15話 作戦
ひたすらに、来た道を逆戻りする街風。
吐いた息が頬を切って後ろに流れる。
空気を沈めすぎたせいで、肺が麻痺したように痺れている。
地平線から頭角を現した、米粒サイズの黒い塊、吸血鬼。
一歩も動いていないのか、先程と全く変わらない位置で、放心したように佇んでいる。
街風の足音に、壊れかけのぜんまい人形のような動きで顔を向けると、吸血鬼は耳まで口を引き伸ばした。
その不気味な笑みに、思わず足を止めかけたが、ぐっと奮い立たせるように手をさらに強く握りこんで堪える。
(携帯は吸血鬼の向こう。動きさえ止めれば、後はさっと取って引けばいい。タイミングが重要……コレも効いてくれれば……)
吸血鬼が体の向きを変え、前傾の姿勢をとる。
影を落としても分かる筋肉の膨張に、街風は右手の中のチェーンに人差し指を引っかける。
(まだ遠い……まだ……)
タイミングを違えれば死。
つ、とこめかみを一筋の汗が伝う。
(……今だ!)
吸血鬼の体が僅かに震える。
街風は右手のソレを宙に放り出し、思いっきり横に飛んだ。
腕から着地した彼は二、三回転すると、すぐさま立ち上がって走り出す。
「……ァ……?」
片腕を突き出した姿勢で硬直する吸血鬼は、困惑したようにうめき声をもらす。
動かないのだ。
今すぐにでも自分の攻撃をかわした、生意気な人間を殺しにいきたいのに、体が思うように動かない。
まるで金縛りだ。
「……?」
あの人間が自分に何かしたに違いない。
攻撃をよける直前、白く光ったアレ。
アレが視界から消えた瞬間に動けなくなった。
きっと原因はアレだ、と確信し、自分の体を見下ろす。
目にしたソレを見て、吸血鬼は歯を開いた。
ーーナァンダ、コンナモノカ。
街風の指先が、携帯まであと数センチ。その時だった。
「ぐぁ……ッ!」
横腹に強烈な衝撃が走り、街風は十数メートル吹っ飛んだ。
モーターでもつけられたかのような速さで地面を転がり、ようやく止まった頃には、息をするのもやっとの弱り様だった。
ハッハッと空気を吸う度に、胸を針で刺されるような激痛が貫く。
(痛い痛い痛い痛い……! 絶対骨やった……! 頭も打ったかな、くらくらする……。焦点も合わないし……たった一撃なのに……)
痛みで立ち上がるどころではない街風の視線の先で、吸血鬼が片足を持ち上げる。
その下にはーー街風の携帯。
バキッ!
粉々に割れて宙を舞う破片を、街風は目を見開いて見つめる。
これで、救援は望めない。
すなわち、動けない街風を待つのは「死」である。
(嫌だ……。八崎君に謝ってないし、まだやりたい事たくさんあるのに……!)
そんな街風の強張った表情に、吸血鬼は張り裂けんばかりの笑みを浮かべる。
一歩、一歩、とあえて間を置いて距離を縮めていく。
街風の顔の前で足を止めた吸血鬼は、街風の視界を奪うように、その筋張った手を広げた。
今度こそ殺される……!
「ッ!?」
一瞬、街風と吸血鬼の上に影が滑った。
ジャラ、と金属が擦れ合う音がして、吸血鬼の手が街風の目の前から消える。
何が起きたのか分からない吸血鬼の奥の人影に、街風は息を呑んだ。
「せん、せ……」
特化隊服を身に纏った、黒紫マッシュ。
久留米がぐっと鎖を引くと、吸血鬼は白目を剥いて痙攣した。
そして、そのまま後頭部から倒れる。
久留米は吸血鬼に巻きついた鎖を、鞭のようにしなやかに波打たせて回収すると、腕を袖に引っこめて縄を取り出した。
「まさか君まで、このような問題行動を起こすとは思っていませんでした、街風君」
気絶した吸血鬼をその縄で、手慣れたように縛り上げる。
「ですが、生徒を守る事が教師の務めですから。なんとか間に合ってよかったです。立てますか?」
街風はためらいつつも、差し出された手を取る。
「っ!」
「おや」
手を引いた瞬間、脇腹に激痛が走り、再び地面に丸くなった。
街風は奥歯をかんで汗をにじませる。
側にしゃがみこんだ久留米は、街風の肩を押して反転させると、彼の横腹をつついた。
「~~ッ!!」
「あー。折れていますね、骨」
涙目でもだえる街風に、淡々と分析する久留米。
打ち上げられた魚のように痙攣する街風を見て、顎に指を添える。
十数秒経って、思いきったように立ち上がった久留米は、袖から鎖を下ろした。
(今度は何を……)
痛みに震える街風に構わず肩を押さえると、腹周りに鎖を巻きつけ、ぐっと引き絞った。
悲鳴を上げかけた街風の口を、さらに服の袖で覆う。
「いいですか? 今から僕の声だけを集中して聞いて下さい」
久留米はなだめるように街風の背をさすりながら、ゆっくりと話す。
「息を吐く事を意識して、ゆっくり呼吸して下さい。そう、上手ですよー。一、二、一、二……」
呼吸が元に戻っていく街風は、落ちついたように体を緩める。
その様子を確認した久留米は、そっと裾をどかした。
「では次に、深く息を吸って、吐いて、深呼吸をして下さい。大丈夫、ゆっくりでいいですからねー」
言われるがまま、街風は胸を上下させる。
頭のもやも晴れてきて、痛みも引いていく。
「どうですか? 少しはマシになりましたか?」
「……はい。ありがとう、ございます」
「いえいえ、それはよかっです。では、僕の首に掴まれますか? 病院まで送っていきますよ」
喉まで出かかった返事を、途中で呑みこむ。
骨が折れていて、今にも気絶したっておかしくない状態。
すぐにでも医者に診てもらうべきなのは赤子でも分かるが、それでもーー。
「……ないです」
「え?」
「行けないです、俺。八崎君に謝りたいから」
「こんな状態でまだ言いますか?」
久留米の声がワントーン下がる。
「楽々君から聞きました。逃走中の吸血鬼との仲直りのためだけに、こんな真夜中にうろついていると。日が落ちた時間の危険さは、先程君も身をもって体感したはずです。今でなければならないのですか? 特化隊が捕獲してからでも遅くないと思いますが」
「それでも俺は、今行かなきゃって思うんです。行かないと後悔する、そんな気が……」
「手負いで訓練も受けていない一般人が行って、何になるんですか。ただの足手まといでしょう」
久留米の容赦ない言葉に、街風はハッと目を見開き、唇をかむ。
「今でなければならない理由などない。感覚的な空論よりも現実を見るべきです。痛みでろくに動けないでしょう? 肋骨が折れているんです。下手に放置すると、最悪死にますよ」
体の一部が破損して弱っているからか、もっともな事を立て続けに述べられたからか、返す言葉もなく黙りこむ。
「……大体、吸血鬼のためなんかに命を張るなど、どうかしています。あんなに下賤で薄汚い亜人……」
「撤回して下さい」
街風の突然の反論に、久留米は方眉を上げる。
「八崎君は下賤じゃないし、薄汚くなんかない。俺の友達を悪く言わないで下さい」
街風は力強く言い放つと、口を一文字に引き結ぶ。
(八崎君は何も悪い事してないのに、なんでそんな言い方……)
「っふ、」
思わず、といった風に漏れ出た吐息に、街風は思考を止める。
「すみませんつい……っ。訂正します、八崎君は我々と同じ一個人です。優劣などありません」
あまりの変わり身の早さに、理解が追いつかない街風は、状況の解析に固まる。
ごまかすように咳払いをした久留米は、街風の顔の前に回った。
街風の腕を肩に引っかけ、潜りこむようにして彼を背に負う。
「C地区でいいですか?」
「え?」
「行き先ですよ。僕も様子を見に行く予定だったので、ついでに送っていきますよ」
彼はさらに二本の鎖を、街風の脇下に通す。
肩越しに少しだけ振り返ると、いたずらっぽく笑った。
「それとも病院がよかったですか?」
「イエ、イッショニイキタイデス」
「ははっ、分かりました。無理しないでいいですけど、掴まっていて下さいね」
足を肩幅に開いた久留米は、まるで背に羽根でも生えているかのように、軽々と跳んだ。
猫のようなしなやかさで電柱の先に着地すると、間髪入れずに宙を舞う。
(すごい、着地の振動が全く伝わってこない)




