氷鬼なる琅悸
「琅悸……」
ふらふらと氷穂が近づいていく。冷ややかな目をした青年へと。
ずっと会いたいと思っていた青年。氷穂にとって、誰よりも大切な存在だった。片時だって離れたことがなかっただけに、寂しかったのだ。
「危ない!」
「キャッ!」
微かな異変を感じ、間一髪で柊稀が氷穂を引き寄せる。
振り返れば、氷穂が立っていた場所には氷の柱が出来上がっていた。あと少し遅ければ、彼女は氷漬けになっていたことだろう。
彼が自分を攻撃したと理解するに、少しばかり時間を要した。ようやく理解すれば、氷穂は呆然と座り込む。
「琅悸……どうして……」
もう流れることがないと思っていた涙が頬を伝い、誰もが気遣うように氷穂を見る。
「琅悸! お前、どうしちまったんだよ!」
誰よりも氷穂を大切にしていた彼が、攻撃をするなど普通ではない。普通ではないなにかが、彼の身に起きている。
信じたくないことだが、ユフィにはこうなってしまったことへ心当たりがあった。氷穂という繋がりを無くせば、琅悸を落とすことなど簡単だとわかっていたのだ。
それでも、呼びかければ戻ってくるかもしれない。
「琅悸!」
「ユフィ! くっ」
叫ぶユフィに、琅悸は剣を一振りして真空の刃を放つ。すぐさま虚空が庇いに入り、右頬を赤いものが流れる。
「俺の声も、お前には届かねぇのか。俺が、助けてやれなかったからか……」
小さく呟かれた言葉は、誰にも聞こえなかった。けれど、握り締められた拳は誰もが気付く。いつも飄々としていた彼が、苦しげに琅悸を見ている。
殺気を放つ青年に、誰もが戸惑いを隠せない。なぜ、こんなことになってしまったのか。
「知りたい? 教えてあげようか?」
そこへ、黒いローブを被った人物が現れた。抑揚のない声だが、高さからして女性だろう。
明らかに邪教集団の者だった。
感情は一切感じられない、少女と思われる人物。邪教集団の一味ならば、彼女が琅悸になにかをした。
そう考えるのは当然のことだし、事実であろう。
ただ、簡単に落ちるようなタイプでもないと虚空は思っていた。彼ほどの実力者なら、敵がどれだけ強かろうと抗えるはずだ。
「ずっと欲しかったの。だから、手放してくれてありがとう」
「狙っていたのか…琅悸が一人になるのを……」
黒耀を欠いている現在、虚空はヤバイと感じていた。彼は、間違いなく誰よりも強い。
この場に彼とまともに戦える者がいるのか。それすら危ういだろう。
わかっていてもどうにかしなければいけない。虚空は頭をフル回転させながら、どうすればいいのか考えていた。
「当然。彼は強いから。ここで、あなた達を皆殺しにしてくれる」
ハッタリなどではない。誰もがわかっていた。本気で殺しに来れば、琅悸なら皆殺しも可能だと。
地の神具での戦いを見れば、彼の実力は十分すぎるほどわかっていた。
途中合流した仲間ですら、立っているだけで相手の力量は理解できる。自分より強いと感じ取ることぐらいはできていた。
「正気に戻すしかないわ。できるはずよ」
杖を構え、瑚蝶が戦闘体制に入る。自分達が助かるためには、彼を正気に戻すしか道はないのだ。
邪教集団の少女は愚かなと呟く。彼が簡単に落とせたのは、それだけの理由があるから。そうでなければ、さすがに手が出せるような相手ではなかった。
隙をつくことができなければ、彼ほどの手練れなら返り討ちにされてしまう。
だが、彼らはその理由がわかっていない。原因である当の本人ですら。
「彼は戻らない。だって……フェンデの巫女、あなたがいけないんだもの」
「えっ……」
思わぬ言葉に、氷穂はどういうことかというように見る。
「あなたが、繋がりを切ってしまった。彼にとって、唯一あなたの傍にいられる繋がりを……切ってしまった。だから、簡単に落とせたの」
淡々と喋る少女。感情のこもらない声は、氷穂が知らない事実を知っているのだと含んでいる。
「マスターは、彼がいればあとはいらないそう。だから消しに来た」
言い切る前に琅悸が動く。
「朱華!」
あまりの速さに、柊稀は押し倒すので精一杯。ドサリと二人が地面へ倒れる。消す、の意味は、華朱のために造られた朱華を示していた。
頭上に振り下ろされる剣を見て、受け止めたのは華朱だ。
「うっ…」
速さだけなら、華朱も十分速い。けれど、力は男である琅悸の方が上で、ジリジリと押されていく。
あっという間に体制を崩され、後ろへ倒れ込む華朱。
「主殿!」
慌てたように李蒼が主を助け、柊稀が朱華を抱えて距離をとる。
不意を打つよう瑚蝶が放つ水流が襲うが、一瞬で凍りつき粉々に粉砕されてしまう。
「瑚蝶! 避けろ!」
「キャァァァ!」
虚空の警告と同時に炎の渦が瑚蝶を襲う。その速さに、一同表情が険しくなる。
警告をしたときには遅すぎるのだ。自力で察するか、助けに入るしか選択肢はないということ。
「やめろ! 琅悸!」
次の攻撃に移る姿を見て、ユフィは怒鳴る。彼が本気で戦えば、尋常ではない被害が出てしまう。
なによりも、彼をずっと見ていたからこそユフィは止めたかった。
彼の抱えていることも、フェンデの巫女護衛巫女に固執したことも、ユフィはすべてを知っていたのだ。
(やっぱり、氷穂に言うべきだった。あそこで引き留めれば……)
このような状態にはならなかったのだろう。
悔いても現状は変わらない。今は、この状態を打破することだけを考えるべきだ。どうすれば彼を止められるのかを。
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