現代小説 【私の失敗人生、聴いてくれる?】
深夜の雨は、街の灯りを溶かしていた。
ネオンも、看板も、濡れたアスファルトの上で歪み、
まるで最初から正体のないものみたいに揺れている。
その闇から、老婆がひとり、バーの扉を押した。
コートは重く、靴は擦り切れ、足取りは頼りない。
酒の匂いが、入ってきた瞬間に店の空気を変えた。
「……やってる?」
マスターは何も言わず、うなずいた。
それだけで、十分だった。
老婆はカウンターに腰を落とすと、
ポケットからスマホを取り出した。
画面をタップする指は、少し震えている。
「ねえ、これ」
そう言って、彼女はマスターに画面を向けた。
そこには、若くて綺麗な女がいた。
艶のある髪、張りのある肌、赤い口紅。
男たちに囲まれて笑っている、自信に満ちた顔。
「……私よ」
マスターは驚いた顔をしない。
ただ、画面を一度見て、ゆっくり視線を戻した。
「信じられない?」
老婆は乾いた笑いを漏らす。
「私もよ」
しばらく沈黙が落ちる。
雨音だけが、遠くで続いている。
老婆はグラスを求めた。
ウイスキーを一杯。
濃いめで。
一口飲んで、喉を焼いてから、彼女は言った。
「マスター……私の失敗人生を聴いてくれる?」
私はね、
最初から愛されなかった。
家に帰っても、誰もいない。
泣いても、叱られるだけ。
抱きしめられた記憶がない。
だから私は、学んだの。
”欲しがられなきゃ、生きてる意味がない。”
そして、
嘘を覚えたのは、子どものころ。
「大丈夫」
「平気」
「なんでもない」
本当は、全部ほしかった。
愛も、言葉も、温度も。
でも正直になると、捨てられる気がして。
だから虚偽で自分を守った。
嘘の上に、嘘を重ねた。
私の若さは、武器だった。
男たちは私を見た。
欲しがった。褒め称えた。
肉体的快楽は、
存在証明だった。
触れられるたびに、
「ああ、私はここにいる」と思えた。
でもそれは、愛じゃなかった。
快楽のあとには、必ず虚無が来た。
それが怖くて、また次の夜に逃げた。
裏切りも、数えきれない。
結婚と離婚を繰り返し、捨てられる前に先に捨てた。
傷つけられる前に関係を壊した。
「私を裏切る前に、私が裏切る」
それが、生き残る方法だと思ってた。
人格障害?心的外傷?
病名の名前をつけられると、
少し安心した。
壊れてるなら、仕方ないでしょうって。
酒を覚えた。
アルコールは、優しい神だった。
飲めば、過去がぼやける。
父の無関心も、母の冷たさも、
自分の価値のなさも。
薬も覚えた。
どこかへ羽が生えて飛べる気がした。
救われる気がした。
でも、朝になると、もっと深い闇が待っていた。
自殺未遂は、二度。
一度は手首。浅かった。
助けてほしかった。
もう一度は、男と心中未遂。
酒、薬物、大量の睡眠薬。
「一緒に死のう」って言ったけど、
本当は、一緒に生きて、って言えなかった。
私はいつも、言葉を間違える。
気づいたら、誰もいなかった。
若さは消え、条件は通じず、
スマホの中だけが過去を知っている。
「この顔を見て。」
老婆は、黒くなった画面に映る自分を指さす。
「これが、欲望の行き着いた先」
マスターは何も言わない。
ただ、グラスを磨いている。
私は、神を信じなかった。
信じたら、全部間違ってたって認めなきゃいけないから。
「私の人生って何だったんだろ。快楽と堕落で生きてきた
失敗人生よ。完全な。でもね。こうして話してる今だけは、
少しだけ正直。だから聞いてほしかった。」
「誰かに裁かれなくていい。神に赦されなくてもいい。」
ただ、私は、こうして堕ちました」
って。
「私ね、神を信じなかったんじゃないの」
一息、酒をあおる。
「赦されないって、最初から決めつけてただけ」
沈黙が落ちる。
闇から闇へ、話は続く。
老婆は、まだ生きている。
それだけが、唯一の事実だった。
【私の失敗人生、聴いてくれる?】 完




