猫の見る世界は
はぁー。はぁ。はぁぁぁぁ。もはや口からは溜め息しか出てこない。昨日、教官から放たれた言葉の刃が胸に突き刺さったまま抜けない。曰く、「君には才能が無い」。直裁的すぎて反論する気力も失せた。
はぁ。もう一度溜め息を吐いて、コタツの天板に突っ伏した瞬間、ピシリと顔面を叩かれた。目だけを上げれば視界に映るのは縞々シッポ、先端だけが白い。猫のモモだ。コタツの上で寝そべって、優雅に暖を取っている。机の上に登るなと何度言っても聞きやしない。コップは蹴倒す。紙は噛みちぎる。やりたい放題の女王様だ。子育てならぬ猫育てを間違ったと反省しても、もはや手遅れなんだろうなぁ。子猫の頃はあんなに可愛かったのにさ。
「良いなぁ、アンタは。人生楽しそうで」
思ったことを言えば、またモモご自慢の長いシッポでぽふぽふと叩かれた。その柔らかな感触は心地良い。
「食べてすぐに横になったら牛になるって言うけどさ、どうせだったら猫になれれば良いのにね」
暖かなコタツが睡魔を連れて来ていた。絵を仕上げなければ卒業が危ういのだが、昨日あれだけ酷評されればやる気など出てくる筈もない。もうあの絵を完成させることは出来ないかもしれないなと思う。そのまま大学を中退してフリーター、なんて未来も近いのかもしれない。あーあ、絵で食べていこうだなんて私には叶わぬ夢だったのかなぁ。
「ねぇモモ、私も猫になりたい。アンタみたいな飼い猫なら、人生ラクそうだもの」
そんなことを呟きながらも瞼は勝手に落下しつつある。視界が睡魔に閉ざされる直前に見えた、モモの大きな緑の瞳はまるで、「本当に?」と問うているように思えた。
目を開けて最初に見えたのは黒と白のツートンカラーの猫の手。あれ、モモは三毛猫だから、これはどこの猫なんだろう。手を伸ばして捕まえようとしたけれど、実際に動いたのは黒白柄の猫の手の方だった。えっと、えーっと、え?
慌てて立ち上がろうとして、背中から床に落ちた。コタツがデカイ。よく見知った和室が馬鹿みたいに広い。固まった私の上から降ってきたのは「何してるの」と言う冷たい声。コタツの上で優美に座っているのはモモだ。
「猫になりたかったんでしょ。良かったわね、叶って」
「モ、モモが大きい!」
「私が大きくなったんじゃなくてアンタが小さくなったのよ、猫になったんだから」
呆れるように言われて驚いた。目の前には白黒の小さな猫の手が二つ。立ち上がろうにも体が上に伸びない。コタツが高い。天井はもっと高い。照明はすごい遠い。全てが大きい。つまり。つまり?
「え、私、本当に猫になってるの!? ええええええ?」
「はぁ、猫になっても飲み込みは悪いままなのね。あー、ヤダヤダ」
二本脚で立ち上がろうとしてまた転けた。猫は四つ足で歩くものよ、とのモモの言葉に従って恐る恐る四本の足を使って立ち上がる。どうも私は白黒のブチ柄の猫のようだ。肉球は黒。お尻から垂れるシッポをどうしていいか分からず、とりあえずピンと立ててみる。
「美しくないわね」
そう私を評してくれたのは言わずと知れたモモ。ツンツンした、という形容詞が似合いそうな様は相変わらずだ。けれどその女王様の素敵な三毛柄はいつもと違って見える。他の物も全部少し色彩が違うような? 色が足りない気がする、んだけど気のせいなんだろうか。
「案内してあげる」
違和感の答えが出るより先に、モモが歩き出した。優雅に揺れるシッポは「付いてこい」と言っているのだろうか。
「いや、案内と言われても私、生まれてからずっとこの家に住んでるんですけど」
「私の秘密基地を教えてあげようと思ったのに?」
振り返りも立ち止まりもせずに女王様は威厳たっぷりに言う。断るという選択肢などなさそうだ。仕方なしに付いて行けば、たどり着いたのは階段。デカイ。異様な圧迫感。女王様はタンタンと軽やかに登っていくが、この自分よりも大きな段差をどう乗り越えていいのか全く分からない。とりあえず後ろ足だけで立ちあがり、前足を段の上に掛けた。グッと力を入れれば爪が出たので、それを打ち込むようにしてよじ登る。あぁ、階段に傷をつけてごめんなさい、お母さん。
一段クリアーすれば、同じようにしてもう一段。三段も上れば結構な高さだ。こんな階段を鮮やかに登るなんて、女王様の運動神経は素晴らしい。前からモモの運動神経は良い方だと思っていたけれど、今ならば心の底から褒め称えることが出来そうだ。
やっとの思いで最後の段を登りきり、廊下に倒れる。床と同じくらい冷たいモモの声が、またしても上から降ってきた。
「階段一つにどれだけ時間かけてるのやら。待ちくたびれたわぁ。ま、アンタのへっぴり腰は見ててちょっと面白かったけど」
廊下に置かれた電話台の上、姿勢良く座った様は置物のようだ。モモはふわぁーとあくびをすると、ストンと床に降りた。「こっちよ」、そう誘導された先は妹の部屋。どうも秘密基地は妹の部屋のクローゼットにあるらしい。
「この上にあるの」
モモが視線で指すのは上も上、クローゼットの天井近くまで迫った本棚の上のようだ。そこに至る道は棚板を渡るしかない。その高さはそれぞれがさっきの私が必死に登った階段の三倍はある。
「ムリだよ。こんなの登れないよ」
「なによ、ここまで来たのに私の秘密基地を諦めるって言うの? 猫なんだからこれくらい平気よ」
女王様はご機嫌斜めだが、階段でさえあれだけ苦労したのだ。その三倍以上の段差などムリに決まっている。ふるふると必死に首を振れば、モモは溜め息を吐いて諦めてくれた。つまんない猫ね、なんて捨て台詞を頂いたがそれくらいは謹んで受けよう。
クローゼットから出て、妹のベッドによじ登る。さらに後ろ足だけで立ち上がって、何とか出窓にたどり着いた。そこから見える景色は人間の頃と変わらない筈なのに、やはりどこか違って見えた。私の心境が変わったせいだろうか。何かが足りない気がするのだ。先ほども感じた違和感。いつも馴染んでいた物なのに、無くなると分からない。それはいつも通る道にある店が潰れた時に、それが何の店だったか思い出せないのと似ている。感じるのは違和感だけ。違うことは分かるのに、けれど正解にたどり着くことが出来ない。形容できない気持ち悪さ。
「変な顔してどうしたのよ」
気が付けばモモが隣に来ていた。窓に映る姿は、三毛猫と黒白猫。猫になった実感は未だに持てないままなのだけど、こうして見るとどっからどう見ても立派な猫だ。私も、モモも。
陽が傾いていく。赤みを帯びた太陽が見たくて、空を見上げた。そして、そのまま固まった。私の視線の先では、太陽が黄色になっていた。本来なら茜色に染まる夕日が、黄色! 何度瞬きしても色は変わらない。明るく強く、黄色に輝いている。
「ね、ね、ね、モモ! 太陽の色、おかしくない!?」
ついつい人間だった時の癖で人差し指で太陽を指そうとして、盛大にバランスを崩した。窓枠に顔面を打ち付ける私を冷たく見遣ってモモが言う。
「別に。いつも夕方はあの色じゃない」
「え? だって黄色いよ!?」
「夕日は黄色いものでしょ」
私の中で混乱が吹き荒れる。モモは普通だと言った。でも私は普通じゃないと思う。私とモモの最大の違いは猫としての年期の入り方だ。
つまり、つまり、これは猫には普通のことなのだ。きっと、あぁ、そうだ。私の中で結論が形成され始める。恐らくは猫と人間で色の見え方が違うんだ、たぶん。
何度も感じていた違和感の正体にやっと辿り着けた気がした。そっとモモの赤色の首輪を見たけれど、それは今の私には黄色にしか見えない。猫の世界に赤色は存在しないのだ。赤と青と緑。それが色の三原色だと教わったけれど、そんなのは人間だけの話だったようだ。
赤の欠けた色彩。窓の外では陽はますます傾き、町並みは夕日に照らされてゆく。人間の目にはそれはいつもの赤い夕焼けないのだろう。けれど私には初めて見る、圧倒的な黄色の洪水だった。光を撥ねる青い瓦は、淡い水色に。向かいの洒落たオレンジの外壁は鮮やかなイエロー。モスグリーンの車は灰色を帯びた黄緑。地面に縫い止められた漆黒の影さえも黄色を帯びて見える。それ程までに凶暴な色だ。
「外、歩いてみたかった」
ぽつり、と言ったのはモモだ。黄色に見入っていた私はその声に振り返った。きっと彼女には見慣れた黄色い夕焼けだろうに、モモは目を細めて見つめていた。
「外に出てみたいってよく思ったわ。もう昔の話だけど」
そう言えば、モモは座敷猫だった。それは私がモモを飼うと決めた時に一緒に決めたことで、モモが選んだ訳じゃない。外は病気の感染や交通事故の危険があるからと、私がモモを完全室内飼いにすると決めたのだ。
猫のモモは飼い主である私の思惑を正面から受ける。外に出られるか出られないか、不妊手術をされるかどうか、食事は、予防接種は、首輪は、お風呂は。言い出したらきりがないほど多くのことを、人間に勝手に決められている。
……私は人間で、モモよりもずっと多くのことを自分の手で選べたのに、どうしてその権利を自分で手放してしまったのだろう。選択の自由は、その選択肢が多ければ多いほど、つまり自由であるほどに面倒だ。何をしても良いと言われれば困ってしまう。けれど、その面倒こそが自由の代償なんだろう。
描きたいな、と思う。この赤色が欠けた世界を。この夕日の黄色に支配された町並みを。モモが毎日見る、このありふれた夕焼けを。けれどそれには人間の手が必要だ。筆を持てなきゃどうにもならない。
どうやったら人間に戻れるだろうか、そもそもどうやって猫になったんだっけ? 気がつけばそんなことをグルグルと考えていた。さっきまでは猫になりたいと言っていた癖に、何と変わり身の早い。そんな私を、至近距離からモモが真っ直ぐに見ていた。何? そう問う前に、三毛柄の気高い女王様はその長いシッポを優雅に振ると、そのままポカリと私の鼻面を強烈に叩いた。
目を開けて最初に見えたのは、見慣れたいつもの天板だった。慌てて起き上がろうとして、背中から床に落ちた。コタツはいつものサイズだ。よく見知った和室もいつもの狭さ。床の上で固まる私の上から降ってきたのは「にゃー」との鳴き声。コタツの上で優美に寝転んでいるモモの声だ。
何とか床から這い上がって、モモを見る。不機嫌そうにシッポを振った彼女は、そのまま目を閉じた。
夢だったみたいだ。全てはうたた寝の間の短い夢。ガリガリと頭を掻く。猫になった自分。階段に感じた恐怖。黄色い夕焼け。何とも強烈な夢を見たものだ。そう思えば自然と笑いが出た。私の想像力もまだまだ捨てた物じゃないかも。
モモのように飼われるのは確かに楽かもしれない。食事も出るし、住むところの保障もある。けれど私は人間で、せっかく多くの選択の権利を与えられているのだから、それを自分から手放すのは惜しい。そっと手を伸ばしてモモの頭を撫でる。彼女は私に飼われていて幸せなのだろうか。夢の中で聞いておけば良かった。
思い出すのは夢で見た凶暴な黄色い夕焼け。描こうか。どうせ今まで描いていた絵は昨日、教官に全否定されてしまったのだし、モチーフを変えても問題はないだろう。思い立ったが吉日、と大学に行くために玄関に向かう。振り返れば珍しいことにモモが見送りに来ていた。
「あのね、モモ。やっぱり外には出してあげられないよ」
そう話しかければ「どうだって良いわよ」と言いたげに不機嫌にシッポを振られた。その仕草が夢でも見た傲慢な女王様そのままで思わず笑ってしまう。確か「もう昔の話だ」って言ってたっけ。
「あの夢はモモが見せてくれたの? ありがとうね。夢の中で一緒に見た夕日を描こうと思うよ。ちゃんとモモのことも私のことも描くから安心して」
にっこりと笑って言えばあくびを返された。傍若無人の猫様らしくて結構なことだ。さてさて、黄色い凶暴な夕焼け。そんな絵を描いたら、あの教官は何と言うだろうか。「才能がない」以上の貶し言葉が聞けたら面白いかもしれない。
心も軽やかに玄関を潜る。夢一つでここまで心変わり出来るのだから私もたいがい単純だ。大切なのは絵の評価じゃない。与えられた選択肢を大切に自分で選ぶことだ。例え絵の仕事に就けなくても、そこで私の人生が終わる訳ではない。
完成した絵の隅には、黄色い夕日を見上げる三毛猫と白黒の猫がきっと。
猫と人間の眼では原理(?)が違う、なんて良く聞く話から。
実際に猫にはどんな世界が見えてるんでしょうねぇ。