【5】
「……夏希に、俺たちと同じ部類の人間になれとは言わない」
「どういうこと?」
「俺たち研究員はイカれた思考回路をしているかもしれない。怯える気持ちも分かる。だから研究に加担させることはしても、心まで組織の人間のようになる必要はないと……俺は思っている」
何と返せばいいか分からず黙り込む。
天馬は「明日は必ず仕事しろ」と言い残し、部屋を出て行った。
この研究所で開発されている薬は〝怪しい〟とか〝危険〟とか、そんなレベルのものではない。ステルリン以外にも、人間を壊すための薬品が大量に作られているのだろう。私も城之内製薬の人間でなければ《D.H.》として使われていたはずだ。
あんな実験も研究も赦されることではない。
この組織が何の目的で劇薬を作っているのか。
そもそもどんな組織なのか。
それを探ることが、神様に見放された私の新たな存在価値なのかもしれない――麻里奈の発言を思い返し、そんなことを考える。
麻里奈に渡された毒薬を持ち、彼女の部屋へ向かった。インターフォンを押して応答を待つ。ドアを開けた麻里奈は私を見るなり、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「あんた、まだ生きてたの?」
「……これを返しに」
試薬ビンを差し出す。
麻里奈は何も言うことなくそれを受け取った。
「私……狂ってしまった運命を受け入れる」
「へぇ。悪魔の仲間入りを決めたってことかい?」
知識と労力を貸すだけだ。
魂まで売り渡したりしない。
天馬が言っていたのは、きっとそういうこと――。
「私は今まで真面目に生きてきたし、実験台にされた人たちも、学校とか仕事とかいろいろなことを頑張っていたと思う。あなたたちみたいな犯罪者が平然と生きていて、訳も分からず誘拐された人々は理不尽に殺される……それが神の意思だとしたら納得できない。正しい道を歩む人が救われると信じたいから」
「ここにいる限り〝救い〟なんて都合のいい奇跡は生まれないよ。今のあんたにできることは、気が狂っちまわないよう耐えることくらいだ。また口先だけで『死ぬ』とかほざいたら、次はあたしが直々に殺ってやるよ」
ドアを閉めようとする麻里奈を引き止め、「ありがとう」と告げる。彼女は目を丸くした。
「あんた馬鹿? 礼を言う場面じゃないでしょ」
「でも……何となく、あなたなりの優しさに触れた気がしたから。ありがとう」
「何それ。虫唾が走るね」
勢いよくドアが閉まる。
私には……死ぬ勇気など、最初からなかった。
麻里奈の言うとおり、恐ろしい現実から逃げ出したいだけだったのだ。
* * * * *
自分の中で何かが吹っ切れた。
感じていた不安も悲しみも恐れも――今は何故か存在しない。ある種の〝心の麻痺〟かもしれないが、今の私にはそれで充分だ。
翌朝の研究室で、天馬は「大丈夫か」と声を掛けてきた。その声色からはいつもどおり感情が感じられない。こちらも素っ気なく「平気」とだけ答え、パソコンの前へ座った。
もう言いなりの毎日を続けることはしない。
今後はできるだけ積極的に、情報を得られるよう行動する。
このパソコンは私が使っているフォルダ以外ロックされており閲覧できない。インターネットにも接続できないようになっている。つまり、パソコンから情報を得ることは不可能だ。
部外者でも探ることのできる場所といえば棚関係。一人になるタイミングを狙って、近い位置にある引き出しから開けてみよう。
午後一時を回った頃、作業を中断した天馬が研究室を出ていった。
ドアが閉まるのを確認し、パソコンから一番近い引き出しを開ける。ファイルがずらりと並んでいた。各背表紙のラベルには年号が印刷されている。一番古いものは八年前の一月だった。
一ページ目は人名の一覧表。
上の方に《神楽坂天馬》と記されている。
麻里奈の名前はなかった。
八年前、麻里奈はまだ組織の人間でなかったということだろうか。
次のページからは薬品名とその詳細・開発期間・実験内容・携わった研究者の氏名が記されていた。
ヒトを死に至らしめる目的の薬品。
それ以外にも麻酔の効果を弱める・性的興奮を増幅させるなどの面において、即時性の高さを求めた薬品の開発記録もある。
殺害目的に限らず、多岐に渡る研究を行っているようだ。