8話 消えない視線
(えへへっ、皇さんに名前呼ばれちゃった)
玄関先に放り投げられた鞄を手に取った街風は、裏で生々しい後処理がされていることなど露知らず、合掌してから家の敷地を後にする。
不謹慎だとは思いつつも、嬉しいものは嬉しいので、にまにまと顔が緩んでしまう。
「街風くーん! またねー!」
「はい! さようならー!」
壁を挟んで、くぐもった楽々の声に、街風は元気よく返して、足取り軽く帰路につく。
いつも通りのコンクリの味気ない道は、今ばかりはレッドカーペット。
二階建ての、四角く切り取った箱に、また一回り小さい箱がくっついている歪な豆腐家。
気分が高揚していたためか、十分間の道は一瞬で、鼻歌まじりに自宅の扉を開けた。
「ただいまー」
「純人! 遅かったじゃない! どこを寄り道してたの!?」
「んー、ちょっとね。途中で人助けをしてた」
「またあ!? アンタはホントに······。いいことだけど、ちゃんと自分も大事にしなさいよ」
「分かってるって」
街風が靴を脱ぎながら、大したことないように答えると、リビングから顔を出した母親は、呆れ半分心配半分で引っこんでいった。
真っ直ぐに帰れば、もう一時間は早いのに、この慣れた反応。そう、割と日常茶飯事なのである。
街風は少しでも助けを必要としている人がいれば、解決するまで辛抱強く付き合うので、心配されども咎められはしないのだ。
「ご飯七時ねー」
「はーい」
テレビの笑い声とともに、母親がいつものように声をかける。
手洗いを済ませて、階段を駆け上がった街風は、手前から二番目の自室に入った。
制服をハンガーに引っかけて部屋着に着替え、鞄の中身を机の棚に突っこむと、ベッドに倒れこむ。
(今日は濃い一日だったなあ。八崎君と皇さんと楽々さんに会って、亜人を生で見て······。八崎君、あんなに楽しそうに笑ってくれてなのにな······めっちゃ怒らせちゃったし、もう会えないのかな)
天井に埋めこまれた、無機質な白い電球を仰ぎ、八崎の冷淡な視線を思い出す。
(そんなの、嫌だな。寂しそうにも見えたのに、あれっきりなんて······いや、八崎君は俺のこういうところが嫌だったのかも。俺があの時近づかなければ、八崎君を余計に苦しめることなんて、なかったんだろうし······)
「······考えても仕方ない、か」
頭上にかざしていた手を、ゆっくりと腹の上に戻す。
八崎とは、ついさっき出会ったばかりで、ほんの少しだけ話しただけ。なのに、八崎のことが頭に焼きついて離れない。
普段どこにいるのかも、連絡先も知らない友達を、街風はぼんやりと想う。
「純人ー? ご飯よー?」
「っはーい! 今行く!」
バッと飛び起きて見る、壁にかけた時計が指す七時。
ベッドに寝転がっていただけなのに、と思いながら部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
滑りこむようにして椅子に座ると、既に正面に座っていた母親は、怪訝そうに眉をひそめる。
「何かあったの?」
「え?」
「いつもより顔が暗いようだけど······。悩みがあるなら、いつでも相談していいのよ?」
「······大丈夫だよ。ちょっと疲れちゃっただけ」
街風は早く食べようと、母親を促して手を合わせる。
「「いただきます」」
今さらながら押し寄せる空腹。
他愛のない話をしながら手を進め、口中に染み渡るカラアゲの肉汁に喉を鳴らす。
「ごちそうさま。今日もおいしかった」
「そう。喜んでくれると作り甲斐があるわ」
街風が手を合わせると、母親は声を弾ませてほほえむ。
食器を片づけて、彼女に一言断り、自室に戻って机に宿題を広げる。
(八崎君の事は、あんまり言わない方がいいよね。それに、亜人に襲われたなんて言ったら、お母さんも心配するし)
椅子を引いてペンを持つと、ふいに楽々の呼びかけが頭の中に流れた。
(また······ってなんだろう。今回楽々さん達に会ったのだって、奇跡みたいなものだし、もう俺に会うことなんてないよね?)
特に深い意味はない別れの言葉と判断し、改めて宿題に向かう。
この公式なんだっけ、などと考えている間も、八崎の視線が背を刺しているようで、進みが悪かった。