憎しみの先へ3
名前も聞かずに別れた。だから、最初に聞かされたときは気付けなかった。
あの場で李蒼と李黄を見て、華朱があの女性だと気付いてしまったのだ。
「華朱ちゃん!」
――主殿、連れてきました――
女性の声に華朱の身体が反応する。黒欧が村で深い繋がりがあった、一人の女性を連れてきたのだ。
「華朱ちゃん、ずっと捜していたのよ」
「あっ…あぁっ……」
捻り上げられた手から剣が落ちる。空いている左手が耳を塞ぎ、華朱は激しく頭を振る。
「その声を聞くな! お前が聞く声はそっちじゃない!」
それは植え付けられたもの。彼女の思考をひとつだけにし、堕ちるように仕向けるものだ。
額の刻印へ直接干渉し、黒耀は本来の彼女を取り戻そうとした。自分へ無邪気に笑いかけてくれた、あの笑顔を取り戻したくて。
「華朱ちゃん、覚えてる? 私に話してくれたこと。よく、前を見て」
優しく呼び掛ける声は、彼女の中にゆっくりと広がっていく。憎めと呼び掛ける声とはまったく違う。
闇の中に暖かい光を差し込むようで、奥底で消えかけていた華朱の心を照らす。
「イリア…ちゃん……」
発せられた声は今までと明らかに違う。
「そうよ。わかる?」
「イリア…ちゃん……やっ…いやぁ!」
ビクリと身体が跳ねる。憎むように植え付けられた魔力と、華朱の心が戦っているのか、振り払うように頭を振り暴れだす。
「華朱ちゃん! 大丈夫だから、ゆっくり前を見て」
「主殿、見上げてみて」
可愛らしい声で呼び掛けたのは、楓莉と呼ばれた女性。
華朱の傍にずっといた魔道生物達は、誰よりも彼女の変化に気付いていた。昔の主を取り戻すには今しかない。そんな風に思ったのかもしれない。
戦闘を止め、焔莉と楓莉は華朱を見ている。まるで祈るように。
楓莉の声に促され、華朱が見上げる。
「あな…た……」
本物であるかを確認するように、左手が黒耀の頬を触れた。
(柊稀に協力を願うべきか……)
彼女は自分にかけられた呪縛と戦い出した。柊稀が励ませば、乗り越えられるかもしれない。
本来の姿を取り戻せば、時間はかかるだろうが乗り越えられるはずだ。
捻りあげたままだった腕を解放すれば、あとは彼に渡すだけ。けれど、華朱の視線は黒耀から離れない。
「また…会えた……」
小さく苦しげに呟かれた言葉。
「もしかして…柊稀じゃなくて、黒耀が好き?」
「えっ…」
朱華の言葉に、柊稀が驚いたように見る。
彼女の中で柊稀が特別だったのは本当のことなのだろう。初恋も事実なのかもしれない。
けれど、それから月日は経っている。他に好きな人がいてもおかしくはない。
「柊稀は初恋だったんじゃない? それから月日は経ってるし、他に好きな人がいてもおかしくないじゃん」
邪教集団にとって、柊稀を好きでいることの方が朱華を使って陥れられ、都合がよかった。だから、そう仕向けたのかもしれないと朱華が言う。
これだけのことをやっているのだから、それぐらいできてもおかしくない。
逸らすことのできない金色の瞳を見ながら、黒耀も酷く驚いた。まさか、この女性が自分に好意を持つなど、思いもしなかったのだ。
「イリアさん、あなたならわかりますよね?」
朱華の問いかけに、華朱と親しかったイリアは頷く。
「華朱ちゃんは、一度も口に出して言わなかったけれど、間違いないと思います」
「黒耀!」
彼女を救えるのは彼だけだ。訴えかける二人の視線に、黒耀は酷く動揺する。
こんな展開になるとは思ってもいなかった。どうするのが正解なのかと悩む。
けれど、悩んだのは少しだけ。すぐさま胸に抱き抱える。
「うっ…あっ…あぁぁぁ!」
強く刻印が輝き、黒い炎が暴れだす。
――主殿! その刻印を早く!――
「わかっている!」
左手で強く抱き締め、右手は額の刻印へ。直接力を送り込み、植え付けられた物を根こそぎ抜いていく。精霊眼があるからこそできることで、このときほどこの力があってよかったと思う黒燿。
光をまき散らかし、額の刻印が消えていく。身体にかかる負担は大きく、華朱は気を失い崩れ落ちた。
「ハァ…ハァ…」
消そうとする力に反発し、暴れた魔力により黒耀は傷だらけとなっている。
華朱が傷つかないようにしたのだろう。彼女には傷ひとつない。
「黒耀!」
「大丈夫だ。それより、次がくる!」
警告するように言えば、黒い影が膨れ上がるところ。華朱が気を失ったことで、彼女といた九兎の制御ができなくなってしまったのだ。
四枚の翼を広げ、九本の尻尾をもつ獣が咆哮をあげて姿を現した。
「黒欧、彼女を頼む」
――はい。お任せください――
この獣を相手に後ろを護る余裕はない。相手は獣族の祖と言われているほどなのだ。
この状態を察してくれれば、向こうで戦う二人が仲間を通してくれるかもしれない。
今はそれを信じるしかなかった。
「九兎……李黄! 遊ぶのはやめろ!」
遠くからでも見える黒い獣。主になにか起きたと察した李蒼が、相棒を止めに入る。
「陽霜! 行くぞ!」
すでに全員が険しい表情を浮かべ、黒い獣を見ていた。
「お兄ちゃん達が危ない! 急ぎましょう!」
今はどちらも通さないというわけにはいかない。互いに互いの仲間が危険なのだ。
向こうが争っているかはわからないが、間違いなくどちらもが危険に晒されている。
「休戦だな」
確認するように星霜が言えば、李蒼は頷く。彼女にとっては主を護ることが第一なのだ。
仲間を護りたい彼らと目的が一致する以上、今は争う理由がない。
「あれは強い。気を付けろ。対抗できるとしたら……」
「みんなでやりゃあ、なんとかなるさ」
李蒼の視線が莱緋に向けられるのを見て、星霜がやらせないと遠回しに言った。
「そうだな」
彼の気持ちを察したのか、李蒼は微かに笑みを浮かべ丘へと向かった。
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