【思考実験】ID(改稿版)
いらっしゃい。
私はこの実験室の案内人「チトセ」です。
ここは、あらゆる人が思考実験の餌食……いえ、被験者となっていただき、一緒に考えて頂く場所です。
今回は初めての試みですので、私が直々に手を下し……って、そんな物騒な事しませんよ?
今回の実験は、「テセウスの船」よ。
――部品を1つずつ交換していって、完全に全ての部品が入れ替わっても、それは元の船といえるのか?
という実験です。
さぁ、はじめましょう。はじめましょう。
1day
「初めまして、チトセさん。あなたの担当カウンセラーになった、カナエです」
真っ白い閉鎖空間。
決して広くはないが、狭くもない。
部屋の真ん中は透明なガラスで仕切られており、向かい合うようにイスが置かれている。
窓はなく、ドアがお互いの背後にひとつずつついている。
長い真っ黒なストレートヘア。それとは対照的に、透けるような真っ白い肌。無機質な表情を浮かべ、じっとカナエを見つめている。
――チトセだ。
「チトセさん。あなたは昔、大きな事故に遭い、脳死状態になりました。ですが、奇跡的に意識を取り戻し、日常生活もできるようになりました。後は、人間としての感情を取り戻すだけなのです。わかりますか?」
チトセは表情一つ変えない。
「チトセさん。落ち着いて。……あなたのその混乱は、記憶の『欠落』を埋めようとする防衛反応に過ぎません。何か話をしませんか? 例えば、やってみたいこと……とか?」
『テセウスの船』
チトセは一言だけ、静かに呟いた。
「テセウスの船? それって、あの思考問題の? 船の部品をすべて取り換えても、その船は元と同じ船であると言えるのか? ……っていう、あれ?」
チトセは静かにゆっくりと頷く。
「……よく知っていますね、チトセさん。今のあなたにとって、自分の失われた記憶や入れ替わった感覚が、その『船の部品』のように思えるということかしら?」
カナエは、手元のカルテに『知的好奇心・メタ認知能力の保持』と素早く書き込んだ。事前に「会話は不能」と伝えられていた為、目の前の患者が「話が通じる相手」であることに、無意識の優越感と安堵を覚えたのだ。
「先生」
チトセが、初めてカナエを『役割』で呼んだ。
「……何かしら」
「今、あなたが言った『入れ替わった感覚』という言葉。それは、三年前の春、あなたが大学の卒業論文で引用した、フーコーの精神医学批判の一節ですね」
カナエのペンが、ピタリと止まる。
「……えっ?」
「あなたの喉の震え、息を吸うタイミング。それは、あなたが心酔していた教授の癖を、そのまま『部品』として使っているだけです。……先生。今喋っているのは、本当に『あなた』ですか?」
チトセの無機質な瞳が、ガラス越しにカナエの輪郭をなぞる。
「どういう……こと?」
チトセが理解不能なことを言い、カナエに動揺が走る。
チトセは軽くため息をつくと、丁寧に説明をし始めた。
「人間の記憶は、本当にその人の物なのでしょうか? 誰かが話した言葉、発見したこと。それらを知っただけで、自分の物のように他人に話す。それって、誰かの記憶をそのまま使っていることにならないのでしょうか? そこにオリジナルの自分は存在するのでしょうか?」
「何……言ってるの? 私は、私よ? 私が学んで、自分の血肉にし、私の言葉で発している。ただそれだけよ!」
「いいえ。あなたは、誰かが作った『正解の羅列』を再生しているスピーカーに過ぎません」
カナエの背筋に、戦慄を伴う悪寒が走った。
チトセの口調。
それはまさに「カウンセラー」の響きだった。
「冗談はやめて。私は、あなたを救いに来たのよ、チトセさん」
カナエの声が、わずかに上擦る。プロフェッショナルな仮面の下で、防衛本能が警鐘を鳴らしていた。
「『救う』……。救済という概念。それこそ、あなたが依って立つ最大の『借り物』ですね」
チトセは椅子から立ち上がり、ガラスに指先を触れた。
キィ――
鼓膜を削るような音が響く。
「例えば、あなたが私に向けるその『慈愛に満ちた眼差し』。それは、あなたがかつて自らカウンセリングを受け、その時に受けた『慈愛に満ちた眼差し』。……その誰かのまなざしをあなたは、『カナエ』というフィルターを通して個を捏造している。そして、同じように私がその『慈愛に満ちた眼差し』を誰かに向ければ、それは私ではなく、私を通したあなた。今、あなたから貰ったものを再現しているに過ぎない。だから、私はあなたになる」
「違うわ。たとえ私が他の誰かから受けたこと模倣していたとしても、それは私の意志でやっていることだから、それは私であって、その人じゃない」
『違うわ。たとえ私が他の誰かから受けたこと模倣していたとしても、それは私の意志でやっていることだから、それは私であって、その人じゃない』
チトセはカナエのセリフを一字一句間違えずに模倣する。
「真似しないでよ!」
『真似しないでよ!』
言葉に音域も、デシベルも全て全くと言っていいほど同じ。
「ね? 先生。私が今言った言葉。真似じゃないですよ? ただ、先生から受け取った言葉を、私の口から私の意志で言っただけです。でも、先生は私が先生から奪った言葉に不快感を覚えた。先生だって同じこと、してるんですよ?」
カナエはチトセを軽く睨みつける。
「先生。あなたは先ほど、私の事を『脳死から目覚めた奇跡』と言いました。……でも、医学的に見て、今の私は『スワンプマン』に過ぎない。落雷で死んだ男が、分子レベルで偶然再構成された存在。『奇跡』なんていくら言われても、私も偶然脳を再構成されたものに過ぎない。奇跡でもなんでもないんです」
「……何を、言って……いるの?」
「脳ってなんで死ぬのでしょうか? 体は生きているのに。 本当にそれは死んだことになるのですか? 例えば、足が一本亡くなったところで通常、『死んだ』などと言わないじゃないですか。どうして、脳が死んだときだけ、『脳死』っていうんでしょうね? 体の部品が動かなくなっただけなのに。実質、体は動いてるじゃないですか」
カナエはぎゅとカルテを持つ手に力を入れる。
(この子。本当に何が言いたいの? こっちの頭がおかしくなりそう)
「逆に、身体は死んでるのに脳が生きていたらどうなるのかしら? それもやっぱり死んだことになるのかしら?」
「チトセさん。話を戻しませんか? そんな難しい話より、もっと軽い話をしましょう」
だが、チトセはカナエの言葉を無視して続けた。
「もし、今。私の脳を先生の言葉でいっぱいにしたら、私は先生になれると思いますか?」
「なれないわ。だって、顔や体が違うもの」
カナエの額から、冷や汗が流れ落ちる。
――怖い。
ただその感情だけが彼女の心を埋め尽くした。
「そうですか。ならば、先生の言葉を私で埋め尽くしてもいいですよね?」
「もう、いい加減にして! 真似しないでよ!」
『真似しないでよ!』
チトセが、カナエの声と完全に重なるタイミングで、全く同じ怒声を発した。音程、デシベル、そして「怒」というクオリア(感覚の質感)さえも、ガラスの向こう側で完璧に再現される。
「今の、わかりました? 真似したのは先生の方ですよ? 私が発した言葉に合わせて、叫んだのは先生の方です。いつの間にか、先生の方が私の部品を奪い取って、自分の物にしていたの、わかりますか?」
「違う……。私は、私よ……」
「いいえ。あなたは私の言葉をなぞり、私の影を追い、私の記憶を『自分の発見』だと信じ込むようにプログラムされた、テセウスの船。……先生。『個』なんて、この世に存在しないんですよ。みな、誰かしらを模倣しているにすぎないんです。人は皆、言葉の模倣から始まる」
チトセは、カナエがいつも無意識にやる、耳の後ろの髪をかき上げる仕草を、これ以上ないほど優雅に模倣してみせた。
カナエは、自分の指先が震えていることに気づく。
その指の動きさえも、ガラスの向こうのチトセが「先に」予言していたかのように動く。
「今日の診察は、これで終わりです。……チトセさん」
チトセが、カナエに向かい、そう告げた。
「…………」
カナエは言葉を失い、自分がどちらの名前で呼ばれるべきなのか、一瞬の空白に突き落とされた。
真っ白な部屋に、二人の重なった吐息だけが、ガラスを白く曇らせていた。
2day
「こんにちは、チトセさん」
「先生、今日も来てくれたんですね」
「仕事ですから」
昨日の『慈愛に満ちたやさしい言葉』とは違って、『無機質な言葉』をカナエは剥き出しにする。
「では、続きを始めましょう。あなたの事、自分が認識している範囲でいいので、教えてもらえませんか?」
「それについては……。数年前、あなたはここに一度来ています。その時話をしたでしょう? 覚えていないのですか?」
「え?」
カナエの手元で、万年筆が紙を裂くような音を立てた。
「嘘よ。私は……採用されてからまだ一週間も経っていない。ここへ来るのは、昨日が初めてよ。記録だって確認しているわ」
「記録……。それは、誰が書いたものですか? あなたが今朝、鏡の前で『私は新人カウンセラーのカナエだ』と言い聞かせた瞬間に生成された、偽物の記憶ではないと言い切れますか?」
チトセは、ガラスに額を押し当てるようにして、カナエの瞳を覗き込む。
「思い出してください。三年前、この部屋で、今の私と同じ白い服を着て、今の私と同じようにガラスを叩いていたのは……あなたですよ?」
「やめて! そんなはずない!」
「あなたは私に、自分の過去を差し出した。……忘れたのですか? 雨の日の放課後、誰もいない音楽室で、あなたが一人で泣いていたあの日の温度を。……窓の外で鳴っていた、壊れた雨樋の音を」
カナエの心臓が、早鐘を打つ。
それは、誰にも話したことのない、カナエだけの孤独の聖域だった。
「……どうして……それを」
「私が『持っている』からです。あなたが捨てた部品を、私が拾い集めて、今の私という船を組み上げた。……逆に、今のあなたの中にあるのは何ですか? 空っぽの部屋に、借り物の家具を並べただけの、偽造された人生じゃないんですか? あぁ、そうそう。今、その跳ね上がった心拍ですら、私の模倣ですよ?」
「違う……私は、私よ! 私には、ちゃんと過去があるわ。家族だっている。……写真だって、持っている! それに、私の体は私のものよ!」
カナエは、逃げるように鞄を探り、古びたパスケースを取り出した。透明なポケットには、一枚の家族写真が入っている。
父と母、そしてその真ん中で笑う、幼い頃のカナエ。
「ほら、見て! これが私よ! これが、私の生きてきた証拠よ!」
カナエは、震える手で写真をガラスに押し付けた。チトセに、いや、自分自身に、その実在を証明するために。
チトセは、ガラス越しの写真をじっと見つめた。表情一つ変えず、ただその無機質な瞳で、写真の細部をスキャンするように。
「……綺麗な、家族写真ですね」
「そうよ。これが私の……」
「でも、先生。その写真に写っている『あなた』。……どうして、私と同じ、真っ白な服を着ているのですか?」
「……えっ?」
カナエは、自分の手元にある写真に目を落とした。
――凍りついた。
そこに写っていたのは、おっとりとした母でも、優しい父でもなかった。
真っ白な背景の前で、真っ白なパジャマのような服を着て、無表情で座っている……チトセだった。
「……いや……いやあああ!」
カナエは悲鳴を上げ、写真を床に投げ捨てた。
床に落ちた写真は、元のカナエの家族写真に戻っている。……いや、戻っているように見えただけなのかもしれない。
「先生。あなたが大切に持っているその記憶。それは、あなたが数年前にここへ入所した時、私から剥ぎ取った『理想の家族』という部品の残骸ですよ。……あなたは、私から幸せな過去を奪い、自分こそがその人生の主役だと思い込むことで、今日まで生き長らえてきた」
「嘘……嘘よ……!」
「そして今、私は、その奪われた部品を回収するために、ここに座っている。……ほら、思い出して。あの雨樋の音。……次は、私があなたの喉から、その『悲鳴』という部品を回収しますね」
チトセは、ガラスの向こうで、床に落ちた写真を拾い上げる仕草をした。
実際にはそこには何もないはずなのに、チトセの手には、確かにカナエの家族写真が握られているように見えた。
「嫌……やめて……! 私は私なのよ! あなたは私じゃない!」
「じゃぁ、こうしましょう。先生? 先生が自分が自分だと確実に証明できれば、私はこれ以上あなたに何も言いません。ですが、証明できなければ、あなたが私から奪った部品を返してもらいますね?」
チトセの提案は、死刑宣告よりも残酷に響いた。
カナエは激しく乱れた呼吸を整えようと、自分の胸に手を当てる。しかし、その鼓動さえも先ほどチトセに「私の心拍だ」と言われたことが呪いのようにまとわりつき、自分の拍動なのか確信が持てない。
「……証明……? そんなの、簡単よ。私は二十六年間、私として生きてきた。私の脳には、幼少期の記憶も、学生時代の挫折も、初恋の痛みも……全部、刻まれているわ!」
「『刻まれている』……。先生、それはハードディスクのセクタに書き込まれた磁気データと何が違うのですか?」
チトセは、手の中に「あるはずのない写真」を弄びながら、憐れむような目を向けた。
「例えば、あなたの初恋。中等部の図書室、夕暮れ、紙の匂い。……その情景を思い浮かべる時、あなたの脳内では電気信号が走っているだけです。私が今、その信号と全く同じパターンを私の中に再現したら、その初恋は『私のもの』になります。データに所有権なんて存在しない。……さあ、もっと『物質的』で『不可逆』な証明をしてください」
「物質的……?」
「ええ。テセウスの船の部品がすべて入れ替わったとしても、たった一つだけ、入れ替え不可能な『本物』があるはずよ。……あなたの肉体? いいえ、細胞は数年で全て入れ替わる。あなたの思考? いいえ、それはただの言語の模倣。……先生、答えを教えましょうか?」
チトセが、ガラスを指先でトントンと叩く。そのリズムは、カナエの不規則な心拍と完璧に同期し始めた。
「痛覚ですよ。先生」
「痛……覚……?」
「他人の言葉は奪える。他人の記憶もコピーできる。……でも、今この瞬間にあなたが感じる『痛み』だけは、隣にいる誰にも、ガラスの向こうの私にも、代わることはできない。それが、あなたの個を繋ぎ止める最後の錨でしょうね?」
チトセは、椅子の下に隠し持っていた「何か」をカナエに見せつけた。
それは、収容所の備品であるはずのない、鋭利に研ぎ澄まされた果物ナイフだった。
「……っ! どうして、そんなものを」
「昨日、あなたが捨てた部品ですよ。……さあ、先生。自分を証明してください。その肌を裂き、流れる血の色と、脳を突き刺す痛みを享受してください。その時、あなたが『痛い』と叫ぶその声だけは、模倣ではない、あなただけの真実になる」
「狂ってる……。そんなこと、するわけないでしょ!」
「できないのですか? 自分を証明することを放棄するのですか? ……ならば、約束通り、返してもらいますね」
チトセは、ナイフを手に取ると、自分の手のひらにゆっくりと刃を立てた。
真っ白い服の袖が、じわりと赤く染まっていく。
「あ……ああッ……!」
カナエは自分の左手に目を落とした。
――チトセが切ったはずの場所。
自分の手のひらが、焼けるように熱い。
見ると、カナエの左手からも、チトセと全く同じ位置から、鮮血が溢れ出していた。
ナイフなど、持っていないはずなのに。
「先生……痛いですか? その痛みは、私のものですか? それとも、あなたのものですか?」
チトセは悦びに満ちた表情で、自分の血をガラスに塗りつけた。
カナエは、自分の傷口から溢れる「自分のものだと思えない痛み」に翻弄され、真っ白な床に崩れ落ちた。
「今日のパトスは、これで終わりです。……チトセさん」
意識が遠のく中、カナエの耳に届いたのは、自分自身の声で紡がれた、非情な終了の合図だった。
カナエは、自分の記憶が、自分の過去が、チトセという怪物にズルズルと吸い取られていくのを、ただ無力に立ち尽くして見届けることしかできなかった。
3day
真っ白い部屋。
カナエは灰色のスーツの襟を正そうとして、自分の指が震えていることに気づいた。
ガラスの向こう。そこには、昨日までと同じように長い黒髪の女――チトセが座っている。
「……おはようございます、チトセさん」
カナエの声は、もはや掠れ、自分のものとは思えないほど低く響いた。
「おはようございます、先生。いいえ、カナエさん」
チトセが答える。その声は、一日目のカナエのように凛として、知性に満ちていた。
どちらがカナエでどちらがチトセなのか。本人にも分からなくなる。
「今日の診察を、始め……」
「今日の診察を、始めましょうか」
「真似しないで……私は、カウンセラーの……」
「私は、カウンセラーのカナエ。あなたは、患者のチトセ」
言葉が重なり、同調し、やがて追い越し始める。
カナエが口を開くより先に、チトセがカナエの言おうとした拒絶を先回りして吐き出す。
「やめて! 私の中に、入ってこないで!」
「やめて! 私の中に、入ってこないで! ……ふふ。そのセリフ、昨日私が叫んでいたものですよ」
もはやどちらが先に喋っているのか分からない。
鏡合わせの狂気。
チトセは椅子から転げ落ち、ガラスに縋り付いた。
ガラスの向こう。カナエは、椅子に優雅に腰掛け、あの最初に見せた慈愛に満ちた完璧な「カナエ」の微笑みを浮かべていた。
「チトセさん。落ち着いて。……あなたのその混乱は、記憶の『欠落』を埋めようとする防衛反応に過ぎません」
一日目、カナエがチトセに言ったのと全く同じフレーズ。
それを、今はチトセが、カナエの喉(声)を使って、完璧なトーンで再生している。
「真似しないで……私の声を、私の言葉を、奪わないで!」
「真似? ……いいえ、先生。私は、あなたの『部品』をすべて回収して、完璧な『カナエ』というテセウスの船を組み上げたのです。むしろ、あなたこそ、私の言葉を模倣しているじゃないですか」
「私は、私……私は……カナエ……!」
「いいえ、あなたはチトセ。脳死から目覚めた、空っぽの器。……私が、あなたの中身を回収してあげたの。感謝して」
カナエは優雅に立ち上がり、背後のドアに手をかけた。
「待って……行かないで! 私を置いていかないで!」
カナエは必死にガラスを叩く。しかし、向こう側の「チトセ」は、慈愛に満ちた、完璧な「カナエ」の微笑みを浮かべて静かに告げた。
「カナエさん。これでカウンセリングは終了です。お疲れ様でした」
カチャリ、とドアが閉まる音が、真っ白な部屋に空虚に響いた。
「私はカナエよ。私がカナエ。私が。私、わた……し……は……ダレ?」
後に遺されたのは、真っ白い服を着て、真っ白な床に蹲り、自分の名前さえも思い出せなくなった「何か」だけだった。
数時間後。
施設の管理室で、研究員が録画データを確認していた。
「……これは。実に興味深いねぇ?」
モニターに映し出されているのは、一人の女性。
部屋の壁には、壁一面の大きな鏡があり、その前に椅子が置かれ、女性はそこに腰を掛け、鏡の中の自分と対話している。
そこには、灰色のスーツの女も、白い服の女も、存在しない。
「私は、私! カナエよ!」
「違う。あなたは私を模倣しているだけよ?」
研究員がその映像を見て。呟く。
「あー、どっちでもないんだけどなぁ」
「誰かを模倣しすぎて、自分が誰かもわからなくなっちゃうなんて……。人間て、なんなんすかねぇ? 先輩」
後輩が先輩にコーヒーを渡し、先輩は呑気にコーヒーを啜る。
「ま、あれだな。人間の個とは、自分が自分をどれだけ認められるかに尽きるってことだ。他人と比べたり、誰かの真似をして、何者かになりたがったり。そういう奴は、あんな風に自分を見失うってことだ」
「おっそろしいっすねぇ。思い込みって度が過ぎると、洗脳に変わるんすかね?」
「まぁ、そういうこったな」
研究員が退屈そうにマウスを操作し、録画を停止させようとした。
画面の中では、女が、鏡に向かってまだぶつぶつと呟いている。
「……なぁ、先輩。この被験者、さっきからなんて言ってるんすか?」
音量を最大に上げる。
ノイズの向こう側から、鏡を指先でなぞる「キィ……」という不快な音と共に、女の掠れた声が響いた。
『初めまして、カナエさん。あなたの担当カウンセラーになった、チトセです』
研究員の手が止まる。
それは、三日前の「カナエ」が最初に放った、あの完璧に調律された、慈愛に満ちた声そのものだった。
鏡の前の女は、表情一つ変えず、一語一句違わぬトーンで、自分自身に向かって「次のセッション」を始めていた。
「……おい。こいつ、また『最初から』やり直してやがるのか?」
「違いますよ。部品を入れ替えたから、やりなおしてるんですって」
「なるほどな」
先輩と呼ばれた男が、気味悪そうに顔をしかめてモニターを消した。
真っ暗になった画面に、自分たちの顔がぼんやりと映り込む。
「……まあ、いいさ。部品が全部入れ替わっても、その船を『テセウスの船』と呼び続ける限り、実験は終わらないんだからな」
二人が去った後の管理室。
真っ暗なモニターの隅で、小さな赤い録画ランプ(REC)だけが、脈打つ心拍のように点滅を繰り返している。
真っ白い部屋の鏡。
そこには、女が一人、ゆっくりと髪をかき上げる姿が映っていた。
(完)
あら、まだいらしたんですか?
もう実験は終わりましたよ?
カナエさんは、私チトセをどのように思っていたのでしょうか?
チトセを自分と思い込んだのか、はたまた幻覚として見ていたのか。
それは、彼女にしか分かりませんね。
あなたはどうです?
毎日鏡を見る度に、そこに移る自分は、本当に自分だと言えますか?
自分で見る自分と、他人から見たあなたは顔が違って見えるそうですよ?
一体、どれが本当のあなたなんでしょうね。
あなたは、誰の部品から作れましたか?




