2
2
森はどこにあるでしょう。森はどこにでもあるんだよ。
森はどこにあるでしょう。森はどこにも、ないんだよ。
ソノエ・シンは、幼いころに母が読み聞かせてくれた絵本のひと場面を思い出していた。
送迎用の車のなかである。といっても、それはハイヤーでもなければ、マイクロバスでもない。迷彩塗装を施された武骨な装甲車の助手席に彼は乗せられていた。
「驚いただろう」ハンドルを握るスキンヘッドの男が言った。「こんな図体のでかい車が迎えに来たんだから」
シンは男の横顔を一瞥する。本当によくしゃべる男だ。出会ったときからいままで、彼はずっと話し続けている。しかも、こちらが無視しているのも気にせず、ひとりで質問してはひとりで答え、勝手に笑って満足しているのだ。愉快だが、長く一緒にいるのは耐えられない男だった。
「車にも驚いたが」シンは嫌々ながら答えた。「もっと驚いたのはあんたの非常識さに対してだ」
新しい職場からは朝の九時に自宅マンションの前に迎えを寄こすと言われていたため、その時刻に支度が間に合うようにと、シンはアラームの時刻を七時にセットしていた。しかし実際はどうだ。彼は予定よりも一時間も早い六時に起こされることとなったのだ。けたたましいクラクションの音によって。
「違いねえな」男はげらげらと下品な笑い声をあげた。「いやあ、すまなかった。時間を間違えちまったんだよ。でも、早く出たぶん渋滞に巻きこまれずに済むってもんだ。それとも何か、奥さんとしばらくの別れを惜しんでいた最中だったか」
「適当なことを言うな。おれに妻はいない。あの部屋だって、もう次の買い手が決まってる」
「なんだよ、売っちまうのか。もったいねえ」
男はハンドルを切りながら言う。そんなこと、これっぽっちも思っていないくせに。シンは舌打ちをして、視線を窓の外に向ける。
「森に招かれた人間は、街には帰れない。そうだろう?」
遠く、ひまわり畑の向こうに広がる森を望む。あそこにシンの新しい職場、『静かの森』がある。外界から隔絶される、謎めいた森。そこに足を踏み入れた者は、二度と外へ出られないという。前職に就いていたときに聞いた、いささか都市伝説じみた話なのだが、しかしシンはその真偽を知らない。森に入った者も、森から出てきた者も見たことがなかったからだ。
そんなところに、いま彼は向かっている。とても、誰かと楽しく話す気にはなれなかった。
「まあ、そうくよくよするな。たしかにいったん森に入れば簡単には出られないが、あそこには楽しいこともいっぱいあるんだぜ」
男はふたたび下品な笑みを浮かべ、それがシンをさらに不快にさせた。森のなかがこんな奴らばかりでなければいいが。などと考えながら、彼は上体ごと窓側を向いて、寝入ったふりをした。
いつの間にか、車はひまわり畑を割って走る道を進んでいた。過ぎゆく景色に咲く花々はどれもわれ先にと背伸びをして、日の光を浴びようと必死になっている。そこだけを切り取れば夏らしい爽やかな風景にもなろうが、実際には花々の奥に暗い森が鬱蒼と茂っており、そのコントラストがいやに不気味で寒々しかった。
森はどこにあるでしょう。森はどこにでもあるんだよ。
森はどこにあるでしょう。森はどこにも、ないんだよ。
三十年ちかくも前に聞かされた話を、どうしていまになって思い出すのか。理由もわからぬまま、シンは深い森の奥深くへと運ばれてゆく。