第1話:気弱な公爵令嬢
「……はぁ。ライラ。あなたには本当に失望させられてばかりだわ」
ライラと呼ばれた幼い女の子は、青い瞳の目を潤ませ口惜しそうに小さな唇をきゅっと噛みしめ机を見つめる。その隣で二つ下の妹がニヤニヤとしながら、母に叱られ何も言えずにいる姉をいつものように見下していた。そして勢いよく手を挙げ、母の愛に応えるために得意げに喋りだす。
「お母様! こんな問題簡単ですわ! まだ我がカルダンコス帝国が小さな一国に過ぎなかった頃、敵国に囲まれ窮地に陥っていた時に我らが初代カイラス様が彗星の如く現れ、周りの敵国を次々と薙ぎ倒し、一代で強国へとお導きくださった。それ以来、我がロンチェスター家は王から公爵を叙爵され今に続いているのですわ!」
「素晴らしい完璧な回答よ! さすが私の娘アメリアだわ。……それに比べて、2つも上のあなたは今まで何を勉強していたのです」
自分に似た娘のアメリアを自慢気に褒め称した温かい目を一瞬で冷たい目にし、ギロッとライラを睨みつける母マライア。その母に気弱なライラは萎縮し何も言えなかった。
「ライラ! 次の問題にはちゃんと答えなさい。我がカルダンコスはいつから帝国へとなったのか。あなたなら分かって当然でしょう……?」
「あ……の! それは、我が4代目の……その……」
母にきつく睨まれ、どうしても手の汗と動悸が止まらずどもってしまう。そんなライラの態度にプライドの高い母マライアはとうとう限界を迎え鬼の形相になり馬用の鞭で何度もライラの腕や肩を叩きつけ始めた。
「あなたって!! 子は!! 本っ当に!! どうしようもない!! 子ね!!!」
「痛!! ご、ごめんな……さい!!……っ!! お母様!! ごめんなさい……!!」
泣きじゃくりながら母へ許しを請う娘に少しだけ気が済んだマライアは鞭をおさめたが、誰よりもこの問いに完璧に答えられなければならないライラへの怒りはおさまらなかった。チラッと愛する自慢の娘に目をやり、見せてやれと目で訴える。その母の目にアメリアはまたも得意気に答え始めた。
「4代目ライラお祖母様の功績ですわ。4代目の圧倒的武力と戦略で次々と他の国を降し、帝国へとなっていったのですわ」
「まだ6歳のアメリアがこんなにも勉学に励んでいるというのに……。ライラ。あなたの名はその4代目から賜ったはずでしょう。なのにいつまでもウジウジと……。お前もロンチェスター家だけでなく、私のアストラル家の血も受け継いでいるというのに……!!」
そこまで口に出し、マライアはギュッと力の限り鞭を握りしめながら低い怒りの沸点がまたも越えてしまいそうになる。母マライアのプライドの高さは実家と己の美しさからきていると言っても過言ではなかった。
マライアはロンチェスターまでとはいかないものの、それなりに武勇に名高いアストラル辺境伯家の生まれであった。そしてその美しい見た目から社交界では、気高き華とまで称されもてはやされていたのだ。そんな己に釣り合うのは実家よりもさらに武勇に名高く歴史ある名家のロンチェスター公爵家の当代であり、帝国一の騎士とまで称されるケディック・ロンチェスターしかいないとさえ若きマライアは自負していた。そしてようやく結婚までこぎつけ、三人の子を授かったまでは順調だった。だが、ここでマライアにとって人生の汚点とまでいえる大問題が発生する。
それが、気弱すぎる娘ライラの存在だった。
これまで奔放で傲慢なマライアに良い感情を持っていなかった貴族達に、気弱すぎるライラは本当に武勇に名高いケディックの子なのかと揶揄され噂好きの貴族たちのいいあざけりの対象にされたのだ。その屈辱的な噂はプライドの高いマライアにとって決して許せないことだった。
「武勇に名高い両家の血を正統に受け継いでいるはずのお前が、こんなにも臆病だなんて!! 恥さらしもいいところだわ!!!」
そう言ってもう一度、鞭をライラへと振り下ろそうと勢いよく腕を振り上げ渾身の力で叩きおろそうと構える。その姿にライラは怯えて体に力を入れ、目をぎゅっとつむって痛みに備えた。その時、部屋の扉がノックもなく勢いよく開かれ血の気の引いた一人の侍女が慌てて飛び込んでくる。そして突然の出来事を報告をするため息を切らしながら目を血走らせていた。
「奥様! 大変です!! 旦那様がお帰りになられました!!」
「え!? 何ですって!! こうしちゃいられないわ!!」
バタバタと慌てて部屋を出て行く母に二人の娘もついていくために立ち上がる。皆が慌てふためくのとは対照的に嬉しそうに顔をほころばせる姉ライラに苛立った妹アメリアは走り出そうとするライラの足を素早くかけ転ばせる。
「きゃっ!!」
「ふふ! お姉様って本当にどんくさい! ずっとそうしてれば? きゃはは!!」
無様に床に転がったライラをそのままにし、走って父のもとへと行く妹にライラは慌てた。床に伏していたわずかな時間さえも惜しくてライラも痛む体に鞭打ち、父のもとへと走りだす。父がいるであろう大広間への道のりに煩わしさを感じつつも、想像したよりも遅く遠征から帰って来た父に早く会いたくて堪らなかった。
父ケディック・ロンチェスターはライラにとって憧れであり、最も敬愛する存在だった。そして、ここカルダンコス帝国にとっても父ケディックはなくてはならない存在である。それは帝国に住まう者ならば誰もが周知の事実であると認識されているほどに高潔で素晴らしい武人であった。
そこまでに至るまでには、今から約70年前まで時は遡る。栄華を誇っていた帝国が徐々に衰えていった時代。当時の愚帝ネーロ・カルダンコスによって国の財源は食い潰されていき、圧政のため民から不満が膨れ上がっていた暗黒時代。その最中のこと、悪しき愚帝を倒さんとしたのが次の皇帝カルロス・カルダンコスであった。しかし、英傑カルロスの奮闘もむなしく愚帝時代の余波で帝国を見限ったパーシバル侯爵家を筆頭に、次々と貴族達が裏切り離れていき窮地に立たされ失意の中この世を去ってしまう。
帝国はもはや崩壊寸前であった。
その時、初代同様、突如として彗星の如く現れたのが、現代の皇帝アウレリアス・カルダンコスと父ケディック・ロンチェスターであった。皇帝アウレリアスは瞬く間に内政を立て直し、それを支援するために父ケディックが武力で周りの国を蹴散らしていく。
二人の勢いは凄まじく、現在では帝国として成り立っていける程に劇的に回復していったのである。その帝国の衰退を今も武勇で止めているのが父ケディックだった。
「……!……お父様」
やっとの思いで父のいる大広間へとたどり着いたライラではあったが、そこには先に到着していた母と妹、そしてその二人に追随している従者達がケディックを恭しく取り囲んでいた。元来、気の弱いライラは従者達にすら発言できないほどであった。黙って柱の影から見守る事しかできない、そんな自分にどうしようもない嫌悪を感じて悔しさからスカートを力一杯握りしめる。
「ライラ! そんなところにいたのか。父を出迎えてはくれないのか?」
上から上機嫌な愛しい父の声が降って来たかと思ったら、優しく抱き上げられるその浮遊感にハッと顔を上げる。そこには自分にしか見せない嬉しそうに笑う父の顔があった。
「お父様……! おかえりなさい!」
先程までの悔しさが嘘のように消えていく。逞しい父の首に抱きつき、大好きな父を思いきり堪能するライラ。ケディックは自分とは真逆な艶やかで真っ黒な長い髪を愛おしそうに撫でる。一瞬、大きな父の手が思わず肩に触れた。母から折檻された部分にチリっとした痛みを感じてライラは思わず肩が小さく揺れる。ケディックはその小さな振動を見逃さず、ライラの長袖を優しく捲り上げた。そこには赤黒い痣がいくつもあったため、わずかに眉をひそませそっとライラを見る。その視線にライラは気まずそうに下を向き、小さな唇を耐えるように噛んで顔を真っ赤にさせていた。自分が情けないために母に叱られた痕を父に知られてしまった事がライラにとって酷く恥ずかしいことに感じたのだ。
小刻みに震えるライラを抱き上げたまま、ケディックは後ろにいたマライアまでツカツカと歩いて行き、素知らぬ顔で夫を見上げる妻の前で歩みを止めじっと不愉快そうに見つめる。しかしマライアはその意図を理解できずに旦那様?と訝しんだ。そのマライアの頬にケディックは戦場で鍛え上げられた左の手の平を容赦なく振り下ろした。
「マライア!!! この愚かな女が!!! ライラに手をあげるとは何事か!!??」
「……っ!?」
突然何の前触れもなく張り飛ばされたマライアは床に叩きつけられそのあまりの衝撃にわずかに体が痙攣する。驚愕の出来事に妹アメリアも周りにいた従者達も目を見開き氷ついた様に固まった。怒りをあらわにしマライアを冷たく見下ろすケディックにマライアは何とか弁明しようと口を開くが、脳が揺れたために目が回ってしまい金魚の様に口をパクパクとさせることしかできなかった。
「貴様! よもや常習化していたのではあるまいな!? わしがいない所で好き勝手しよって!! ライラには惜しみない愛を注ぐよう申し付けていたのを忘れたとは言わさんぞ!!!」
初めて聞く言葉と父の激しすぎる剣幕にライラはかつてない程戸惑ってしまう。殺気で息ができないという事象をこの場にいるすべての者がその身で感じその場に氷漬けにされたように身動きが取れないでいた。そして怒りがおさまらない父は帯刀していたサーベルをゆっくりと引き抜きマライアへと突きつける。
「……っ!!!」
いまだに言葉を発せないマライアは顔面蒼白になった。変わらず冷たい目で己の妻を見下ろしながらサーベルを振り上げるケディックにライラは本当に母が殺されてしまうと震え、涙ながらに必死に激高する父へと縋りつき懇願する。
「お、お父様……!! お、おやめください! わたくしが……わたくしが悪いのです……!! お母様は……! わたくしのことを思って厳しく接してくださった……だけなのです!!……お父様!!!」
あまりの恐怖にしゃくりあげながらも母を助けようとする娘に、父はようやく平静を取り戻しサーベルを下した。
「ライラ……! すまなかった。怖い思いをさせて……。わしが悪かった」
サーベルを完全におさめる父に震えながらも安堵するライラ。そんな愛する娘を父は申し訳なさそうに優しく抱きしめる。そしてライラには見えぬように今一度マライアを冷たく一瞥すると、固まっているアメリアには一瞥もすることなくさっさと屋敷の奥へと行ってしまった。その父の姿に我に返ったアメリアは震えながらも悔しそうに、父の首に抱きつく姉を憎々し気に見送る。
ライラは父の激しい怒りに恐怖を感じはしたが、父に対する愛が揺らぐことは決してなかった。屋敷の中を闊歩する父の顔に頬を寄せ、またいつ遠征へと行ってしまうか分からない忙しい父に今だけはと、精一杯甘える。父の真っ白で綺麗に整えられた髭がくすぐったかった。
お父様と、ずっと一緒にいられたらいいのに……。
小さな願いを胸に秘め、ライラは静かに目を閉じた。