第5章
「たっ、助けてくれてありがとうですじゃ」
「礼などいらぬ、ただの暇潰しだ」
月明かりに照らされた魔王リヤンは、血に濡れた手を布でごしごしと当て拭っていた。
満月が少しだけ西に傾き始めた頃。遠吠えが木霊する森の中、リヤン達は老人を連れて歩いていた。
「わざわざすみません。こんな老いぼれのために」
「良いんですよ、私達は困っている人を見捨てられない主義ですので」
女神は老人に優しい表情で微笑みかける。リヤンはどこか上の空で腰の抜けた老人を黙々と背負って運んでいた。
「にしても、あなた方みたいな若い人が、一体どんな理由でこの森にいるんですかのう?」
たわいない話題のはずが、かえって女神の表情をひきつらせる。
「そ、それは、その……」
困り顔の女神は、藁をもすがる気持ちなのか、助け舟を魔王に要求したのだった。
灰色がかった黒い瞳の魔王は、その瞳よろしくルシスの合図をなかったかの様に振る舞った。
その態度に苛立ったのか、ルシスの後ろに結わえられた髪がわずかに逆立って見えた。
「……魔王様の意地悪」
魔王に聞こえないよう、ルシスは膨れっ面で愚痴を吐く。
「あのう、余計な質問でしたかのう?」
困惑半分、申し訳ない半分の表情で、老人は出方を見るかのように顎を引いて聞いてきた。
「そっ、そんなことはありません! 私達は何というか……、そう! 見回りに来ていたのです! 悪い狼が出てこないか、ね!」
やや強引な理由だが、老人は「そうですか」といって呑み込んだ。
ルシスの内心は、きっと泣きたくてしょうがない気分だろう。事実、彼女の瞳は微かに濡れている。「うぅ~、心が痛い」という言葉も少し濁って聞こえた。
「老人よ、貴様はなぜこのような森にきたのだ。危険であったのは貴様も同じであろう」
夜盗に襲われた後というのもあるのか、老人は言い訳する気はないらしく、素直に話しだした。
「娘夫婦に会いたくてのう、無理をしてここまで来たのじゃ。もちろん夜の森を通る気はなかった。じゃが、年というのは怖いのう、予想よりかなりかかっとった」
老人は己の旅路を見て物憂いに語る。リヤンとはまた違うが、灰色に染まった瞳には活力など微塵にも映らない。
その後、老人が語る内容は自嘲気味な言葉が度々挟まれた。女神はそんな老人を慰めようとするが、生憎かける言葉が浮かばなかったのか、視線だけで言葉を受け止める。
「……儂には立派な娘がいてのう。それはもう自慢の娘じゃ」
息を吐き出すかのように、しわがれた喉から語られる娘。
「何をやらせても文句の一つも言わず、どんなことも真剣じゃった。その娘が結婚し、幸せに暮らしている様子を見るのは、儂の生き甲斐じゃったよ」
しかし、と語りは暗転する。
「魔王討伐に行った娘の旦那が、帰ってくることはなかった……」
「そっ、それは……」
ルシスは歯を食い縛る。後ろめたいことでもあるのか、ついにその視線は老人からはずされる。
「魔王がいなければ、義息は今も娘と共にいたんじゃろうな。もう気付いているかも知れぬが、儂が娘夫婦と呼んでいるのは、儂の我が儘じゃよ」
それ以上先を語ることはなかったものの、それでも、老人が何を言いたいのか、伝わった。
老人の表情は、紛れもなく憎しみで歪んでいる。
「……」
かける言葉は無く、慰めなど意味をなさない。何をしたとしても火に油を注ぐ行為であることは、誰もが瞬時に理解するであろうこの状況。
ルシスは夜空を見上げるが、映る物は月と星。その輝きには当然答えなど無い。
今ここで、老人を背負っている者こそ魔王だ、と打ち明かしたらどうするだろうか?
魔王の首を両手で締めるのだろうか? それとも噛み千切るのか? それとも他の方法で殺そうとするのだろうか……。
予想など、それこそ星の数ほどある。けれど、辿り着く答えは夜に月があるのと同じくらいに明白であった。
生真面目にも言葉を探るルシス。しかし、
「何を悩む必要がある。我が儘なら、我が儘を貫けば良かろう」
空気の読めない台詞は、当然リヤンの口から出たものだ。
「リヤン様! それはあまりにも可哀想です!」
「可哀想? それは貴様の勝手な思い込みだ。そして、この老人も、同様に勝手な思い込みだ」
リヤン以外の口が開いた。
「勝手に行って勝手に死んで、それに対して勝手に生きてると思い込み、勝手に娘夫婦と呼んでいる。同じことではないか」
「リヤン様! いい加減にしてください!! 気持ちが分からないのですか!」
魔王の表情はピクリとも変わらず、瞳は今も灰色に淀んで変わらない。
「気持ちなど不要だ。気持ちがあってこんなにも回りくどく悩んでいるのだ。貴様もそろそろ学習しろ。時には、変えられぬ運命も存在すると」
「リヤン様、いい加減にッ!!」
「その通りですじゃ」
熱の籠った口論に終止符を打ったのは、他でも無くご老人だった。
「青年の言うとおり、所詮は儂の勝手。勝手に恨んで勝手に泣いて、戻らぬ過去にすがりついていただけじゃ。全くもってその通り、何もかも、儂の勝手じゃよ」
諦めたのか、ルシスは握っていた拳をほどいて、恥じるように道を歩む。
リヤンもまた、無表情に歩く、黙々と。
「……なあ青年や、一つだけ聞かせてくれぬか。儂の行いは、ずるいかのう」
リヤンは決して振り向かない。その問いに答える気がないのか、夜が明けるまで口を開くことはなかった。
日が昇る頃、リヤン達は小さな村を発見した。その入り口には小さな女の子と、母親らしき女性が立っていた。
「おぉー、娘と孫娘じゃ。ここまでお世話になりましたのう」
「いえ、まだ少し距離があります。お礼はその後で」
ルシスはやんわりと微笑む。その笑みに元気付けられたのか、老人の目は真っ直ぐ村を見据えていた。
「おじいちゃーん!!」
「おぉー! 元気にしとったか! おや? 少し背が伸びたか」
老人とその孫が抱き合う姿は、何年の時間をも感じさせない家族の繋がりを感じさせた。
ルシスはリヤンを連れて静かに去ろうとすると、
「貴様は夜だ」
リヤンが、老人に向かって意味の分からない言葉を発した。
「儂が、夜?」
「そうだ。貴様はまだ夜だ。暗い森の中で迷子になっているに過ぎない、けれど」
リヤンが向いた方向に、老人も釣られて同じ方を見る。
「こっ、これは!」
目の前では、お日さまが姿を表していた。ゆっくりとだが、しかし、確かに昇っている。
「夜は明ける。貴様の勝手は、勝手だ。しかし、それでも夜は明ける」
「それだけだ」といってリヤンはルシスと共に来た道に戻っていく。
「……あの青年は面白いのう」
後に残った道を嬉しそうに見つめる老人。
「夜は、明ける、か……」
老人は、娘と孫のいる家に入っていった。




