Il Sole
屋上で見た貴方は、
それはそれは力強い羽根を背負っていました。
[貴方は私を"La Ruota della Fortuna"と呼んだ]
自由に動かない身体に鞭打って、私は屋上に向かった。
直前に車椅子を降りて、杖を持つ。
閉鎖的空間での、ささやかな息抜き。
「んーっ!気持ちいいなー」
息を吸い込むと、病室では視覚的にしか感じられない季節の変化を体感出来る。
いつものベンチに座ろうとして、そこにいる人影に気付いた。
「……!」
私の覚束無い足音に気付いて、彼は振り向いた。細めの目が見開かれている。
「あ、はじめまして」
「はじめまして」
彼は立ち上がると頭を下げる。思ったより大きくて大人びて見えても、でもどこか幼い雰囲気をしていて。
「あ、大丈夫ですか」
「はい」
慌てて私の元にきて、支えてくれた。その時盗み見た横顔に、私は胸が高まった。
一目惚れ。
久々の感覚だった。
それから私たちは自己紹介をして、彼が私より年下だということが分かった。
そして感じた違和感。病人や病院独特の匂いが無かった。
「貴方は誰かのお見舞いに?」
私がそう聞けば、ううんと首を振った。
「記憶喪失で、数日前に入院したばかりで」
「え?」
「何故か思い出せないことがあるんだ。思い出せない人が」
「……そう。それは辛いね」
私は目を伏せた。そういうとき、どう声を掛けたらいいんだろう。
そう思っていると、彼は気にしない様子で笑顔で聞いてきた。
「おねーさんは?」
「私?私は元々身体が弱くて。ちょっと無理しちゃって、こう」
手を広げて肩を落としてみせる。
昔から入退院を繰り返していること、調子が良いからと無理をしたら痛めてしまったことなどを説明した。
「狭いところに居て、窮屈じゃない?」
「んー、もう慣れちゃった」
私が笑えば、彼も顔をくしゃっとして笑う。
「そーだ!どこか一緒に行こうよー」
私の手を取って、名案だというように叫ぶ。
「え?でも私……」
「俺が連れていくから、ね?」
「うん」
勢いに押されて頷くと、食い気味に「約束!」と言ってくる。
会って間もないのに、そんなことを言ってくれる彼が愛おしくて仕方がなかった。
いつまで病院にいるか分からない。もし彼が退院してしまえば、もう会えないかもしれない。
それに、もし記憶が戻ったら、私のことを忘れてしまうかもしれない。
そんな怖さを奥底にしまって彼と接した。
「大丈夫」「記憶戻るよ」私はそんなことしか言えなかった。
でも彼は笑顔で「うん、ありがとう」って言ってくれた。
そんな優しさは、私をもっと寂しく辛くさせるだけだった。
屋上で会うときも、私の病室で会うときもあった。
「何してるの?」
屋上で彼を見つけたとき、彼は何かを書いていた。声を掛けたとき、咄嗟に隠されてしまったけど。
「なんでもない」
私はそれ以上追及出来ずに口を噤んだ。
彼は「あ!」と声を上げると、私の方を見て嬉しそうに言った。
「俺、退院出来るの!」
彼が記憶をなくしてから、私と出逢ってからたった2週間だった。
「え……あ、そうなんだ。良かったじゃない!」
人懐っこい犬みたいな表情をしてるから、私は思わず頭を撫でた。
びっくりした様子だったけど、同時にもっと破顔して。
「退院してもお見舞い来るからね。あ、いつ出掛けようか。最近体調良いんでしょ?」
「うん、先生に聞いてみるね」
彼に出逢ってから、狭い病室も広く感じたし、白い世界も鮮やかに見えた。
感謝してもしきれないくらいに。
私は外の乾いた風に晒されながら、彼の幸せを願った。
「貴方が元通りになりますように。夢が叶いますように」
「大丈夫?」
彼は車から私を降ろして微笑んだ。車椅子を押して、目的地に行く。
心地良い風に、自然と心が洗われるようで。時々香る彼の香水がやけに安心した。
「俺ね、まだ戻ってないけど……立ち止まったままじゃいけないと思うから。進んでみようと思う」
「うん?」
「夢、叶えたいんだ」
見上げれば、遠くを見つめた彼の顔。真剣で、どこか切なくて。
私は手を伸ばして、彼の手に重ねた。
「大丈夫。貴方なら出来るよ」
「うん。おねーさんの夢は?」
「私の?」
突然の問いに言葉が詰まった。
夢を語れるほどの自由な身体がないから。なあなあに生きてきたことを思い返して、私は駄目だと思わされた。
「考えたこと無かった。私には何かをするほどの身体じゃないし」
「じゃあさ、俺の夢応援してくれる?」
「えっ?」
ね?と言われ、私は頷いた。
「応援するよ」
「うんうん、頑張る!」
「絶対、叶えてね」
「俺の夢が叶うまでに、おねーさんも夢、見つけてね」
ヤクソク、と私たちは小指を絡めた。
彼が退院してしまった後も、何度か見舞いにきてくれた。
他愛もない話をするのが楽しかった。
まだ定期的に通院しているようで、見かけることもあった。
ある日、庭に友達と居た私は彼を見つけた。
隣には、知らない女の人。
「あ……」
気付かなければ良かったのにね。彼女くらい居るだろうことは想像出来たのに。
「どした?」
飲み物を持ってきた友達に聞かれて、私は首を振った。
彼の会話が途切れ途切れ聞こえる。
きっと、彼の言ってた「思い出せない人」は彼女のことなんだろう。
そのときの彼の辛そうな顔がフラッシュバックする。
彼の夢と、それに関係してたであろう彼女を忘れてしまった……そう気付いた私は胸が痛くて仕方なかった。
無意識に胸を押さえていたらしい、友達が慌てて「大丈夫?」と尋ねてくる。
私は深呼吸して手で制する。
「大丈夫、何でもない」
……そう、何でもない。
それからパッタリと彼は訪れなくなってしまった。
私は暫く、また狭く感じるようになった病室にいた。
だけど暫くして退院して。退屈な入院生活の間に作った雑貨や絵画などを利用して、お店を開くことにした。
友達の店に、少しスペースを借りて小物たちを置く。
それらは程良く売れ、不自由な私の小さな夢になった。
「夢、見つけたよ」
どこでどうしているか、記憶が戻ったのかすら分からない彼を想った。
私はまだ貴方の夢を応援してる。たとえ貴方が忘れてしまっても。貴方が別の人とその夢を共有しても。
久々の通院のとき、私は屋上に行こうと思い立った。
病院の中で、唯一好きだった場所。あの空気を久しぶりに感じてこようと。
彼と出逢った場所というだけで、私の心は相変わらず締め付けられるけど。
直前で車椅子を降りて、杖を持つ。以前より足取りのしっかりさが増したけど、景色や空気に違いはない。
変わったのは私だけ。
「んーっ、やっぱりここは気持ちいいなあ」
ふと目をやった先、私の心臓は早く早く鳴った。
「嘘……」
大きな背中が見える。後ろ姿だけだけど、見間違えるはずがない。
その"太陽"みたいな姿、どれだけ会いたかったか。
「久しぶり……!」
涙混じりの声で、私は叫ぶ。
くるりと振り返った姿は、勿論彼の。
「!」
違和感は程なく溶けた。右手のノートをベンチに置いて、笑いながら駆け寄ってきた。
「会いたかった」
抱き締められたときに感じた体温がとても温かかった。
「好き」
「私も」
貴方は私を"運命の輪"だと笑った。
夢に向かっていても、何か物足りなく感じて。
ノートには、記憶を無くしていた間の日記。
今までのことを思い出した代わりに、記憶喪失の期間は靄がかかっていて。
それに書かれていた私に会いたくて、此処で待っていた。
彼女とは別れた。何か違うと思った。
私を見た瞬間、全部思い出した。
だから私は"運命の輪"なのだと。
それを聞いた私は笑って答えた。
それなら貴方は"太陽"だね。
貴方は、力強い羽根を背負っていた。
そして私に夢と希望をくれたから。