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前編

時系列、視点がコロコロ変わって読みにくいと思いますが、楽しんでいただけたら幸いです。少し残酷な描写、ぬるいですが性的なものを匂わすものがあります注意。



 喉の痛みにうっすらと瞼を開け、あぁ眠っていたのかと自覚した。


澄み渡る青空とは無縁の、細長く区切られた鉛色の空。どんよりと重たそうな雲からは今にも雨が降ってきそうだ。

自分がいるのは薄汚い、華やかな表参道からは忘れられた路地裏。汚物と腐臭と死肉が転がるここは目を瞑る前から変わり映えがない。冷たくて硬い床と背もたれの壁に少ない体温を奪われて末端が上手く動かない。

乾燥した空気を吸い込み、湿り気のない喉がひりついた。渇いた咳を繰り返し、たったそれだけの動作で酷く体力を持っていかれる。せめて唾液でも飲み込めればいいのだが、それだけの水分さえ、自分にはない。

一つ息を吐いて身体に巻き付けていた布きれの間からある物を取り出す。それはすっかり干からびて久しい、痩せた林檎だった。幼子は周りの孤児に盗られぬよう、立てた膝の内側でひっそりとそれを眺める。食べられるでもなく、潤いを得られるわけでもないその残飯に、子供は愛おしそうに頬を擦り寄せた。

ひと齧りだけされた林檎は紛れもなく、幼子にとって宝物であった。






 ◆◆◆







「やぁアルディオ神父、今日戻られたのですか?お疲れ様です」

「これはハルベル司祭殿」


 アルディオと呼ばれた壮年の男性は黒い神父服に身を包み、人に恐ろしさを覚えさせる三白眼を緩める。一方大柄な彼とは異なり、頼りなさげに見える程細い痩せぎすな白髪の髪を伸ばしたハルベルは柔和に微笑んだ。

自分より年も立場も上な司祭に神父は逞しい身体を縮め、恐縮したように頭を下げた。


「いえ、自分の働きなどまだまだです。これからも精進させていただきます」

「こらこら、あまり謙遜なされるな。貴方がこの20余年この教会に力を貸してくださるから今信者たちが、そして私たちが健やかに過ごせるのです。もっと自信をお持ちなさい」

「それは・・・司祭殿にそう仰っていただけるだけで、ここまで頑張ってきた甲斐があるというものです」


 顔に似合わず嬉しそうに笑う男に、ハルベルも眩しそうに微笑んだ。


「これはまだ公式にされていないのですが、アルディオ神父のこれまでの功績を讃えて近々昇進の話も出ているんですよ」

「そ、れは・・・また急な話ですね」

「いやいや、むしろ今までなかったことの方が不自然です。どうかね、君さえよければ私の方からも推薦状を書きたいと思うのですが」

「いえ私など・・・というよりも、私は堅苦しいのは苦手でして。今のように異教徒や化け物を狩って駆けずり回っている方が性に合っているといいますか・・・」


 恥ずかしそうに頭を掻くアルディオに、ハルベルは豪快に笑った。確かにこれまで化け物を狩るために築き上げてきた目の前の屈強な肉体は、日がな一日机仕事や会食で肥え太らせるにはあまりに惜しいと感じた。


「はっは、まぁ本人が乗り気ではないのならば仕様がないですな。けれど、貴方を労いたいと思っているのは本当です。昇進を望まないのなら、他に金でも土地でも、欲しいものを今の内に考えておきなさい。上からの好意に素直に甘えることも、時には必要ですよ」

「はい、お心遣い感謝します」


 何年経っても此方に気を遣った、お堅い態度に司祭は一瞬仕方なさそうに苦笑する。更に言葉を掛けようとした彼に、背後で控えていた従者が時間切れを告げた。


「やぁもうそんな時間ですか。すみませんねアルディオ神父、もっとお話したかったのですが今日はこれで失礼させてもらいますよ」

「相変わらずお忙しいのですね」

「いえいえ、ただのジジイの集まり会ですよ。また時間があれば是非我が家で食事でもしましょう、では」


 会釈をし、歳を感じさせない滑らかな歩みで廊下を進む司祭に、神父は深々と首を垂れることで見送る。足音が聴こえなくなった所で顔を上げ、ふ、と男は息を吐いた。

(欲しいもの、か)

アルディオは己の掌に目を落とす。厚い皮、太くごつごつとした指。手首まで太く逞しい腕は余計な贅肉などどこにもなく、ゆとりを持って作られているはずの神父服は実用的な筋肉に引っ張られ少々キツいくらいだ。

20余年間武器を持って教会のため、神の為、そして信者のために我武者羅に敵を屠ってきた。そのために毎日欠かさず鍛錬を積み、修行を行い、己を極めてきた。己ももうすぐ40になろうとしているが、未だ現役で前線に出ているために衰えなどどこにも感じない。

まだまだ自分はやれる。前線を退くなどあり得ない。若者を育成し、教会のために尽力することができる。その事実がアルディオに自信を持たせた。

(欲しいものなどない。全ては神と教会のため)

飢える信者がいなくなればいい。皆が幸せに暮らし、死後は神の国に行けたらそれでいい。アルディオは胸に下がった十字架を握り、廊下の窓の外を睨んだ。


「そのために、私はこの命がある限り化け物共を残らず屠らなければ」


 化け物と異教徒がいなくなればそれが叶う。そう男は信じていた。









 ◆◆◆




 この世界には化け物と呼ばれる人間以外の異形が存在する。

それは魔獣であったり、食人鬼であったり、吸血鬼であったり、様々な異形を総称して化け物と人々は呼んだ。人に危害を加えるものを特に、人々は恐れ、嫌悪した。


またそれとは別に、人間の国には宗教というものが存在する。

それは国により、あるいは人種、民族、思想によって異なり多くの神が現在信仰されている。化け物の蔓延る世の中を、権力者の搾取が続く理不尽な世情を憂い、皆何かしらの教えに縋っている。

加えて信者は、所属する宗教の庇護を受ける特権が与えられる。化け物共に対抗する手段を持たないか弱き彼らを守るために、神の名の元に鉄槌を下す執行人。彼らがいる限り、信者の明日は保証され、神の元へ逝く前の安寧を約束される。

だからこそ、その権利を有するためにこの世界のほとんどの人間は何かしらの宗教に属している。


 そして、アルディオはミズカズラ教を信仰する神父であり、執行人であった。






 まだ十代の頃に村を化け物に襲撃され、数少ない生き残りとしてミズカズラ教に保護されたアルディオは、あの日から化け物共を殲滅するために生きていると言っても過言ではない。

今日も上から指示された村の化け物退治に赴き、住人に感謝されお布施を回収して所属する教会に戻ってきたのはまだ日が沈まない午後のことだった。

 近場だったこともあり早くに時間を余らせてしまった彼は教会のシスター達に仕事を手伝う旨を申し出たが、ミサも配給もない日は大した仕事はない。おまけに彼はいつも朝から夜遅くまで各地を奔走していることを知っているために、たまにはゆっくりお休みなさいと彼女たちに諭されてしまったのだからたまらない。

こっそり執行人見習いの弟子たちの所へ行こうにも、休むことも神からの試練と言われてしまえばそれまでだ。アルディオは手持ち無沙汰に教会周辺をパトロールがてら散歩するくらいしか出来なかった。


 重そうな雲は分厚く、肌寒い風が頬を撫でる。もうすぐで冬がやって来る。

市中には化け物の脅威が届かず連日賑わいを見せている。着飾った町娘や婦人たちが楽しそうに笑い、商人たちは競うように声を張り上げている。

アルディオが目指した平和が、ここにあった。

一人感慨深く練り歩く彼を不審そうに見る者もいたが、過去に助けてもらい移住してきた者たちはアルディオの姿に笑顔を見せ、何かと理由をつけて土産を持たせた。

焼き鳥に花に林檎に菓子に、両手を塞がれる勢いなそれらに最後は苦笑して子供たちに配った。しかし、強面な彼に子供は怖がりながらもお礼を言って一目散に逃げていく。

日常の光景に男は少し肩を落とし、売れ残った林檎を弄びながらまたのんびりと歩みを進めた。



 だが、ひとたび裏に回ればそんな喧噪からはほど遠い。

華やかな表とは真逆の、死と汚物と貧困で彩られたスラム街。金を稼ぐことも出来ず燻るだけのそこはこの町だけではなくどこの国にも存在した。

這い上がるだけの気力も、金も、健康な身体も無い。明日生きているかも怪しい彼らの目に生気はなく、ただただこの世と自らの生に諦念を浮かべていた。

アルディオは信者の誰もが幸せになるべきだと考えている。

しかしここにいる人間は何かに縋る余裕もないほどに追い詰められ、誰かを蹴落としても生きようという気概も感じられない。自分から生きることを諦めた人間は、どれだけ言葉を尽くし、叱咤したところで無意味であることを彼は嫌と言う程知っている。

此方がどれだけ苦労して状況を改善しようとその努力が報われるのはほんの一握りにも満たない。その一握りの人間は何よりも得難い存在になるが、そんな博打を一々打つほど彼も暇ではない。

何よりも這い上がる意思のない穀潰しが彼は大嫌いだった。

 だからこそ、一様に死んだように座り込み絶望しているだけの孤児や放浪者たちを尻目に男の歩みは緩まることはない。軽蔑すら滲む眼差しで睨み、もう教会に帰ろうか、そんなことを考えていた時のことだった。

ふと、アルディオの足が止まる。

詰まらなさそうにしていた眸は見開かれ、ある一点を凝視している。視線の先にいた子供は視線に気が付いたのか、億劫そうに緩慢に顔を上げた。

切れ長の深い藍色の眸と、伸び放題な黒髪の隙間から覗く子供のワインレッド色の眸が交わる。

壁にもたれ掛った、痩せ細った小さな幼子の顔立ちは良く見えない。パサパサの髪を床に垂らし、明らかに体躯に見合わないぼろいシャツを身体に巻き付けただけの姿は、寒風が吹く外ではとても寒そうだ。一見すれば毛玉の物の怪のような外見をしているが、スラムの孤児は皆似た様な姿をしているため人だとはすぐに分かった。

しかしアルディオが注目したのはそこではない。

幼子はここから這い上がってみせるという闘志を滾らせていたわけではない。自分の現状に憎悪していたわけでも、まして絶望に浸っていたわけでもない。

交わった、大きな丸い眸を瞬かせ、ゆるりと細く緩まる。

一瞬、男はここがゴミ溜めのスラムであることを忘れた。温かな日差しが幼子に降り注ぎ、午後のティータイムを楽しんでいる幼子の幻覚を、視た。

瞬きの間にそこはいつものスラムに戻っている。あの温かな空間とは正反対の冷たく、汚い路地裏。しかしそんなスラムには似つかわしくない、いや、いっそあり得ない程朗らかな微笑みを浮かべた童がそこに座っていた。

ここがもしも教会の何処かであったのなら、アルディオは会釈だけして立ち去っただろう。ここがもし表の通りであったのなら、品の良い子だと気持ち良く家に帰っただろう。

しかしここは畜生にも劣る扱いしか受けたことのない人種しか集まらないスラム。そんな場所で育ったであろう子供が、あんなに当たり前に、陽だまりの様に綺麗な微笑みを浮かべるなどと誰が思うだろう。

気が付けばアルディオはその子供の目の前にしゃがみ込んでいた。

屈みこんだ己の頭より更に下、男が大柄であることを鑑みても小さな幼子を見下ろす。きょとりと瞬いて小首を傾げる幼子はきっと指2本で十分殺せるだろう、そんな物騒なことを咄嗟に考えた。


「―――お食べなさい」


 アルディオは持っていた林檎を枯れ枝のように弱々しい子どもの手に乗せる。幼子は突然の重みに視線を下げ、もう一度神父を見上げた。

稚い眼差しは素直な疑問の色を乗せている。それに再び言葉を重ね、鬱陶しい前髪を耳に掛けてやる。露わになった素顔は栄養失調と環境のせいで目の周りは酷く落ち窪み、頬もこけ土気色の顔色をしていたが、基はとても端整な顔立ちをしているのだろうと思わせた。

少年とも少女とも判断しづらい年頃の幼子は神父の言葉に苦労して林檎を持ち上げると、カシ、と控えめな音を鳴らして齧りつく。

が、どうやら林檎を丸齧りする程度の力も残っていなかったのか表面には子供の頑張りに反して噛み跡一つついていない。これには困ったような表情の子どもも申し訳なさそうに眉を下げ、せめてといった風に青みの残るそれを控えめに舐めた。

林檎の皮を舐めたって栄養にもならないし腹も膨れないだろうに。そう溜息を吐きかけたが、配慮が足りなかったのは此方だと神父は短く謝罪を口にした。そして未だ舐められ続ける林檎を子供の掌ごと掬い上げ、反対側から齧り付く。

(この様子なら噛み砕く力もないだろう)

 そう判じた男はなるべく細かく、ジュース状になるまで念入りに口の中の林檎の欠片を咀嚼する。そして、今度は林檎の代わりに目の前の幼子の、これまた小さく脆い顎を掴んだ。

見知らぬ凶悪な面をした大男を前にして、泣き叫ぶことも怯える様子もない。いっそ従順な程あっさりと掴んだ指で無抵抗のまま口を開けさせられる姿は本当に何も知らない子供だ。

一瞬複雑そうな表情を浮かべたアルディオは、しかしその乾燥した唇に己のそれを重ねる。ピクリ、と反応した子どもを意に介することもなくそのまま口内にあった林檎を少しずつ童へ流し込んだ。

意図を理解したのか相手が徐々に嚥下していくのを感覚で捉えながら、時間をかけて口内にあるものを全て飲み込ませ、離れる。


「よく食べきったな、偉いぞ」


空咳を二、三度繰り返し、息を整えた幼子に神父は出来る限り優しく笑い掛け頬を撫でた。初めは町の子供たちに林檎以外を配ったことを少し後悔したが、空っぽの弱った胃に入れるには返って果物で良かったと内心胸を撫で下ろす。

しかしそんなアルディオの呟きとは裏腹に、子供はくしゃりと顔を歪め、大きな瞳から涙を溢れさせた。驚いて止まった男の手に幼子は自身の掌を重ね、スリ、と控えめに懐く。


「ぁ、り・・・がぁ・・と」


 掠れた、長く使われず潰れかかった声帯から絞り出したような声で神父への心からの感謝を述べる。併せて滲んだ微笑みは、先程よりもずっと、より一層美しい、儚ささえ感じる微笑であった。

その美しさに神父は息を飲み、次いで目尻を緩ませて首を振り、微笑みを返した。


「私はアルディオ・ブラッド。君の名は、何というのかな?」


 これが化け物退治の神父と孤児の、初めての邂逅であった。






 ◆◆◆





 ディディーは敬愛する神父との出会いの日を想起し、ゆるりと頬を緩ませた。


『若い林檎(ディディー)』それがアルディオから授かった孤児の名前だ。

幼子は両親の記憶がない。物心ついた時からこのスラムで座っており、いつも一人だった。一人だった子供の名前を呼ぶ人などここにはいない。したがって子供には名乗るべき名前がなかった。

それを、不便だろうと名付けてくれたのがあの日ふらりと現れた神父だった。


 吐いた息が白く色付く。悴んだ手足をすり合わせ、干からびた林檎を胸に抱いた。

思い出すのは一刻にも満たない出会い。あの瞬間から、ディディーの世界がまるっと変わった。重苦しいばかりだった鉛色の空は天界を隠すヴェールに見えたし、接触したところから熱を奪う石の地面の非情も愛おしく感じる。


 嗚呼、世界のなんて美しいことだろう。


 血の気の無い土色の頬を僅かに赤らめ、溜息を吐く姿は恋する乙女のようだ。しかし、ディディーの身の内を焦がすのは、恋よりもより深く、心酔でも生温い、盲信とも呼ぶべき激情だった。

(かみさまなんて居ないと思ってた)

 苦しくても、ひもじくても誰も助けてくれない。痛くても悲しくても、誰にも見向きもされなかった。そんな地獄が当たり前だった。

何故今の今まで生きながらえてこられたのか自分でも分からない。ここまで五体満足で生きている奇跡を、しかしディディーは喜んだ日は一度だってなかった。

何故自分はまだ生きているのか。早く死んで楽になりたいと思ったことも両手で足りない。

しかし、幼子の中に誰かを恨んだり、まして絶望する選択肢はなかった。

だって、それが普通だったのだ。表の人間の幸せそうな顔を見て、助けてほしいとは思っても、どこか物語を眺めているような心地とでもいうのだろうか。まるで現実感のない光景は自分とは無縁の景色だった。

あんなふうになりたい。何故私ばかり。なんて、そんなことを考える次元ではない。そもそも這い上がるという思考すら、子供の中には初めからなかった。


 けれどそこに、あの人が来た。


アルディオと名乗った大きくて黒い服の神父さま。この地獄に、一筋の光を見せてくれた恩人。たった一度手を差し伸べてくれた異端に、ディディーが救いを見出したのは自然な流れだった。

(ある、でぃお・・・あるでぃお、さま)

 舌の上で転がした音を飲み込み、吐息だけで笑う。霞む視線を凝らせば、薄暗い路地の向こうの開けた場所に教会がどっしりと腰を下ろしていた。

 あの日、突然現れた神父は、幼子にとって神様だった。


他人から見ればほんの些細なこと。ただ、一度だけ林檎をくれた。呼び名をくれた。それだけだったが、ディディーにとって彼を信仰する理由はそれだけで十分だった。

たとえそれが子供の空腹を満たすのに無関係だったとしても、彼が自分(・・・)たち(・・)を殺すために存在するものだったとしても、彼になら殺されてもいい。そう、思える程に。


 ディディーは自嘲にも似た笑みを零した。

彼が化け物を殺す役職に就いていることは風の噂で耳にした。どれだけ化け物を憎み、殲滅したいと思っているのかもその戦績と経歴で大体分かる。

子どもは己の目を瞼越しに撫でた。暗い、陰ったような朱色は一見黒くも見えるが、これは決して人には出ない魔性の色。


 赤い眸は異形の証。


 あの場で殺されなかったのは単純に気が付かなかったのか、それとも一般的な化け物とかけ離れた姿だったからなのか、子供には分からない。何せ、あの時は自分がまさか人ではないとは夢にも思っていなかったのだから。


 切っ掛けは些細なものだった。舌先の林檎の味を思い出す。砂を飲み込んでいるような、飲めなくはないが不思議な感覚。

本能的に、これは己の体が受け付けないものだと理解した。

それでも、神父からの施しならばと喜んで受け取った。身体に溜まる異物への不快感よりも、彼から貰う熱に涙が止まらなかった。

理屈も本能もいらない、ただただアルディオへの崇拝が胸の中で溢れた。

そして、もう一つ。


「よぉ、覚悟は決まったかい?」


 辺りが暗くなり、夕日も見えない程重く重なった曇り空。

肌寒さに一つ身震いをして空を仰ぐ。ちらりと降り始めた白に明日は朝から寒そうだと思った。しかしそんな呑気な思考も目の前に立つ男によって掻き消される。数日振りに見たにやけ顔が此方を見下ろす。

覚悟も何もそんなことどうでもいい癖に。そんな思いが透けて見えたのか、男は馬鹿にしたように笑った。


「あっは!そんな顔すんなって、まぁおチビちゃんに拒否権はないんですけどぉ」

「・・・」

「でもいきなりガブッ、じゃなくて事前に教えてやった俺様超優しくない?ん?」


 ディディーの神様に出会ってから何日後のことだったろうか。出鱈目に髪を染め、蝙蝠のような羽根を広げたその人は突然目の前に現れた。

驚く暇もなく弱そうな同胞に歓声を上げ、何も知らない幼子にベラベラと色々教えてくれたのだ。曰く、子供で弱っているせいで不安定だが確かに子供は異形の存在であること。曰く、赤い目は吸血鬼の血族を表していること。曰く、自分たちは人の血しか受け付けないこと。

始終楽しそうに嗤う彼はディディーよりも鮮やかな赤目を弓なりにしならせてこうも言った。


「普通は人間の血しか飲まねえんだけどよぉ、純血や力の強い同胞の血はまた別格でさぁ。吸った奴はその力を代わりに手にすることが出来るって噂があるんだよねぇ」


 しかし、普通自分より上の存在の血を手に入れることは至難の業だ。それこそ自力で相手を屈服させる前提な時点で既に結果が目に見えている。相手を捕まえる実力が元からある吸血鬼にはもう力は必要ない。

けど、と男は続ける。


「まさかとは思ったけど、お前純血種の産まれじゃん?あっ、誤魔化しても無駄だぜ?この匂いは間違いない、ちーっとなんか混ざりモンもあるけど・・・ははっ!なーんでこんなとこに純血の餓鬼がいんのか全然分かんねえけど、弱って抵抗も出来ない据え膳見つけるとか、俺ってば滅茶苦茶ラッキーじゃん?!」


 上機嫌に、高らかに歌い上げる青年は目と鼻の先にその相貌を近付けた。スン、とひと嗅ぎした後に、無遠慮に頭を掴み、露わになった首筋を舐め上げる。ぞわり、と鳥肌が立つが相手はお構いなしに言葉を繋ぐ。


「ホントは処女食っちまった方が確実なんだけど、まあこんなとこまで餌捜しに来る奴も滅多にいねえから大丈夫だろ。こんな貧相な身体抱いても楽しくねえし、満月まであと少しだしな」


 巻き付けた布の上から足の間を撫で上げられ、反射的に太腿を閉じる。意味は分からなかったが、鈍く光った眼光に竦み上がった。


「これは印だ、俺がお前を食うと決めた予約。折角なら一番旨い時に味わいたいしな・・・あぁ、遂に俺も上位の奴らの仲間入りかぁ、ふふ、ハハハハハハハッ!!」


 待ちきれない。そんな子供の様に燥いだ様子で次の満月に会おうと言い残し夜の闇に消えていったのが数日前の話。

そして、今日の月はどこも欠けた所がない満月、のはずだ。その姿は分厚い雪雲の向こうに隠れてしまい確認する術はない。

が、そんなこと目の前の青年には関係ないのだろう。以前よりも更に機嫌よく、今から歌い出しそうな程浮かれている男は性急にディディーの胸倉を掴み上げると、そのまま硬い地面へ引き倒し馬乗りになった。


「かっ・・・は、」

「んん~相変わらずいい匂い・・・おっ?お前女にした(・・)のか、将来有望そうなのにな~勿体ない!もうあと200年歳とってたら食べ頃だったのに」

「んっ、や」


 乱暴に扱ったために脱げかかった布切れから露わになった痩せ細った太腿を辿り、足の付け根を撫でる。ついでとばかりに下着も付けず無防備な切れ目に指を這わせ、もう片方の腕であばらの浮き上がった胸を残念そうに揉みしだく。

ディディーはぞわぞわと得体の知れない恐怖に息を詰める。しかしそれよりも腕から転がった宝物の方が重要だった。

地面に縫い付けられた状態のまま周囲に目を走らせ、己の頭の斜め上に転がる林檎を発見する。そちらに腕を伸ばすのと青年がディディーの足を持ち上げて太腿の血管に牙を立てるのは同時だった。

激しい痛みが彼女を襲う。物凄い勢いで血が吸い上げられていくのを感じた。しわしわの林檎まで、あと指一本分足りない。体内の血液が失われるに従い、ディディーの意識も遠退いて行く。

あと少し、あと少しなのに。

浮かぶのは自分のたった一人の神様の姿。青年の話が本当ならば、きっと彼はディディーから得た力で人間に危害を加えるだろう。

不可抗力とはいえ、自分のせいで神様の大切なものを傷つける。神様の手を煩わせる。なんと罪深いのだろうと彼女は奥歯を噛み締めた。

そして同時に、暴れた青年は神父の手で殺されるだろう。そう思うと、夢中で己の血を貪る青年に対する激しい嫉妬が身を焦がした。

(この男はあの人に殺される・・・なんて、なんて贅沢。畏れ多い。羨ましいなんて、思うこと自体不相応だと分かってる。でも・・・嗚呼、せめて私も、貴方の手で殺してほしかった)

彼に憎まれる化け物の仲間に生まれたのなら、せめてあの優しい手で。

あの人からもらった林檎には未だ手が届かない。意識が混濁する。目頭が熱い。

ディディーは己が泣いていることを自覚しないまま、震える唇が言葉を紡いだ。


「あ”る・・・でぃお、さま・・・っ」








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