第1夜 前編
それを人は奇跡と呼ぶ
だらだら冷や汗を流し、引きつった笑みを浮かべる彼と、
不審者を見つけたとばかりに睨みつける彼女。
この無言のやり取りが続いて早5分。
それは間抜けなくしゃみによって終わりを告げた。
はっ、くしょぅん!
「やだっ、変なくしゃみ!」
「え、うん。ごめん。」
笑いを隠しもせずお腹をおさえて前のめりになる彼女に、
眉を下げ、頬を軽く掻きながら謝った。
何とも頼りなさそうな印象を受ける。
「いいわ。あなたが登山家かどうかは一旦横におきましょう。」
「ははっ。有難う。」
「ここはあまり人が来る場所じゃないはずよ。」
「確かに、まだ君にしか会ってないや。まぁ森に来る人もいないだろうし。」
彼女は首を横に振る。
「そうじゃないの。誰も近づきたがらないのよ、この森に。
来るのは鈍い変人か、噂を確かめに来た人だけよ。」
何を言われているのか理解出来ず、彼は困惑気味に尋ねた。
「えっと・・つまりどういうこと?噂?そもそも近づきたがらないって・・・。」
すると彼女は虚をつかれたような表情を見せた後、呆れたように溜め息を吐いた。わざとらしく。
「嘘じゃないのね?」
「へっ?」
「だから!今の言葉は本当かって聞いてんの!ほんとに何も知らずに来たの?」
再びギロリと睨む。
「は、はい!何も知りませんんっ!!」
「・・・そう。」
「あ、あの、信じてもらえた・・かな?」
「信じるわ。私はあなたを信じる。」
「良かったぁーーーー。」
強張っていた身体をほどき、心底ホッとしたように肩を撫で下ろした。
「私はリン、神崎 リンよ。あなたは?」
リンは彼の様子にフッと笑みを溢すと名前を聞いた。
「俺は篠ノ乃女 蓮、よろしくっ。」
「こちらこそ。ところで蓮?いつまでそこに居るの。こっちに来たら?」
言われてやっと蓮はリンと泉を挟んで会話していた事を思い出した。
あまりに彼女の睨みが恐くて、距離感覚が狂っていたようだ。
それほどリンの存在は大きく見えた。
「今行くよ。」と苦笑しながら泉の淵を歩く。
2人は初めてお互いの顔をハッキリと確認出来た。
* *
実際の彼女は、泉越しで見たよりもずっと小さく、可愛らしい子だと思った。
風にふわりと揺れるミディアムボブの髪。
少し上がった口角。
筋の通った鼻。
髪と同じ、鴇色の瞳には泉が映ってキラキラと輝いた。
名前を聞く限りは日本人だが、外国の血が混ざっているのだろうか。
身長は160cmもないくらいで、どちらかといえばやや小さい。
裾に碧の美しい刺繍をあしらった真っ白いフレアワンピース。
服からのぞく手足は磁器のように透き通っていた。
・・・うん。
見れば見るほど可愛い。
本当に同一人物かと疑いたくなった。
ジロジロと見すぎたせいか、彼女は少し頬を染めてこちらを見た。
「何?あんまり見ないで。」
まさか見蕩れてましたとは言えず、先ほどから気になっていた事を聞いてみた。
「えっと、さっきの誰も近づかないとか、噂って何だろうと思って。」
「あぁ、それね。森に近づきたがらないのは身体が持たないからよ。」
「身体が持たない?」
どういう事だ。俺は特に何の異常も感じていない。それともこれから?
そもそも何故彼女は平気なんだ。
ダメだ。余計にこんがらかってきた!
「ええ。たいていの人は30分も持たないわ。だいたい10分くらいで何かしら症状が出始めて、正気を失うなり、呼吸がしにくくなったりするの。」
サーッと血の気が引くのが分かった。
30分どころか、かれこれ2時間以上居るんですけど。
え?死ぬの?ああ、思えば俺の人生これといって良い事なかったなぁ。
そもそも何でここ入ろうと思ったんだっけ?
てか俺の人生短くね。享年17歳とか嫌なんだけど。
しかもこういう時って走馬灯のように色々思い出すんじゃないの?
まさか人生短すぎて流れるもんがないとか?
嘘だろ。こんな死に方したくねぇ!
ちょ。助けて!リンちゃん助けて。何でそんな冷静なの?!
こっちは死活問題だよ。
「何を百面相しているのか分からないけど、あなたは大丈夫みたいね。」
「さっきから君は何を冷静にって・・え。あなたは大丈夫?俺死なない?」
「死にそうなの?」
「・・・ぜんっぜん!」
ビビらせないで欲しい。君がそんな物騒な事言うから、俺はこんなに必死に・・・何で平気なんだ。
彼女はともかく、何故 俺は何ともないんだっ。
「そう。で噂はね、いくつかあるの。呪われてるとか、魔女が住んでるとか。あと・・この泉に不思議な力がある、とか。」
「不思議な力?」
「たしか、泉の水を飲めばどんな病も治る。不老不死になる。力が手に入る。逆に飲んだら死ぬっていうのもあったわね。」
「へ〜!本当なの?」
「まさか!でも普通の人はこの森に耐えられないわけだし、あながち呪われてるっていうのは間違えじゃないかも。」
「え゛。」
「安心して。魔女は居ないし、泉もただの水よ。」
「いや、・・・うん。」
何も安心出来ないんですけど!
「さてっ!こんな所で立ち話もなんだし、家に来る?」
「へっ、良いの?」
「もちろん。すぐそこよ!」
と、振り返り彼女が来た道を指差す。
すぐそこって、ここ森ですけど。え。まさかここに家あるの?!
「そう・・なんだ。」
「何よ、その顔。ほら、早く行くわよ!」
「あはは、はい。」
本当にすぐだった。2分くらいしか歩いてない気がする。
相変わらず日がまだ昇っているというのに薄暗く、明かりもない道だった。
とは言え、小さなレンガで舗装され、獣道ではない。
「あれよ。」
見上げれば、3mくらい先に朱色の屋根が印象的なログハウスが建っていた。
窓から部屋の明かりが漏れ、家の周囲だけ明るい。
別荘地などでよく見られる普通の家だが、この森では違和感の塊でしかなく異様だ。
すると、あと数歩のところで中から女性が出て来た。
「あらリン、早かっ・・・そちらの方は?」
「彼は蓮、泉に居たの。で、こちらは母よ。」
「あ、はじめまして。蓮です。」
「リンの母の香織です。そう、あなただったのね。」
「・・と言いますと?」
「パパが泉に人が近づいてるっていうから、リンに様子を見に行ってもらってたの。」
「そうだったんですか。」
まてまてまて!何故分かったパパ!まだ俺、リンとお母さんにしか会ってないぞ。
防犯カメラちっくな物とか無かったし、こっそり覗いてたとか?
でも泉を通らないと家まで来れないし、どうやって先回りしたんだ。
・・・!携帯?ひょっとして電波が!尻ポケットからスマホを出して確認した。
圏外だとっ。謎だ!
「さっきから何ごちゃごちゃしてんの?」
いや、リン。パパさんの連絡手段についてだな!
「・・・何でもないです。」
「ふ〜ん。」
「あらあら!もう打ち解けたみたいね。」
まだです。まだあなたの娘さんとは打ち解けてません。
ハハッと乾いた笑いが漏れる。ちらりと彼女を見やると下を向いてレンガを見ていた。
そのちょっと欠けたヤツが気になるのかな?でも今はこっち見て。助けて。
「蓮君は何歳?どうしてここへ来たの?身長は?好きな食べ物なぁに?あ、シチュー好き?今日の晩ご飯シチューなの。それから・・・etc。」
「えっとですね、」
お〜い、リンさんやー。助けろ、お母さん止めて。いつまでそれ見てんの?!
キィッー。
ドアが開く音がして見ると、家の中からまた人が出て来た。
「おい。家の前で何を騒いでいる。早く入りなさい。」
「やだパパ、ごめんなさ〜い。」
トトトッとお母さんが男のもとへ行く。
この人がパパ?若いな・・じゃなくていつの間に家にっ。
それともずっと居たのか?
「そこの君も。リン。」
「は〜い。行きましょ?」
「う・・ん。」
「お父さんただいま。」
「ああ。」
「あのっ。お邪魔します!蓮です。さっきお嬢さんに会ってそれで、」
「分かっている。私はアベルだ。いらっしゃい、蓮。」
「はい、有難うございます!」
「さてっ!晩ご飯作らなきゃ。蓮君食べて行くでしょ?」
「いえっ、そこまでは。」
「え〜帰らなきゃいけない用でもあるの?」
「そうゆうわけではないんですが、えっと。」
「じゃあいいでしょ!ついでに泊まっていきなさい。」
「へっ泊まりですか?それはちょっと・・。」
「用ないんでしょ?いいじゃない!せっかく来たんだし。ねっ?」
「リン、2階の客室に掃除機かけてきて。あと窓開けて風も通しておいてね。」
「・・・・・・・、分かった。」
まじか。困ってアベルさんを見ると、1つ首肯いて俺の肩をポンと叩いた。
アベルさんっ!
「香織、せっかくの客人だ。奥からワインを持ってこよう。」
「そうね!」
アベルさんんんんん゛ーーーー!!!
「風呂は庭で採れたグレープフルーツでも入れるか。」
「素敵だわ!よし、腕によりをかけて作るわよ〜。」
もう俺が泊まる事は決定なんですね。
どうしたものかと突っ立ていると、リンが下りて来た。
「マッハで掃除機かけたから、あんまり丁寧じゃないけど普段から掃除してるし綺麗なはずよ。」
「有難う。何か悪いな。」
「別に。お母さんは言い出すと聞かないし、お父さんも何も言わなかったから問題ないわ。」
「そうか。君は大丈夫なの?その、」
「大丈夫よ。あなたの事嫌ってたら、そもそも家に連れて来ないし。さすがに泊まるのは予想外だったけど。」
「良かった、安心したよ。」
嫌われていないという言葉が、何よりも安心させた。
「そういえばお父さんは?」
「ああ、ワイン取りに行くってさっき。」
「ワイン?なんだお父さんもはしゃいでるのね。」
「え?」
「家で作ってるの、ワイン。だから気に入った人にしか出さないのよ。」
「そっか、そうなんだ。へへっ。」
「気持ち悪い顔して笑わないの!」
「ひどっ!」
「本当の事だもの。」
「お前なぁ。」
「何よ。」
* *
香織は2人を見て微笑むと、そっと呟いた。
「リンをよろしくね。」
消え入りそうな声で1つ。
「どうかこの時間がいつまでも・・っ。」
一方、アベルはワインセラーから1本取り出すと、ラベルの文字に指を這わせた。
ーl'homme de ma vie.ー
「リン・・・。」