
今、わたしはこの立場だし、葬式に顔を出すわけにもいかない。
わたしにできることは何もないと考え、そのまま 放置していたのだ。
「……死因は何だと思う? 衰弱死よ」
「……そうか……」
「“そうか?”……それしか言うことがないの? あの子が死んだのよ?」
妻が声を荒げる。
「いま、聞いたよ」
「ねえ? わたしたちの、息子が死んだのよ?……噛み跡だらけになって…… ボロボロになって……死んでから、お医者さまがあの子の身体を調べたわ……107箇所! あの子の身体に、107もの歯型があったのよ?」
「ひどいな……」
わたしはふう、とため息をついた。そして鎮痛な顔を作った。
「……左の耳 たぶと右の乳首、右足の小指は、ほとんど千切れかかってた……で、医者は何て言ったと思う? 何でこんなことになったの、ってわたしが聞いたら……
『わかりません。わたしたちの理解が及ばない領域の出来事です』
って、そう言ったのよ? 人が一人、ズタズタになって死んだのに、そんなふうに言っ た のよ?」
「……かわいそうに……」
できるだけ、声を沈ませて言った。
「“かわいそう?”」妻が身を乗り出して、わたしたちを仕切るガラス に顔をくっつけて叫んだ。「“かわいそう”じゃないでしょう?……あなたに は、そんな感情なんかないんでしょう? だから、十一人も人を殺して、平気な顔してわたしたちと暮らしてたんでしょう? ……いや、三〇人だったっけ? そ れとも五〇人? ……“かわいそう に?”……よくもまあ、口先だけでそんなことが言えるわね? あなた、ぜんぜんそう思ってないわよね? 自分の息子にも、本気でそう 思ってないわよね? ほら、顔を挙げなさいよ! もう一度言ってごらんなさいよ! ほら、わたしの顔を見て、目を見て“かわいそうに”って 言ってごらんなさいよ!」
いちいち言葉尻をとらえてくどくど言うのが、妻の悪いところだ。
でもわたしは、妻を愛していた。
「……いや、かわいそうだと思うよ」わたしは妻の目を見て言った。「辛かったろうなあ……痛かったろう。胸が張り裂けそうだよ」
「ぜんぜん、ぜんっっぜん! 心がこもっていない!」妻がガラスを叩きながら叫ぶ。「一滴も、一ミリも心がこもってない! 死んだのよ?……わたしたちの、 たった一人の息子が死んだのよ?」
「……いい子だった。なんであんな目に……」
「わかってるでしょ?」妻がわたしの言葉を遮った。「わかってるんでしょ? あなた、なんであの子があんな目に遭ったのか、わかってるんで しょ?……いや、わたしにはわかってるわ……お医者さまも『わからない』って言ってたけど、目でわたしに言ってたもの……『これは、呪いで しょ?』って……お医者さまが目でそう言ってたのよ……『でも奥さん、あなたの旦那さんがやったことを思えば、こういうことが起こるのも仕方がないんじゃないですか?』って……口には出さないけどそう言ってたわよ!」
「…………」
答えなかったが、もしほんとうにそう思っているなら、その医者は鋭い。
医者としてはどうかと思うが。
「……わたしもそのとおりだと思う……あの子は、あなたが殺した人たちに呪い殺されたのよ! でも、なんで? なんで、あなたじゃなくて、なんの罪もないあの子が? なんであなたが歯型だらけになって悶え死ななかったの? ……なんであなたじゃなかったの? ……あの子はまだ14歳だったのよ?」
妻に、『息子じゃなくてあなたが死ねば良かったのに』と言われたことは、正直言ってショックだった。
わたしは少し傷ついた……
が、まあ今、妻は自分の……いや、わたしたちの一人息子を失って、ちょっと自分を見失っているだけなんだ、と思い直すことにした。
妻はそれ以降も泣き叫び続け、わたしたちを仕切っているガラスを叩き続けたので、係官に引き離された。
わたしはどうすることもできずに、ガラスの向こうの妻を見ていた。
取り乱しても妻は美しかったが、自分の伴侶がここまで恥も外聞も投げ捨てて、幼児のように振舞っているのを眺めるのは、正直言ってつらい。
「そんなに泣かないでくれよ」わたしは、ゆっくり静かに、ひとつひとつの言葉を贈り物のように妻に届けた。「あの子は、死んだんだ。もう、どうしようもない」
「はああ?」係官に両肩を抑えられながら、妻が叫んだ。「何言ってんの?」
「ここから出たら、さっそく新しい子供を作ろう」
「ええ?」
妻が目を見開いた。眼窩から目玉がこぼれ落ちそうだった。
「二人ならなんとかやっていけるさ……ここから出たら、また一からやりなおそうよ。新しく子供を作ってさ。今度は女の子がいいな……死んだあの子のぶんまで……いや、あの子以上にその子を愛して、甘やかして、三人で幸せに暮らそう……な、そうしようよ」
「あ……あなた……」妻の声はもう枯れ果てている。「しょ、正気なの?」
「もちろん」
「あなた……あなた本気で……ここから出られると思ってるの?」
「ああ」
「……な、なんで…」口紅をしていない妻の唇は、紫色に染まっていった。これまで絞め殺してきた連中と同じように。「なんで……そんなふうに思えるの?」
「だって……おれ、無罪だもん」
ガラスで仕切られた二つの部屋が、しんと静まり返った。
「………それ、本気で言ってるの?」
「そうだよ。当たり前だろ……? こんなとこじゃあ、冗談も言えないよ。だいたい俺が人殺しなんか、するわけないじゃないか。これは冤罪だよ。完全な誤解だ……だって“おれが殺した”と言われている人間の死体なんか、ひとつも見つかってないんだぜ?」
「……あなたの車に……たくさんの見ず知らずの人間が乗っていたことが、証明されたのよ?」妻の声はすっかり落ち着きを取り戻したようだ。少し冷 たく聞こえるくらいだ。「いや、あなたの車じゃない……わたしたちの車から……ねえ、あなた、覚えてるわよね?……あの車で、あの子と わたしと一緒に、何度も旅行やピクニックや、スキーに出掛けたのを……その車から、たくさんの人間が乗っていた痕跡が出てきたのよ?……そのうちのいくつかは、行方不明になって る子供たちのものだって、科学的に証明されたのよ?」
「おれは科学よりも……愛を信じるよ」
「はああああ!?」
妻が鴉のような声で叫ぶ。
「いや、今のは忘れてくれ。その子たちがおれの車に乗っていたからって、おれがその子たちを殺した、ってことにはならないだろ? おれは殺してないよ。なあ、これは冤罪なんだよ。まあ、弁護士も頑張ってくれてるみたいだし……いずれ、おれの容疑も晴れるよ」
静かだった……恐ろしく静かだった。
妻も……ガラスの向こう側にいる係官も、わたしの背後にいる係官も、全員が消えてしまったかのように静かだった。
ここまでの静寂が一致すると、思わず笑い出したくなってしまう。
「……あなた……」
「信じてくれよ。夫婦だろ?」
わたしは笑ってみせた。とびっきりの笑顔で。
「…………ねえ」飛び出しそうになっていた妻の目が、みるみる引っ込んでいった。彼女の目の中に点っていた灯りのようなものが、消える。「ねえ……もしあ なたが 言うとおり、あなたが無罪で、あなたの容疑がぜんぶ晴らされたとして……あなたが釈放されたとして……あなたがここから出られたとして……あなたが、 わたしのもとに帰って来れたとして……あなた、わたしとまた、これまでどおりに暮らせると思ってるの? わたしたちが、もとどおりになれると 思ってるの? ………あの子は、もういないのよ?……あの子は、死んだのよ?……あの子が死んだことと、あなたがここに居る理由は関係ないとして も……あの子はもう、いないのよ?……それでも、わたしたち二人がもとどおりになれると、本気で思ってるの……?」
「あの子が、いないだけだろ?」わたしは言った。「大丈夫。時間はかかっても、二人ならきっとやっていける……愛してるよ」