羊が一匹
【1993年8月13日の手記】
――凍えるような肌寒い夏。
私は過去に占い師として活動し、後にセラピストの真似事のようなことを生業にしていた頃、ある一人の女性と面会する予定があった。
だが直前にキャンセルされ、理由も問わずに放置していたが、友人から聞いた話によると、どうやら彼女はビルから飛び降りて自殺を図ったらしい。
幸いなことに彼女は一命を取り止め、しばらく病院のお世話になっていたとのこと。
「どうして面会に来なかったの?」
……彼女に私を紹介した友人に尋ねた。
返って来たのは意外な答えである。
「どうせ信じてくれないから、だってさ」
私は一瞬だけ「は?」と思ったが、さらに問い続けると、彼女の異様な性質が浮き彫りとなった。
「あの子はね、人の心が読めちゃうんだって。それを苦にしての自殺未遂」
その話を聞き、私はまたかと陰鬱な気持ちになる。
明らかに精神を患っている兆候があり、そうした人間は度々「人の心が読める」だのと妄言を吐くのだ。
先にも述べた通り、私はあくまでセラピストの真似事に留まっているため、専門性が要求される精神科医ではないのである。
私は内心でホッとし、彼女が面会をキャンセルしてくれたことを密かに感謝した。
――だが問題はその後に起こる。
友人と会った3日後、なぜか彼女が突然、私の事務所を訪れたのだ。
しかも病院から抜け出したのか、着ていたのは私服ではなく、なんと患者衣のままであったため、私は警察を呼ぼうかと慌ててしまう。
「大丈夫です、少しの時間だけ私の話を聞いてください」
状況が状況だけに冷静さを失っていた私は、ドア越しに「お帰りください」と何度も懇願する。
相手は極めて精神が不安定であり、下手をすると危害を加えられる可能性もあるため、迂闊に部屋に入れることはできない。
……しかしながら、彼女は至って落ち着いた様子で「大丈夫です」を繰り返した。
「どうして今さら私を頼るんですか? もっと専門性の高いお医者さんが、あなたを診ているはず」
「あの人たちも私の言うことを信じてくれませんでした。でも、あなたなら信じてくれると思ったんです」
「……その根拠は?」
「私が面会に来なかったことを感謝したから」
私は内心でギョッとし、恐る恐るドアを開けて彼女を招き入れた。
その後、彼女を机を挟んで向かい側に座らせ、しばらくお互いに黙ったまま見つめ合う。
だけど、私の心臓はバクバクと音を立てている。
身体検査をすべきだろうか?
警察を呼ぶべきだろうか?
私の命もここまでだろうか?
――そんなことばかりが、脳裏をよぎるのである。
「落ち着いてください」
私は彼女の一言でハッとする。
そして腹を据え、気まずい沈黙を破るかのように質問を始めた。
「……私に話を聞いて欲しいの?」
「そうです。まずは私の生い立ちから聞いてください。これを話しておかないと、なにも始まりませんから」
……彼女の話はこうである。
自分の父親は女遊びが激しく、また母親も同様に男遊びが激しかった。
そんな両親を持ったために、彼女は「重たい神様」を背負って生まれて来たと言う。
彼女の言う「重たい神様」は名前が明確になってはいないが、その神様の影響によって人の心が読める力が自然に備わったらしい。
当然ながら、父親には幼い頃より気持ち悪いと罵られ、母親には育児を放棄され、愛情を受けぬままに今の年齢(19歳)に至ったとのこと。
(これは精神を患ってもおかしくはないわね……)
私はそう思い、質問を続けようとすると、彼女はこう答えを返した。
「いえ、私は精神を患っている訳ではないんです。あなたはそう思いたいでしょうけど」
私はまたしてもギョッと思い、彼女の不可解な能力に怯え始める。
「怖がらなくても大丈夫。もう慣れてますから」
「慣れってるってどういう意味? あなたは私たちの心の声が聞こえるの?」
「……そうです。壊れたラジオのノイズみたいに聞こえるの。街中とかを歩いていると、それはもううるさくてうるさくて」
「それは、あなたの言う重たい神様のせいなの?」
「うん、そうだと思います。だから、私はその神様を探しに日本各地を歩いて回りました」
幸いなことに家庭は裕福だったため、彼女は父親から頻繁に小遣いをもらい、自由に国内を旅することができたらしい。
だがそれは裏を返せば、不気味な娘を遠くへ追いやりたいという意図が含まれている。
そんなことも心が読める彼女にとっては計算の内だった。
「ほとんど学校も行かず、日本の色々な場所をフラフラと一人で歩いたんです」
「本当に一人で? ずいぶんと物騒な話だね」
「平気です。悪い想念が寄って来るのは、事前に分かりますから。男の人が下心を出しても、逃げられる自信があるんです」
私は彼女の話を聞いて頭がクラクラしたが、そんな気持ちを他所に、話はさらに続く。
「それから見つけることができたんです。和歌山県で」
「……それって重たい神様が?」
「そうです。あそこは主を失った神様が、たくさん棲み着いていますから。だから質問してみたんです。私の能力はいつまであるのかって。本当に苦しかったから、すぐにでも手放したいって」
「その答えは?」
「……おまえが死ぬまでって言われちゃった」
私は目を閉じて「う~ん」と唸り声を上げた。
どこまで信用していいのか分からないが、嘘を吐いているようには見えない。
「その神様が言うには、おまえのような力は、大昔にすべての人間が持っていたって。だけど、欲望が勝って自然と閉じてしまったと嘆いていました。時々、思い出させるために、おまえのような者を世に遣わすんだって」
「そんな話……信じる訳ないでしょ」
「そうですか? だけど、あなたは私の話を信じたくなると思います。あっ、どうやら病院の人がこっちに向かっているみたい。お願いですけど、あなたの服を貸してくれませんか? 身長も同じくらいだし、こんな姿のまま表を歩けないんで」
理不尽な要求だが、すぐにでも帰ってもらいたかった私は、クローゼットから何着かの私服を出して彼女に手渡した。
「ありがとうございます。もう会うことはないけど、この御恩は決して忘れません」
「あの……また一人でどこかへ行ってしまうの?」
「心配しないでください。ずっと一人だったから慣れちゃいました。きっとね、これからもずっとそう」
「い、いや……慣れちゃったとか、そういう問題じゃなくて。ちゃんと社会復帰できるよう、私が信頼できる人を紹介しようか? それだったら力になってあげるけど」
「だってあなたは……ずっと眠っていたいんですよね。私なら大丈夫ですから」
彼女は微笑みを浮かべると、足早に事務所を後にした。
その数分後、彼女をお世話していた病院のスタッフが現れ、どこへ行ったのか根掘り葉掘り聞かれることになる。
当然ながら、彼女がどこへ行ったかなど知る由もなく、病院のスタッフは早々に立ち去ってしまった。
……あれから数年後、去り際に彼女の言ったことが思い出される。
「ずっと眠っていたいんですよね」
その言葉がどういう意味なのか、私には未だに分からない。
後で聞いた話なのだが、彼女の自殺は自作自演らしく、発見された時はかすり傷一つなかったらしい。
なぜそんな行為に及んだのか病院スタッフも分からず、もしかしたら私を試すためにそんなことをしたとか?
――いずれにせよ、真相は闇の中で彷徨ったままである。




