思い出せないこと
朝になっていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、
昨夜の出来事を悪夢だったことにしてくれればよかった。
けれど――
壁は、元のままだった。
膨らみも、裂け目もない。
写真も、床には落ちていない。
私は自分の手を見た。
爪の間に、白い粉が詰まっている。
壁紙の、粉。
「……触った?」
記憶が、ない。
スマートフォンを開く。
通話履歴、メッセージ、検索履歴。
どれも、昨夜の二時前後だけ、空白だった。
履歴が消えているのではない。
最初から、存在していない。
おかしい。
私はノートを取り出した。
日記代わりに使っている、安物の大学ノート。
昨日の日付のページを開く。
そこには、私の字で、こう書かれていた。
「今日は何も起きなかった」
息が詰まる。
その下に、
消しかけた文字がある。
強く消した跡。
紙が毛羽立っている。
光に透かすと、
うっすらと読めた。
「思い出すな」
誰に向けて?
その瞬間、
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
フラッシュバックのように、
断片的な映像が流れ込む。
狭い、暗い空間。
身動きが取れない。
口を開けば、埃が入る。
――コン、コン。
叩いているのは、
外ではなく、自分の手。
「……違う」
私は首を振る。
そんなはずはない。
私はここに住んでいる。
働いている。
毎日、ちゃんと外に出て――
思考が止まった。
「……どこで?」
声が、部屋に落ちる。
私は、
この部屋に来る前、どこに住んでいた?
前の職場は?
前の知人は?
引っ越しの記憶は?
一つも、思い出せない。
あるのは、
「今ここにいる」という事実だけ。
背後で、
かすかな音がした。
――コン。
今度は、壁の中からではない。
私の胸の内側から、
同じ音がした気がした。
「……あけて」
声は、もう他人のものではなかった。
それは、
私自身の声だった。




