第五話:七海家の母親
「ただいまぁ~」
「あ、母さん。お帰り今日は早いんだな」
リビングに入ってきたのはビジネススーツに身を包み茶色い髪の毛を腰まで垂らした大人びた女性は仁達の母親である。
「あ、ママァ~」
「母さん、お帰りなさい」
「お帰りぃ~」
「ん、お帰り」
上から夢、雛、雪、霞である。母はハンドバックを置くとゆっくりとした動きでソファに座る。
相当疲れも溜まっているのか上を見て小さく溜息を吐く。
だが、優しい母はすぐに雪達にニパっと微笑を送ると、手をパァっと広げる。
どうやら“おいで”を表しているものだと思われた。
それを合図に仁以外の四人は一斉にソファにいる母に抱きついていく。
夢は真正面に、雪は右から、霞は左から、雛は少し遠慮気味に隙間を狙っている。
仁だけはその五人を眺めながら小さく微笑んでいるだけだった。
ふと、母親と目が合う。その顔には40代には見えない若々しい笑顔が広がっている。
仕事から帰ってきてすぐ疲れているだろうに、何て優しい母親なのだろうと思った。
「あら、仁は何でそこでぼおっとしてるの? 」
「いや、俺はそういう歳でもないしさ」
「ぼおっとしてるの? 」
「いや、だから...」
「ぼおっとしてるの? 」
「...すいませんでした」
ちょっと怖いところもあるが。
―
七海家には父親がいない。
そのため、母親は毎日朝から晩まで働いている。五人を養うために。
だが、母親が弱音を吐いているところを仁は見たことがなかった。
家の中にいる時はいつも笑顔の彼女。
一度、無理はしなくていいからな、と仁が聞いた時、
どうして? こんなに可愛い子供達に囲まれてるのに、どうして無理なんかするのかしら?
と、本当に分からないというような表情が印象的だった。おそらくそれが彼女の本音なのだろう。
彼女は心から子供達を愛していた。
子供達もまた彼女を愛していたのだ。
だから、こうして滅多に同じ時間に夕食を取れない母親が珍しく早く帰って来たとなるならば
当然、取り合いが始まるのであった。
「どけっ母さんの隣はこの私だっ!! 」
必死に雪を席からどかそうとする霞。
「いいや、私よっ!! なぜならいつもはここが私の席だからっ」
霞の攻撃に必死で防御する雪。
「じゃあ、私はこっちに座ろっかな」
そう言って、雪達と反対方向の椅子に座ろうとする雛。
「ずるいよ雛ねぇ。ボクもママの隣がいいの」
そう言って、雛の手をがっちりホールドする夢。
普段は我が侭をいう子ではないのだが、この時は例外であった。
「あらあら、どうしましょうかしら、ウフフ」
そう言う母親の顔には笑顔が零れていて、全く困ったという感じではなく、とても幸せそうであった。
少しの間、仁はそっと見ていたが収まる様子もないので声を掛けてやることにする。
「おい、早くしないと夕食が冷めるぞ。公平でじゃんけんで決めたらどうだ」
暫し沈黙。みんなの動きが止まる。どうやら、みんな考えている様子だった。
「それもそうだな。じゃんけんにするか」
霞が一番に声を出す。その声に倣って次々と賛成の声があがる。
それを聞きながら仁はキッチンに行く。いや、行こうとしたが不意に母親の声に足を止められた。
「仁はやらないの? 」
「いや、俺は別にどこでもいいかなって」
「やらないの? 」
「いや、だから...」
「やらないの? 」
「やります、いや、やらせて下さい」
―
「うん。相変わらず仁の夕食は美味しいわぁ」
「何だよ改まって」
「...嬉しそう」「顔が赤いぞ」
恨めしげな目で目の前から睨んでくる姉二人。
「いや、別に嬉しくなんて...」
「嬉しくないの? 」
横から飛んでくる母の声。すごく寂しそうな声だ。
「いや、すごく嬉しいです」
仁にここで嬉しくないなどと万が一にも言えるはずがなかった。
多分、笑顔が引きつっているだろうなと思った。
「よかったぁっ!! 」
まるで、今この瞬間、この世の幸せが全て私に降り注いでいるんだわ、みたいな感じで言う母に仁は微笑まずにはいられなかった。
「...嬉しそう」「蛸みたいだぞ」
前から飛んでくる姉二人の野次には耳を貸さないようにしよう。そう思う仁であった。
「ママこれねボクも手伝ったんだよ」
母の隣に座る夢は傍らにあるハンバーグを指差して恥ずかしそうに言う。
「まぁっ!! これも美味しいわぁっ!! 夢は将来きっといいお嫁さんになるわねぇ」
そう言って夢の頭を優しく撫でてあげる。
「えへへ、そうかなぁ~」
母親に優しく撫でられている夢の顔は今日一番の笑顔だと思う仁であった。
「雛もいつも朝食にお弁当ありがとねぇ」
「うん、どういたしまして」
母親に褒められた雛もこれまた今日一番の笑顔を浮かべる。
「...料理ができるから何だってんだ。ねぇ姉さん」
「よく言った雪。大体、料理ができる女=良いお嫁さんなんて図式はもう古いんだよ」
また飛んでくる魔の手。
二人だけなんだか別のオーラに包まれているように見える気がした仁であった。
「母さん、私達も何か褒めてくれよ」
母は一瞬、うーんと唸ると、
「霞はいつもこの子達の面倒見てくれてありがとね」
「おぉよ。全く世話の焼けるやつらだからなぁこいつらは」
そう言って、照れくさそうに笑う霞。アンタが言うな、アンタが、と心の中で突っ込む仁であった。
「母さん、私は? 」
母は今一度、うーんそうね、と言うと、
「雪はいつも楽しそうよね」
「そりゃそうよっ!! 人生、めっちゃ楽しいぜい!! 」
雪は立ち上がって、大声で叫んで喜びを表した。
おい、それ褒められてるのか? 褒められてるのか? と、仁は心の中で疑問をぶつける。
そんなこんなで楽しい夜会は終わりを告げる。
―
「どうしたの? 母さん」
仁は夢を寝かしつけた後、リビングのソファで一人佇む母親を見つけて声をかけた。
「あら仁、みんなはもう寝たの? 」
「霞姉さん以外は多分ね」
「そう」
そう言って、小さく溜息を吐く母親を仁は見逃しはしなかった。
「どうかした? 」
「ううん別に。私は幸せ者だなあって」
「どうして? 」
「家に帰ったら、夢がいて、雛がいて、雪がいて、霞がいて、あなたがいて」
それから母はよいしょっとソファから立ち上がって、
「みんなが笑顔で迎え入れてきて、私は世界一の幸せ者ね」
そう言って母はニッコリ笑った、いつも道理の暖かい笑顔だ。
「いや、母さんは世界で二番目さ。なぜなら一番はこの俺だからな」
そう言って微笑みを返してやる仁。
「仁・・・」
「よくそんな恥ずかしい台詞易々と言えるわね。お母さん恥ずかしいわぁ」
「え・・・母さん? 」
いきなりの言葉に呆気にとられていると、母の顔が真っ赤なことに気づく。
「まさか、母さん・・・」
そこまで言って母の傍らに置いているビールの空き缶の山を見つける。
酔ってるぅぅぅぅぅぅ。
「ふにゃふにゃ...」
そして母はソファの上で幸せそうに寝息を立てていました。
そんなこんなで酔った母親を寝かしつけて終わる。
「ちょっと決まったと思ったんで、本気でショックです」