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残る温度
新しい住人は、何も知らずにその部屋へ引っ越してきた。
駅から少し遠く、建物も古い。
けれど家賃が安く、日当たりも悪くない。
「まあ、こんなものだろう」と、それだけの理由で選んだ部屋だった。
最初の夜、
彼女はふと目を覚ました。
時計を見る。
午前二時十四分。
なぜ目が覚めたのかは分からない。
悪夢を見た記憶もない。
ただ、胸の奥が妙に落ち着かず、寝返りを打った。
そのとき、気づいた。
部屋は、静かだった。
音はしない。
ノックも、声もない。
けれど、
ベッドの横の壁に、そっと手を当てた瞬間――
「……あったかい」
小さく、そう呟いた。
理由は分からない。
ただ、そこだけが、人の体温の名残のように温かかった。
彼女は少し考えてから、
そのまま手を離し、再び眠りについた。
夢の中で、
誰かが安心したように息を吐く音を聞いた気がしたが、
朝になれば、もう覚えていなかった。
それ以来、
その部屋で奇妙な出来事は起きていない。
夜中に音が鳴ることもない。
名前を呼ばれることもない。
ただ、
ときどき壁に触れると、
ほんの一瞬だけ、
「ここにいてよかった」という感覚が伝わってくる。
それが誰のものなのか、
彼女は知らない。
知る必要も、ない。
壁の中で待っていたものは、
もう、待つ必要がなくなったのだから。




