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霧笛令嬢の婚約者は私の失敗にも耳を貸す

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/11/06

 婚約者が差し戻した書類には私の名前より大きな文字で「夜間試験不可」と書いてあった。三日前に貸したばかりの赤いインクだったので余計に腹が立つ。私は書類を机へ広げたまま窓を開け、下の波止場を歩いていたダリオを呼び止めた。


「あなたが読めと言った過去五年分の記録は読みました。事故の起きた日も調べました。それで次は何が足りないのですか。紙なら棚にまだありますけれど」


 彼は顔を上げたが大声で返事をしなかった。港湾測量官の上着を腕に掛け直して信号所の階段を上がってくる。私は窓を閉める前に一度だけ深呼吸し、机の上の婚礼用の布見本を引き出しへ押し込んだ。


「霧の出ていない夜に長い音を三回。これを新しい信号の試験だと知らない船が聞いたらどうしますか。岬の沖には夜も船がいます。僕が止めたのは試験の内容ではなく、その日程です」


「ではいつならできますか。私が嫁いで責任者を辞めた後?」


 言ってから布見本の角が引き出しに挟まっていることに気づいた。彼もそこを見た。私たちは半年後に結婚する予定で、王都から一緒にこの町へ戻ることまでは決めているのに、私は何かを断られるたびにそれを持ち出してしまう。


 ダリオは書類を指で押さえて私を見た。濃い茶色の髪は海風で乱れ、片方のそでには白墨が付いている。礼服姿で並んだ肖像画なら大人しく収まる人なのに仕事の話では私の機嫌を取らない。


「イネスが結婚してもこの仕事を続けることには賛成しました。今回の申請にも賛成したと書くために、足りない所を確かめたいのです。僕の署名は祝福の印ではありません」


 分かっていると答えようとしてやめた。私の書類は父の伯爵印を使えば通せないわけではなかったが、父は領主であって港の船を動かす人ではない。この町の信号所を任されて二年になる私がその違いを分からないふりはできなかった。


 サルの岬には灯台がある。晴れた夜には灯りが沖から見え、陸に近づきすぎた船へ危険を知らせる。ところが秋の霧が出ると真昼でも灯りが包まれ、私は上階の窓から真下の階段さえ見失うことがあった。


 灯りを強くすれば何とかなるという案は何度も出た。私も最初はそれを望んだが、油の量を増やしても白い窓の外は白いままだった。音の信号を加えたいと思ったのは見回り用の鐘を鳴らしたとき、下にいた船員から場所が分かったと礼を言われたためだ。


 それをもっと遠くへ届かせるための低い笛が下の倉庫にある。私の持参金とは別の個人資金で作らせた試作品で、太い木の筒と風を送るふいごを組み合わせてある。まだ正規の航路案内に使ったことはない。


「差し戻しは受け取ります。今日の午後なら一緒に波止場を歩けますか。どこまで知らせればよいか地図の上だけで決めたくありません」


 彼は手帳を開いて午後四時ならと言った。私は忘れないように机の端へ時刻を書いた後で、布見本を挟んだままの引き出しを開けた。青い布には細い折れ目が付いていたが、そのことまで彼のせいにせず指でのばした。


 午後の波止場には干した綱と荷車が並んでいた。私は丈の短い仕事着へ着替えたつもりだったのに、裾を結ぶひもを忘れていて魚の水を避けるたびに片手がふさがった。ダリオは手を貸す前に貸していいかと聞き、私がうなずくと荷のない所で裾を結び直してくれた。


 港務長のベルンは税関の前にいた。私の提案を読んだことはあるが、私に会うと笛の話より先に油代の未払いの話をする。彼が握っている支払いの帳面には信号所だけでなく桟橋や倉庫の修理費も挟まっていた。


「試すのはよろしい。しかし笛を付ければ霧でも出入りできると触れ回られては困ります。去年の港閉めでも商人にずいぶん文句を言われましたからね」


「私は出航を増やしたいのではありません。帰ってくる船が岬の位置を確かめる手段を増やしたいのです」


「それならそのとおりに書いてください。申請の三枚目には霧の日の商いが戻るとありますよ」


 私は口を閉じた。その文章を書いたとき、費用に見合う利点を並べなければ誰も読んでくれないと思った。実際に読んだ人がそこを心配しているのなら、私の意図だけを説明しても仕方がない。


 ダリオは私の代わりに言い訳をせず、港閉めの条件を記録した紙を借りたいと申し出た。ベルンは明日の朝に用意すると答え、船乗りが集まる食堂にも話をしておくよう念を押した。彼が去ってから私は手帳の余白に商いの文を消すと書いた。


「そこまで悪い文章ではありません。得られるかもしれない利点と、すぐできることが同じ段にあっただけです」


「今は慰めるときではありません。あとで直した文章を読んでください。そのときによかったら褒めてくださって結構です」


 彼が笑ったので私も少し笑えた。昼の間に絶交したくなるほど腹が立った相手と、夕方には紙の書き方で笑っている。婚約を決めたころは私たちももう少し体裁のよい話をしていたが、最近はこんな日が増えていた。


 食堂にいたマルタは私たちの席を一つだけ空けた。五十八歳になる引退船長で、丈夫な肩を持ち、片手で湯のみを包む癖がある。私は隣の椅子を借りて二人で座ろうとしたが、彼女はまず令嬢だけと言ってダリオを厨房の方へ追いやった。


「婚約者と来るとお前さんはあの人に説明してもらった顔になる。今日は自分の言葉で聞きたいんだ。笛をどこで聞いた?」


「倉庫と階段の下です。一度だけ裏の丘でも。けれど実際の霧の沖ではまだ聞いていません」


「なら私も一度聞こう。ただし聞こえたという返事が欲しいだけなら来ないよ。耳の具合も座る位置も人によって違うからね」


 私が欲しがっていたのは確かに賛成の声だった。筒を作った職人の代金は支払い済みで、手元の残金からは二度の試験と一度の改作までしか出せない。失敗を探す人を乗せればその一度がすぐ消えそうで怖かった。


 それでも私はマルタに頼んだ。彼女はその場で引き受けず、翌日の午後に自分の足で倉庫へ来ると言った。厨房から戻ってきたダリオの手には三人分のスープがあり、私は彼が私の聞かれたくない話を聞かなかったことにほっとしていた。


 翌朝は晴れた。笛を外へ運ぶために私と信号所の当番が二人で筒を持ち上げると、思っていたより重くて三歩で下ろすことになった。書類では設置場所を簡単に変えられると書いたが、足元の悪い岬で軽々動かせる品ではない。


 当番は昼の業務へ戻り、私は倉庫に残って台を確かめた。作った職人はふいごの革を替える用事で隣町に出ている。頼めば明後日には戻るという手紙が来ていたので、今日の試験は今ある形でどこに問題が出るかを見ることに決めた。


 午後に来たマルタは筒を眺めた後で結び目を触った。彼女は笛の作り方を知っているわけではないが、台が雨で滑るのではないかと聞いた。私はぬれた板を持ってきて試し、片側を押すと台がずれたので位置を示す線を引き直した。


「紙に書かないのかい。失敗したことは早く書かないと、そのうち最初から分かっていた気になってしまうよ」


「書きます。今は少し残念がる時間をいただけませんか。この脚だけはよくできたと思っていたんです」


 私は手帳を開いて滑り止めが必要と書いた。マルタはそれ以上せかさず、昼食に包んできたパンを半分差し出した。私は昼を食べ損ねていたので断らずに受け取り、机代わりの箱へ粉を落とさないように食べた。


 最初の吹鳴は知らせの行き届いた陸上だけで行った。港の掲示板と食堂に時刻を出し、岬の仕事をする人にも伝えてある。ベルンは沖に出ている船への周知が済んでいないので、港内から出ないよう当日の船へ申し送りをした。


 私はふいごを動かした。筒が低く震えて腹に響く音が出る。立っている場所では耳をふさぎたくなるほどだったが、マルタは音の終わった後に裏の壁へ回り、そこからもう一度吹くよう求めた。


 同じ音を出したつもりなのに彼女の返事はなかなか来なかった。私は壊れたのかと思って筒の口をのぞいたが、マルタが帰ってきて首を振った。音は聞こえたものの、倉庫のどちら側で鳴ったか決めにくかったと言う。


「大きいのと場所が分かるのは別の話だよ。鐘でもそうなる。海へ出たらもっと間違えるかもしれないね」


 私は聞こえなかったとは言われなかったことにすがりたくなった。けれどマルタは間違える可能性をわざわざ話すために来た人だ。手帳に方向を誤ると書き、次の行に壁の反射か地形か未確認と続けた。


 ダリオが来たのは試験が終わった後だった。私が二つの問題を話すと彼は台の線と壁の位置を見て、自分の地図にも印を付けた。彼は改善できるともできないとも言わず、海からの試験で比較する点が増えたと答えた。


「面倒だとは思いませんか。私が始めなければ今日も灯りの手入れだけで済みました」


「面倒です。だから手を貸す人数と時間を決めたい。僕も毎晩は来られませんし、イネスが寝ずに全部を引き受けるのも困ります」


 期待していた甘い答えではなかったが、明日も来てほしいとは頼みやすかった。私たちはベルンに提出する試験表を一緒に書いた。私が欄を広く取りすぎて紙が足りなくなり、彼が裏返そうとする手を止めて別紙にした。


 その晩は邸宅へ帰った。父は領地の会議で留守にしており、食堂には私の食器が一人分だけ用意されていた。給仕に遅れたことをわびて椅子に座ると、昼からためていた疲れで腕を伸ばすのもおっくうだった。


 持参金の相談をした叔母から手紙が届いていた。信号所へ使った分を父に埋めてもらうつもりはないかとある。私はないと返事を書き、結婚後の暮らしに使う金と試験の残金を別の封筒へ入れ直した。


 ダリオからの小さな包みもあった。開くと赤いインクと手紙が一枚入っている。借りた分を返す、今度の訂正は自分のインクですると書いてあって、私は食べかけのパンを皿へ戻してしばらく笑った。


 沖で試す日までに四日かかった。職人が戻って台へ留め具を加え、ベルンが出入りする船と沿岸の村へ試験の予定を告げた。日中の限られた時間に短い試験音を鳴らし、正規の航路信号としては使わないことを繰り返し伝えた。


 試験に使うのはマルタの古い小船だった。今は港の作業に貸している船で、船頭を一人頼み、私とダリオが乗る。信号所には職人と当番が残り、あらかじめ決めた時刻に鳴らすが、船からは聞こえた場所と時刻を記録するだけで音に従って航行しない。


 私はその条件を読み上げるときに息が切れた。安全な岸寄りを回ること、視界が悪化したら戻ること、灯りと水先案内の代わりにしないこと。笛を試すのに笛を信用しないという説明は、初めて読む人には分かりにくいかもしれなかった。


「信用する範囲を決めるために試すんです。まだ分からないことを船頭の勘へ押し付けない。これでよいと思います」


 ダリオはそう言って紙を船頭に渡した。マルタは岸で待つと言い、帰ったら二人別々に聞くから話を合わせないようにと付け加えた。私たちは子供扱いされる年ではないのに、二人でうなずいてしまった。


 最初の地点ではよく聞こえた。私は手帳に丸を付けたくなったが、先に書くと彼の記録が見たくなるので船の反対側へ体を向けた。海は晴れて岬の形が見えており、笛がなくても位置は分かる。


 次の地点で音が細くなった。三つ目では波の音に重なり、最初の一音が終わるまで私は笛だと気づかなかった。ダリオが記録を取る姿勢を見て慌てて耳を澄ませたので、自分が独力で気づいたと書くことはできない。


 帰港後に記録を並べると私の方が聞き落としが多かった。ダリオは私を気遣った様子で紙を伏せたが、私は裏返して全部見せてほしいと頼んだ。彼は謝り、船の左右で条件が違った可能性もあるから位置も残そうと言った。


 私は自分が聞こえるから他人にも届くと思っていた。音を扱う仕事を始めたいのに、その違いを試すまで忘れていたことが恥ずかしい。マルタは二人の紙を読み、午後は乗る側を替えてみるとだけ提案した。


 同じ場所で聞こえたり聞こえなかったりする結果は劇的ではなかった。笛はすばらしいとも役立たずとも言えず、手帳には丸よりも条件付きの言葉が増えた。私はどちらかの判定が出れば楽なのにと思いながら、午後の分の紙を足した。


 帰りにダリオが岸へ先に上がり、私へ手を伸ばした。私は手帳を渡してからその手を取ったが、ぬれた裾が足に絡んで膝を桟橋へついた。痛いより先に記録が海へ落ちなくてよかったと思い、次に彼があまり真剣な顔をしているのがおかしくなった。


「けがはしていません。今の失敗は試験表には書かなくてよろしいでしょうか」


「裾を短く結ぶとだけ書いておきます。僕が先に上がったのもよくなかった」


 彼は私を引き上げた後で手帳を返した。私は表紙の乾いた所をなで、そこに私の名と彼の名が並んでいるのを見た。私の計画だと思っていたものに彼の間違いも加わり、返してもらうと前より厚く感じた。


 問題は翌日の午後に起きた。私は試験結果を整理するため倉庫へ行き、留め具の締まり方を職人に見てもらっていた。陸上だけならもう一度音を確かめても支障はないと思い、短く一度だけ吹いた。


 それは告知した試験の時間ではなかった。沖の船が向きを変えたかどうか私には見えなかったが、港内の荷揚げ場で何人かが手を止めた。すぐにベルンがやって来て、許可した時間を聞き違えたのかと尋ねた。


「私が頼みました。職人さんには関係ありません。音が短ければ平気だと思ってしまいました」


「平気かどうかをあなた一人で決めないための告知でしょう。次の試験は一度止めます。何が起きたか確認するまで笛に触らないでください」


 私は言い返さなかった。職人は作業台の上に手を置いたままこちらを見ており、私の依頼を断るべきだったと考えているのが分かった。彼に謝って倉庫の鍵をベルンへ渡すと、腰のあたりが妙に軽くなった。


 その夜にダリオへ送るはずの試験表を書けなかった。紙には昨日の聞き落としの数が残り、その下へ今日の無断吹鳴を書けば計画が終わるように思えた。だが書かなければ彼は私の知らない所で話を聞き、私に確かめに来ることになる。


 私は事情だけを短く書いて彼の宿へ届けてもらった。返事を待つ間にもう一枚の紙へ、関係する船と荷揚げ場への確認、告知から外れた原因、再発を防ぐため鍵を一人で持たない案を書いた。どれも許してもらう約束にはならない。


 ダリオが来たのは夕食の後だった。彼は紙を読んだが私の前には座らず、椅子を少し離して自分で座った。私は彼が怒っているのだと分かり、普段なら言わない婚約の話をまた持ち出しそうになった。


「僕が心配していたことを分かってもらえたと思っていました。試験がうまくいかなかったから、一度鳴らして安心したかったのですか」


「そうだと思います。台を直せばもっとよくなると信じたかった。知らせる手間を惜しんだというより、確かめるのを待てませんでした」


 彼はしばらく返事をしなかった。私は謝罪の言葉を足そうとして口を閉じ、机の紙を彼の方へ押した。彼が読んでくれる時間まで奪って、私の気持ちを聞かせ続けるのも違う気がした。


「一緒に港務所へ行くことはできます。でも僕からベルンを説得すれば済むとは思わないでください。再開できるかどうかも今は分かりません」


「はい。その返事ならありがたいです。けれど今夜はもう少しここにいていただけますか。仕事の話が終わったら帰ってしまうのは、今日は嫌です」


 彼は初めて私のすぐ横の椅子へ移った。私は差し出された手に指を置いたが、自分から握るまで少し時間がかかった。許可も成功もまだ戻らないまま、彼と夕食の残りの焼きりんごを分けた。


 港務所へ行ったのは二日後だった。ベルンは幸い事故や航路の混乱の報告はなかったと告げたが、それは私が正しかったという意味ではないとも言った。私は調べてもらった費用を信号所の公費へ回さず、自分の試験費から負担したいと申し出た。


 彼は金で片付ける話ではないと答えた後で、確認の人手に掛かった実費は別に計算すると言った。私はうなずき、再開の条件を聞く前に無断で鳴らしたことを報告書に残した。自分の名は省略せずに書いた。


 ダリオは私が説明し終えるまで口を挟まなかった。その後で試験の目的を二つに減らそうと提案した。一つは聞こえる範囲の条件を調べること、もう一つは運用する人が無理なく扱えるかを見ることだった。


「霧の日の船を助けることを削ってしまうのですか。そこがなくなったら何のための試験か分からなくなります」


「目的から消すわけではありません。今回の二日で確かめられない成果を判定欄に置かないんです。何を見れば試験を終えられるか決めておきたい」


 私は地図を見下ろした。笛が届けば海からの不安が減るはずだと思っていたが、不安が全部消えるかどうかを二日で調べる方法はない。音が届く場所と届かない場所、誰が聞き落としたかを記録するならできる。


 ベルンは期限を区切った再試験なら港の会議へ出せると言った。ただし今度は陸上の連絡役を私とは別に置き、予定外の吹鳴は職人の判断でもしない。私は鍵を預けることに同意し、自分だけが使える道具ではなくなるのを受け入れた。


 会議は五日後に開かれた。私には長く感じられたが、その間に職人の改作が終わり、マルタが試験船に乗る人を二人見つけてくれた。二人とも耳がよいからではなく、聞こえなければ聞こえないと答える人だから選んだと言った。


 私は会議で失敗の経過から話した。父の伯爵印は使わず、責任者としての署名だけを添えた。商人の一人は笛のために足止めを食うのかと尋ね、私は今回の試験日に限らず濃い霧では港を閉める方針は変わらないと答えた。


「笛を付けるのに閉めるのでは金の無駄ではないか」


「閉めた後にも戻ってくる船があります。その船が岬へ寄りすぎないよう手がかりを増やせるか調べたいのです。ただし音だけで入港させる計画ではありません」


 すべての人が納得した顔ではなかった。私は同じ説明を言い換えて延ばすのをやめ、試験に使う時間と費用、失敗した場合に撤去できることを示した。ベルンが試験結果を港で共有すると補足し、二日間の許可が決まった。


 会議を終えると足の裏が冷たかった。椅子に座っていたのに力を入れ続けていたらしく、立ち上がったときにつま先が少ししびれた。ダリオが私の紙をまとめたので私はそれを半分取り返し、一緒に持って階段を下りた。


「あなたが私の代わりに説明したくなった所はありましたか」


「三度ほど。イネスが言い終えるより先に口を開きそうになりました。最後まで待ってよかったと思いますが、僕も簡単ではありませんでした」


 私は彼のそでを引いた。誰も見ていない場所へ移るためだったが、彼は階段で何か落としたのだと思って足元を探した。こういう間の悪さまで含めて私の好きな人だと思い、踊り場で一度だけ彼の頬に口づけた。


 再試験の初日は風が強く延期になった。許可は二日間だが悪天候による振替日はあらかじめ一日だけ認められていたので、私はベルンへ連絡して待った。以前ならふいごだけでも確かめたいと言ったはずだが、今日は倉庫の鍵が私の手元にない。


 何もできない日にするのは惜しく、担当者を集めて記録用紙の読み方を確認した。私の字が細かすぎるという指摘があり、私以外の人が書ける大きさへ枠を広げた。当番の一人は夜の勤務の後に試験まで出るのは厳しいと言い、交代の人へ頼んだ。


 その場で全員の仕事が増えることも分かった。筒が一つ増えるだけだと思っていた私の考えでは足りず、革の手入れと連絡の当番を別に見積もる必要があった。私は翌年の予算案へ勝手に金額を書き込まず、まず実際に掛かった時間を記録してもらった。


 振替日は薄い霧だった。視界が悪化すれば戻る条件のまま、見える陸標のある岸寄りで試験を始めた。私は陸の担当に残り、ダリオがマルタたちと船に乗ったので海側の結果は帰ってくるまで分からない。


 時刻になって職人がふいごを動かした。私は横で数を数えたが、思っていたより長く感じて途中で指を折り直した。一人が疲れても続けられるよう交代し、終わった後の息の上がり方も記録した。


 船が戻ると一番年長の船員は聞こえた場所を指し示した。別の人はその場所では聞こえず、少し戻った所で気づいたと言った。マルタは二人の話をそのまま書き、どちらかを正解にして消すことはしなかった。


 ダリオの紙には一箇所だけ時刻が抜けていた。彼は時計をのぞいたときに手帳を閉じてしまい、次の記録と取り違えたと言った。私はその欄を空白のままにして、彼が口にした事情を余白へ書き加えた。


 以前なら測量官の記録なのだから信頼できる時刻を推して埋めたかもしれない。今日は分からない所が分からないまま残っていても、その前後に使える記録がある。彼は余白を見て礼を言い、私の冷えた指に温かい湯のみを渡した。


 二日目の試験が終わっても笛の置き場所は一つに決まらなかった。壁の近くでは音が紛れやすく、広場の方へ出すと風雨から守る小屋が要る。私は一番よい案を一枚にまとめるのをやめ、費用と弱点を添えた二つの案を港へ出した。


 採用されたのは広場の端へ仮の小屋を置く方だった。期間を三か月に限り、灯りの運用と港閉めの基準は保ち、水先案内と組み合わせる。霧笛があれば船が自由に出入りできるという宣伝はしないと書き添えられた。


 私の失敗も報告書に残った。読む人の中には令嬢に任せるからだと言う人がいるかもしれないが、その想像のために名前を消すことはできなかった。私は提出前の紙を父にも見せ、返ってきた「承知した」の短い返事を机にしまった。


 仮の小屋ができた日にはマルタも見に来た。彼女は板壁へ手をつき、こんな所へ茶を置いたら振動で落ちるねと言った。私は茶を飲む台を別に置くと答え、笛より先に湯のみの置き場所を決めることになった。


 ダリオは小屋の入口でしばらく待っていた。仕事の書類を持っていないので私は急いで片付けようとしたが、彼はその前に今日の終業時刻を尋ねた。私は予定表を確かめて五時と答え、過ぎそうなら誰へ引き継ぐかも確認した。


 五時を少し過ぎて二人で岬の道を下りた。私は仕事着のままで彼もそでをまくったままだったが、港の食堂ではなく丘の上の店で食事をする約束をしていた。風が弱く、試験日には見えなかった沖の船が何隻も見えた。


「婚礼の布ですが、青い方がよいと思います。あの日に引き出しへ挟んでいたものです。今からでも言って間に合いますか」


「間に合います。ただし私が白い方を選んでも不機嫌にならないでください。それからあの布は仕事用の幕ではありませんので、汚れに強い方という決め方は禁止です」


 彼は真顔で検討していたと認めた。私は笑いながら彼の腕へ手を掛け、店までの短い上り坂を歩いた。結婚後に住む家はまだ家具の位置が決まっていないし、彼も私も仕事で帰りが遅くなる日がある。


 私は試験のときのように条件を先に並べたくなったが、今日は一つだけ尋ねた。私が何かを隠していそうなときには問い詰める前に一緒に食べてくれるかと。彼は食べた後でも質問はすると答え、それならと私は次の約束をした。


「あなたの記録に空白があっても勝手に埋めません。私に聞いてほしいことは言葉にしてください。読めない字のときもそう言います」


「それはぜひ。あと僕が黙っているときに全部反対だと思うのもやめてください。先ほどから考えているのは婚礼の料理です」


 店の前で私は立ち止まった。扉の内側から魚を焼く匂いがして、昼に食べた硬いパンのことを思い出した。私は今日の魚があるか聞いてから決めたいと答え、彼は自分の食べたいものも先に聞くと言った。


 三か月の試行を終えた冬、霧笛の運用は港の正式な仕事になった。聞こえない条件もあることと、笛を頼りに出航してよいわけではないことは掲示に残った。私は二人目の担当者へ鍵を渡し、全部の当番を自分で埋めていた予定表を直した。


 婚礼の朝は晴れた。青い布の服を着た私のもとへダリオが来て、緊張のせいで自分の留め金が曲がっていないかと聞いた。私は曲がっている所を直し、私の髪の後ろも確かめてほしいと背を向けた。


 彼の指が一度止まった。飾りが外れたのかと尋ねると、上手に付いているので触らない方がよさそうだと言う。私は鏡を彼に持ってもらって自分で確かめ、最後の一本だけ差し直した。


 扉の外では父が時間を気にしていた。私は机の上の手帳を持ちかけてやめ、今日は引き継いだのだと思い出した。ダリオも胸ポケットを確かめて測量用の鉛筆を置き、私と腕を組み直した。


「帰りに信号所へ寄りますか」と彼が聞いたので、私は首を振った。今日は先に二人の家へ帰って食事をする。そう答えると彼は朝から空腹だったと白状し、私は式の後まで待てる分のパンがないか父に聞きに行った。


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