ジロ・デ・奥多摩 その2
――翌日、
「じゃあ、準備はいいかな?」とおじさん。
「はい」と俺。
「おう」と司。
あれ、なんかもっとビビってるかと思ったら結構勇ましい司。
「ってか、おじさん、俺たち春休みだからいいけれど、おじさん、そんなに平日休んでてもいいんですか?」
「あー、大丈夫、年度末で有給余ってたから、まとめてとったんだ」とニコニコ顔のおじさん。
だったらいいですけれど、なんか連日付き合わせていただいてすみませんねー。
それにしても、坂が苦手が司が今日はなんだか自信一杯だ。のんきに鼻歌なんか歌ってるけど大丈夫ですか?
「じゃあ、荷物確認」とおじさん。
「エナジーバー持ったー?」
「ハーイ」
「パワージェル持ったー?」
「ハーイ」
「小銭持ったー?」
「はーい」
「ボトルはちゃんと2本持ってるよねー」
「はーい」
「ってか、いつもよりも重装備ですね」と俺。
「うん、雪は解けたとはいえ、まだ上の方は寒いからね」
俺たちはおじさんから借りたふわふわインナーの肌触りが心地よい。
「でも、俺もヒートテックもってますよ」と先日ユニクロで買った似たようなものを持っていることを伝える。
が、「あー、ヒートテックは普段使いはいいんだけれどね、自転車で使うと熱くなり過ぎでビショビショになっちゃうんだよ。で、濡れちゃうと今度は途端に保温機能がなくなっちゃうんだよねー」
なるほど、さすが、実際に使った人の話は深い。
「これはヒートテック付いてないけれど、汗をすぐに乾かしてくれて、自転車乗るにはちょうどいいんだ」
すると、「ってか、親父、こんなにパワーバーやパワージェルとか必要?」と司。
「今日、半日のライドで6000~7000カロリーくらい消費するからハンガーノックになったら怖いしねー」
「ああー」と司。
ハンガーノックとは体中のグリコーゲンが枯渇することだ。
以前司と羽田に走りに行った時、司が朝飯抜いて走ってたら、川崎に入ったあたりでいきなりふらふらになった。
一瞬、貧血かと思ったんだけど、時間がなくって朝飯抜いたことを知ってすぐにオレンジジュースを飲ませたら、ものの5分で回復した。
本当に車がガス欠になったみたいに途端にパタンと足が止まるんだ。
「司がこのまえハンガーノックになった時、気温がそこそこだったからよかったけれど、夏場だったら一発で熱中症になってたからな。気を付けろよ、ホントに」とおじさん。
どんなに緩く走ってても、100㌔のライドだとぶっ続けでサッカーの試合を2試合くらいするカロリーを消費することをその時おじさんから教えてもらった。
ちなみに大人のプロの選手が1試合で消費するカロリーが1500㌔カロリー前後。
ちんたら多摩川沿いを羽田ー八王子間で走るよりも消費カロリーが低いので驚いてしまった。
本当にロードバイクってあほみたいにカロリーを消費するのだ。
もっともサッカーは90分で、自転車は5時間はかかる。
「ってか、6000~7000カロリー消費するんですか?」と俺。
「ああ、大体いつもそのくらいだな。100㌔走って1000m登ると。まあ、途中途中でカロリー補給すれば大丈夫だから」とおじさん。
すると、司はうきうきしながら「今日もいっぱい体重おちるかなー」と言ったところ、
「うーん、瞬間的にはたくさん落ちるけれど、脂肪はあんまり燃焼しないぞ、今日の運動負荷だと」とおじさん。
「なーんだ、残念」
「でも、いいトレーニングになるし、なんてったって車も人もほとんどいないから、乗ってて楽しいぞ」とおじさん。
そりゃ、そうだ、こんな朝早くっから奥多摩に行くもの好きなんて、自転車乗りくらいしかいないもんな。
ちなみに今、朝の6時になったところです。
「では、出発進行ー」とおじさん。
そうして俺たちはソロソロと住宅街の中を静かに出発した。
新滝山街道に出ると、俺たちはそのまま西に向かい、サマーランドを横目に見ながら、秋川を渡る。そしてしばらくすると五日市街道にぶつかった。
あとはそのまままっすぐ走ると、5㌔ほど走ったところで武蔵五日市の駅に到着。
なんか随分と立派な駅舎だと思った。ここって五日市線の終点だから乗り換えとかないんだよね。
それから俺たちは駅に向かって左に曲がると、徐々に傾斜が付き始めてきた。
「ここらへんから登り始めるからねー」とおじさん。
「はーい」と俺たち。
駅前通りの商店街を通り抜けるが、当然まだこの時間にはどこも店は開いていない。
朝日を背中に浴びながら、さあいよいよヒルクライムの始まりだ。
と、思ったら、おじさんがセブンイレブンに入っていった。あらら、ちょっと拍子抜け。
「はーい、一旦休憩、休憩」
「えー、そんなにまだ疲れてないよー」と司。
まあ、俺もそうなんですけれどね。
「いや、ここが最後のコンビニなんだよね。ちなみにこの先40㌔コンビニないから」
「マジっすか?」と俺。
「うひゃー」と司。
そうなんです。山って、お店無いんだよね。そりゃそうだ。
ここでおじさんは最後の買いだし。
オレンジジュースにヴィダインゼリー、ついでにおにぎりも購入しました。
コンビニの駐輪場に自転車を止めて、みんなでおにぎりを食べる。
見ると俺たちと同じ格好をした自転車乗りがあちこちにいる。みんなここが頂上までの最後のコンビニだと知ってるんだ。
鮭のおにぎりを食べながら、「頂上までどのくらいかかるんですか?」と俺。
「うーん、3時間か4時間くらいかなー?」とおじさん。
「あー、じゃあ、今7時だから家の帰れるのは夕方?」と司。
「いやいや、帰りは下りだから頂上からだと1時間ちょっとで家に着くぞ」とおじさん。
「そんな感じなんですか?」と俺。
「うん、山は行きは大変だけれど、帰りは楽よー」とおじさん。
「ほほーう、」と司。「じゃあ、お昼に例のハンバーグ屋さん行きたいなー」と。
あ、いい提案ですね上司。大賛成です。
「いやー、実はさ、このまえ美味しいステーキ屋さん見つけたんで、帰ったら、そっち行かない?」とおじさん。
「ステーキかー」といきなり目がキラキラ光る司。
おいおいどうしたハンバーグ隊長、いきなり浮気ですか?まあ、俺も大歓迎なんですけどね。
というわけで、頂上目指してGO!!
すると、コンビニを出るともうあっという間に山の中。いよいよ山岳って感じがする。
もっとも、まだ勾配はそんなにでもなく、順調なペースで自転車を走らせる。
「ここら辺の山岳のコースだとここが一番初心者向けなんだよねー」とおじさん。
「勾配が緩いからですか?」と俺。
「いやいや、この後結構きつい坂がやって来るよ。それよりも、ほら、来た」
すると俺たちの背後からバスがやって来る。
「ここ、路線バスが走ってるんだよ。だから、最悪、自転車がパンクしたり動けなくなっても、バスで帰ってこれるんだ」
「なーるほど」と俺たち。
「山で一番怖いのは、自転車が壊れて動けなくなっちゃうことなんだ。街中だったら別に平気なんだけれど、山の中だと普通に遭難するからねー」とおじさん。
遭難という言葉を聞いてさすがにゾクっと寒気がした。
そうだ、自転車ってその気になればあっという間に100㌔先まで行けるけれど、その先で自転車が故障したらと思ったらちょっと怖くなってきた。
「だから、自転車のメンテナンスは日ごろからしっかりしてないといけないし、パンクだって自分でちゃんと治せないといけないんだよ」
パンクの修理に関してはおじさんにしっかりと教えてもらったけれど、果たして、出先でパンクしたらちゃんと自分一人で治せるのかちょっと自信がない。
そんなことを考えているうちに、
「じゃあ、そろそろ坂がきつくなってくるぞ」とおじさん。
檜原村役場を過ぎて、橘橋を左に曲がったあたりから、一気に勾配がきつくなってきた。
司もここら辺からきつくなってくるのかなーと思ったけど、何とかついてきている。ガンバレ司。
そのままじんわりじんわりと体力を削られてくる。
多摩サイとか江の島とは自転車に乗っている感覚が全然違う。常に一定の負荷を感じながら、体温がどんどんと上昇してくる。心拍計を見ると160を超していた。
「大丈夫かー、みんなー」とおじさん。
「大丈夫ー」と司。ほんとに大丈夫かお前。見ると斜度計は10%を超していた。
実は昨日おじさんにお願いして、アナログの斜度計を自転車に付けてもらったのだ。
自転車屋さんで1000円くらいで売っている、蛍光の水の入った水平計のようなやつ。
こんな便利なものもあるんだねー。
すると、司、いきなり笑いだす。
「ふっふっふっふっふ、どうやら、ここら辺で秘密兵器の投入だな」と司。
おいおい、どうした?疲れすぎて脳みそぶっ飛んじゃったかな?大丈夫か?
「出でよ、トリプルクランク」そう言うと、威勢の割にはずいぶんと地味に、左手の中指でシフトダウンのレバーをカチっと倒す。
アレ、司、お前、まだアウターにチェーン掛けてたの?
いやいやいや、んなわけねーよな。
ここですみません、ちょっと専門的な話なのですが、自転車ってギアが後ろと前にあるのですね。
後ろはスプロケって言って、ギアが大きくなるほど軽くなるんだ。で、司も俺も後ろは9枚なのね。
一番重いのは14で一番軽いのは25なんだって。おじさんに教えてもらった。
なにやら、中学生には重いギアを踏むと膝に負担が掛かるからルールで決まってるんだってさ。すごいねー。
んで、前はフロントギアって言って、インナーとアウター、小と大が二つあるんですよ。
こっちはスプロケと逆で大きい方がアウターって言って、重いんですよ。平地や下り坂でスピード出したりするときに使うの。
で、小さい方はインナーって言って、走り出しの時や坂道なんかはこっちなのですね。
司ももちろん坂道に入ってからインナーを使ってるはずなのに、何故にここでさらにフロントをシフトダウンできるのだ?と思ったところで、
「いやー、実は、昨日、司にもっと軽いギアなーい?と頼まれて、フロントをトリプルギアにしたんだよ」
「えっ、フロントトリプルなんてあるんですか?」
「うん、マウンテンバイクとかフロントトリプル普通にあるし、ロードバイクでも探せばあるよー。まあ、でも大体が前は2枚だけどねー」とおじさん。
なーるほど、ってことは、司は今まで真ん中使ってたのを、今、フロントを一番小さいギアにしたんだ。
「ちなみに、後ろのギアも一番大きいの27にして山岳用のスプロケにしてあるんだよ」
「へー、そうなんですか」
「うん、ちなみに軽いギアのことを通称乙女ギアっていうんだよね。女の子でも山をスイスイ登れるから」
「ほほーう、じゃあ、俺やおじさんの乗ってるギアはなんていうんですか?」
「男ギアっていうんだよ」
「ほほーう、じゃあ、俺たちは男ギアで頑張りますか」
俺はそう言うと一気にダンシングに入る。見ると斜度計は12%になっていた。キッツー
「おいおいおい、ちょっと待て、ちょっと待て」
なんだか後ろの方で司の声がする。
見ると司、足は動いているんだけれど、一向に前に進まない。
まあ、ギアが軽くなった分そりゃ、前に進まなくなるわな。
「司ー、ゆっくり来ーい、上で待ってるからー」とおじさん。
「じゃあ、俺も」そういっておじさんの後ろを付いてく。
「ちょっ待てよー」後ろの方で司の声が聞こえた。
――1時間後、
俺はおじさんと一緒に自動販売機の前でジュースを飲む。
どうやら、ここの自動販売機がゴールまでの最後の自動販売機らしい。俺たちは糖分のたっぷり入ったオレンジジュースを飲む。
普段は100%のオレンジジュースしか飲まないが、まるで、狙ったかのようにゴールまでの最後の自動販売機には糖分たっぷりのジュースがたくさんある。
しかもあるのは水かスポーツドリンクか甘味料たっぷりのジュース。うん、購買層が自転車乗りばっかなのを知ってるね。
俺たちがジュースを飲みながら、「司、遅いなー」とか言ってたら、足をシャカシャカ回しながら恨めしそうな顔して司がやって来た。遅せーなー、オイ!
「先、行きすぎだろ」と司。
「いや、お前が遅すぎだろ」と俺。
「まあまあまあ」とおじさん。
「一番大きなギアでも、あまり遅いペースだと逆に疲れるんだよねー。まあ、司も無理しないで自分のペースで来なさい」とおじさん。
「はーい」と納得しない表情の司。おじさんから糖分たっぷりの果汁30%のオレンジジュースの缶をもらう。
「じゃあ、ここからしばらく行くと、料金所跡があるから、次の集合場所はそこな」そう言っておじさんは先に行く。
「じゃあ、あとで司と一緒いきまーす」と俺たち。
「いっちゃったー」と司。
「まあ、おじさん、俺たちのペースに合わせてくれてるんだからいいじゃん」
「まあな」とジュースを飲みながら司。
「ってかさ、トリプルクランクってどうなの?」と俺。
「いや、すごいよ、マジで。スピード出ないけど、これならどんな坂道でも行けそう」と司。
「ちょっと乗らしてよ」
「いいよ、乗ってみ」と司。
そんなわけで、司の言うところの秘密兵器のトリプルクランクがインストールされたCDDA9山岳仕様に乗ってみる……と、
「うわーすげー、なにこれ、シャカシャカ回るわー」とそんなことを言いながら斜度10%越えの坂をスイスイ上る。
俺もおじさんに頼んでみよっかなーとそんなことを思ってしまった。
俺たちは旧料金所で待っていたおじさんと合流すると、そのまま休むことなく、一気に今日のゴール地点である都民の森を目指す。
おじさんが、「今、標高710m。ゴール地点は980mだ。一気に登ってごらん」と言った。
「おっしゃー」俺はそう言うと、おじさんや司をおいて、ペダルを踏み込む。
後ろの方で、「あんまり無理するなよー」と司の声が聞こえてきた。
さすがに以前はお金を取っていただけあって、奥多摩周遊道路は奇麗に整備されている。そしてなかなかいい傾斜だ。
俺は最後の力を振り絞って、一気にダンシングで駆け上がる。
ガードレールの先は断崖絶壁、でも、かなり立派なガードレールなのでそんなに怖さを感じない。
ゆっくりとしたカーブを曲がる。山側は奇麗に整備されてところどころに芝生がある。こりゃ、絶景だわ。行けるところまで行っちゃおう。
みると心拍計は180を超えているが、まだまだいけそうだ。俺はシッティング(座りこぎ)とダンシング(立ち漕ぎ)を交互に繰り返しながら、坂を登り続ける。
坂の先はちょうど太陽と重なっている。坂の上の雲ならぬ坂の上の太陽だ。
俺は太陽に向かってペダルを踏み込む。そして大きなカーブを曲がると、目指すゴールの檜原都民の森の休憩場が……斜度系を見ると13%。今日一番きついけど、俺はそこから一気にダンシングを開始する。
ああ、これ、プールでゴール前、残り15mのノーブレスの時に似ている。
足をペダルに固定され、体中の体力をこれでもかと搾り取られる。
でも、まだ、行ける。
俺はそう思いながら、最後の直線でギアをアウターに掛けた。
今まで感じたことのないような負荷が全身に掛かる。
でも、それが気持ちいい。
俺は下のハンドルを握って、ゴール前のスプリントでもするかのように、青信号に飛び込んだ。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、目の前がチカチカする。
酸素が足りない、空気が欲しい、もっと空気、もっと空気。
俺はそんなことを思いながらハンドルに体をもたれ掛けさせながら息をついていると。
「ブラボー」とそんな声が聞こえたと思ったら、辺りからパチパチと拍手の音が聞こえた。
みると、同じような自転車乗りの人たちから、たくさんの拍手をして貰っていた。




